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I Love Books! (てらこや新聞150-152号 たけがわのコーナーより)

BOOK84原田マハ

「いちまいの絵 
生きているうちに見るべき名画」
(集英社新書)

「○○の秋」に当てはまる「○○」は、人それぞれ違うことでしょう。私自身は、「○○」に当てはまるものがない今年の秋…特に何もしていないなぁというのが、悲しいけれど実情です。

今回ご紹介するのは、このコーナー初めての 新書ですが、作家はよく登場している原田マハさんです。ニューヨーク近代美術館に勤務経験のある原田さんが選ぶ名画を紹介しています。

原田さんが選ぶ名画の中には、私の知らないものもありましたが、作品とともに、その芸術家の 簡単な略歴や解説が書かれていて、なぜ原田さんがその絵を名画に選んだのかについて、それぞれ説明してくれているので、とてもわかりやすい絵画入門書のような一冊になっています。簡単ながらも、芸術家の気質や性格などを知った上で絵を見ると、最初に見たときとはまた違う見方ができて、受ける印象も変わり、とても楽しい絵画巡りができたような気がします。

興味をそそられる展覧会はいくつかあるものの、名古屋にすらそうそう行けない私が、展覧会を見に東京にまで行くことはほぼ不可能です。「あぁ…また今回も行けなかった」と、意中の展覧会がまだ開会中でもすでにそう思っている私ですが、 今回ご紹介する本でひとまず満足しています(^_^;。いつか実物を見る機会に恵まれれば良いなぁ…と夢見ていられることもまた幸せなことかもしれ   ません。

( K.T.)



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by terakoya21 | 2018-02-26 08:30

宇治だより (てらこや新聞150-152号 下西さんのコーナーより)

宇治だより②
「天王山から光秀首塚までをウロウロの巻」

6月16日天王山(京都府乙訓郡大山崎町)に登ってきました。

あの天王山、1582(天正10)年本能寺の変の後、明智軍と秀吉軍が戦った山崎の合戦の舞台となった場所です。けっこうな山道でしたが、高さはたった270m。「年ごろ、おぼしつること果たしはべりぬ。」(宿願達成)の心境です。

光秀は…西国から駆けつけてくる秀吉軍を迎え撃つには山崎のあたりが最適と考えた。そこは、京・大坂のほぼ中間点であり、天王山と淀川とにはさまれた隘路(あいろ)となっていて、防戦するにはもってこいの地形だったからである。実際の山崎の戦いといわれている両軍の激突は十三日であるが、その前日、早くも山崎周辺では両軍の先鋒同士の小競りあいははじまっていた。…いよいよ合戦当日である。光秀は下鳥羽(しもとば)から御坊(おんぼう)(づか)に本陣を移し、天王山麓を進んでくる秀吉軍に備え、円明寺川の自然堤防背後の低湿地に布陣した。【小和田哲男著『明智光秀と本能寺の変』(PHP文庫)】

京都府(山城国)と大阪府(摂津の国)の境に位置するの山崎・天王山は、桂川・宇治川・木津川の三川が合流して淀川となる付近に面しています。そして、対岸は(いわ)清水(しみず)八幡(はちまん)(ぐう)のある男山(八幡市)です。

狭い平野部分に、JR京都線(東海道本線)、東海道新幹線、阪急京都線、国道171号(旧西国街道)、など幹線がひしめく交通の要衝です。明智光秀が、中国地方から戻ってくる豊臣秀吉軍を待ち伏せするのに最適な場所でした。

天王山にはいくつかのハイキングコースがありました。その一つは、JR山崎駅近くの登山口から始まります。チェックポイントもいくつかあります。まずは宝積寺。ここは山崎の戦いでは秀吉が本陣を置いたところです。山門には「金剛力士像」が立ち、秀吉が一夜で建てたと伝わる「三重塔」、秀吉が腰かけたといわれる「出生石」もありました。一説では山(さき)(しろ)一部(いちぶ)にもなったとのこと、境内(けいだい)(ひで)(よし)()くしです。

六合目(ろくごうめ)あたりに青木(あおき)()(だに)展望広場があり、ここから大阪平野が一望できます。うっすらと大阪城らしき形を認めることができました。

七合目あたりには(はた)立松(たてまつ)展望台があり、ここからは天王山の戦いで、両軍が布陣した「地図」が掲示されていました。旗立松とは、山崎の合戦のおり、秀吉がその存在を示すべく千成ひょうたんの旗を掲げた場所にちなんでいます。

眼下の風景は、縦横に立体交差した道路や鉄路がみえて、ジオラマのようで、ダイナミックですが、往時の光景を想像するべくもありません。実際の合戦場も展望台から目星を付けることができました。

山中にある(さか)(とけ)神社(じんじゃ)の脇を通って天王山山頂です。ここは山崎城跡でもあり、秀吉が大坂城に移るまでの短期間、本拠としていました。

山頂と言っても展望がきくわけではなく、城跡と言っても山城研究家ではないので城の縄張りを思い描けるではありません。が、天王山山頂の標識の前に立つと、歴史の舞台に来れた!という感慨がこみ上げてきました。

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平日だったので、登山中に出会った人は十名くらい。歴史的な地を踏破する目標を持った人、トレーニングのために日常的に登っている人、さまざまなハイキング模様でした。

ハイキングコースの途中には、「秀吉の道」と題する陶板絵図六枚が、点在しておりました。原画は日本画家・岩井弘により、解説文は堺屋太一によるものでした。「本能寺の変」「中国大返し」「頼みの諸将来たらず」「天下分け目の天王山」「明智光秀の最期」「秀吉の天下人への道はここからはじまった」というテーマで、戦国時代絵巻が繰り広げられていました。

ここに来るまで、山崎の合戦は天王山の山中で行われたと思い込んでいました。山道を歩きながら、6月の暑さの中、鎧兜のいくさ支度では歩くだけでも大変…と思っていましたが、それは大間違いで、天王山は秀吉が陣地を構えた場所で、実際の合戦は、平野部で行われた…ということを、堺屋太一さんの文章で知りました。

光秀の敗走について、小和田哲男さんは著書『明智光秀と本能寺の変』(PHP文庫)で、次のように述べています。



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光秀が、勝竜寺城を脱出したあと、つぎにどのような手を考えていたのかはよくわからない。ただ、このとき、(しょう)竜寺(りゅうじ)(じょう)を出て、下鳥羽に至り、さらに大亀谷を経て山科(やましな)小栗栖(おくりす)に至っているので、近江方面をめざしていたことが考えられる。(略)小栗栖の竹藪を通過中、落ち武者狩りをしていた農民のくり出した竹槍で光秀が殺されたとき、側には、近親の溝尾庄兵衛ら五,六人しかいなかったといわれている…

7月27日、明智光秀の最期を遂げた場所といわれる「明智(あけち)(やぶ)」(京都市伏見区)に行ってきました。本経寺の裏側にあたり、細道に連なっている民家が途切れた場所から、もっと細い小道を「明智藪」の標識に導かれて歩きました。ほの暗い小道に藪蚊を手で払いながら歩くと、「明智藪」の駒札(説明書き)がありました。ここは、四百年以上も前に、本当に光秀がこの道を通ったのかもしれないと、思い浮かべることができるそうな不穏な場所でした。(ここの住人には失礼かもしれませんが。)


京都市東山区梅宮町 (三条通白川橋下ル東側)に明智光秀の塚(首塚)があります。地下鉄東西線東山駅で降り、白川に沿って南に(知恩院の方へ)5分くらい歩くと、半間ほどの小さい(ほこら)が見つかりました。祠には「光秀公」と書いた扁額がかかり、ちっぽけな五重の石塔があり、戒名が刻まれた石柱もありました。8月10日に訪ねたので、ちょうど数輪の桔梗が咲いていました。白川沿いの小道は柳の木が枝葉を風になびかせ、気持ち良い散策道になっていました。塚の近くに「(もち)(とら)」というお菓子屋さんがあって、「光秀饅頭」を売っていました。光秀の桔梗の家紋の焼き印を押したまんじゅうは、白みそあんと粒あん、両方ともおいしかった!


塚については、いつ建ったのか、だれが建てたのか、どうしてこの場所なのかは判然としません。駒札には、最期を遂げた光秀に、「家来が、光秀の首を落とし、知恩院の近くまできたが、夜が明けたため、この地に首を埋めたと伝えられている」と書かれていました。

「天王山に登りたい」から始まった散策は、図らずも光秀のその後をたどることになりました。信長を倒した反逆人・明智光秀は、江戸時代に入って密かにではありますが、きちんと弔われていました。


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by terakoya21 | 2018-02-25 08:30

まえがき (てらこや新聞150~152号より)

The first and best victory is to conquer self.”
まず自分に打ち勝つことが、最善の勝利である。


プラトンの言葉です。

今年も受験シーズンが始まりました。受験は生徒たちの自分との闘いです。その闘いを乗り越えられるための訓練が日頃の学習です。

模試の結果や判定、そして、人と比べたり、先生の一語一句に一喜一憂したりする生徒や親御さんがいますが、それを含めて自分との闘いです。

私たちは、私たちがすべきサポートをしながら、見守る姿勢を続けたいと思っています。春に、彼らの努力に見合った花が咲くことを祈りながら。

今年ももう少し、どうぞよろしくお願いいたします。 Y.K


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by terakoya21 | 2017-12-30 08:30

あとがき (てらこや新聞147-149号 より)

「てらこや新聞」147-149号の発行です。連続する合併号、そして今回は 3号合併です。忘れず原稿を送ってくださる連載のみなさんに感謝いたします。ありがとうございます。そして、これからもどうぞよろしくお願いいたします。

夏休みが終わりました。

昨年の秋から、増え続ける仕事に、あまり深く考える時間もないまま、気が付いたらまた夏を迎えていました。そして、この夏は公私ともに考えさせられること満載の夏となりました。

寺子屋かめいを初めて18回目の夏ですが、 初めてもう少し夏休みが続いてくれることを願いました。こんなに忙しく、体力の衰えを思い知る夏なのに、もう少しだけ夏休みを続けさせてほしいと願うことが何度かあったのです。

それは、成績が悪くても、態度が少し悪くても「学ぶ」ことを素直に欲している生徒たちが多かったからです。そして同時に、現代の子どもたちの「学び」を阻むものはやはり、大人の思い込みだと感じました。

「学習」に大切なのは、「学習姿勢」であることを忘れないでほしいと思います。その次に 態度・・・。そう思います。子どもたちが「やる気」がないのではなく、どこから始めればよいのかわからずに途方に暮れていることが多く、そして、次から次へと課題を与えたり、 「文武両道」の掛け声のもと、何もかもを欲する大人たちにせかされ続けたり、「やる気」を出すことが憚られることが多いのかもしれません。

私は生徒たち皆にとっての新学期が始まった91日を、父の墓参から始めました。父が  私に口を酸っぱくして言い続けた

Teaching is learning. 教えることは学ぶこと

心にしみる今日この頃です。おそらく子育ても同じです。子どもたちを育てることにより、 私たち大人も成長することを忘れずにいたいと思います。

これからもどうぞよろしくお願いします。

(Y.K)


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by terakoya21 | 2017-11-28 08:30 | 新聞147-149号

Howdy?! (てらこや新聞147-149号 竹川のコーナーより)

~ 夏休みの終わりに ~

9月で息子は6歳になる。

昨年の同じ時期のこのコーナーの書き出しも、年齢が違うだけで文面は同じ…。原稿提出締め切りがとっくに過ぎて、苦し紛れの書き始めになっている。

幼稚園生活最後の長い夏休み、お盆に数日、自宅から車で5分ほどの主人の実家に里帰りすることと、主人の趣味で夏休み最後の週末に鈴鹿サーキットにカーレースを観戦しに行く以外は、これといって大きな旅行の予定はなかった。

けれど、連日、炎天下の公園遊びに付き合ったり、寒天デザートやお昼ご飯を一緒に作ったり、幼稚園のお友達と遊んだり、水遊びに付き合ったりと、自宅あるいは自宅近くで子供の遊びに目いっぱい付き合ってきた。

子供の遊びに付き合い、仕事もして、週に一度は家でぼぉーっと過ごす日をもうけないと体力的にかなりキツい高齢ママは、この原稿を急いで書いている間も「あと一週間で、やっと夏休みが終わる…」と二学期の始まりが、かなり待ち遠しい気持ちでいる。

息子は、「こんなに(無駄に?!)たくさん覚えている車種…何かに使えないのか?!」と思うくらい大好きだった車への興味が、昨秋のある日を境にぱったりと途絶え、今ではあんなに覚えていた車種も車の種類も、すっかり妖怪ウォッチとポケットモンスターに上書きされている。

来年の今頃は、小学校に入学し初めての夏休みの終わりを迎えているはず…。来年の夏休み、この小さな子供の興味は何にあって、無事に夏休みの宿題が終えられているのか、どんな夏を過ごしているのか、全く想像できない日々が、私にとっても楽しみだ。

そして、私もどれだけ体力がなくなっているのか、老眼は進んでいるのか…来年の今頃の健康面が、かなり気になっている(^_^;

*「てらこや新聞」147-149号は平成29年9月1日に発行されたものです。


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by terakoya21 | 2017-11-26 08:30 | 新聞147-149号

Bonjour! (てらこや新聞147-149号 谷のコーナーより)

夏休みの宿題

小学生の頃、夏休みの宿題といえば『夏休みの友』だった。同郷の同世代なら 「何が『友』やねん……」とつぶやいた経験のない人のほうが少ないだろう。しかし、この話が通じる世代と通じない世代、通じる地域と通じない地域があると知ったのは、この仕事を始めてから数年後のことだ。現役寺子屋生の話によれば、今は『なつっこ』や『サマースキル』という名の問題集が渡されているそうだ。

寺子屋では、夏休みが近づくとどんな宿題が出されているのかを、八月に入るとどれくらい進んでいるかを、そしてお盆明けにはすべて終わらせたかを、生徒たちは毎回のように尋ねられる。早々と終わらせて暇を持て余している生徒もいれば、読書感想文や自由研究に頭を悩ませている生徒、今年も計画倒れに終わりそうな生徒もいる。

私はというと、当時は真面目な生徒だったはずだが、今はどうだろう。『てらこや新聞』の創刊以来、エッセイ原稿は毎月の提出課題となっている。締切り前に余裕を持って仕上げられていたのは、いったい何号前のことだろうか。お盆休みの最終日に課題が進まないことさえもエッセイのネタにする荒業を使うようになったのは、果たして成長と呼べるのだろうか。



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by terakoya21 | 2017-11-06 08:30 | 新聞147-149号

中国案内(てらこや新聞147-149号 吉田さんのコーナーより)

外国語の勉強をする時、「数字」の言い方を覚えることは学習をはじめて早い段階で学ぶものの1つだろう。

一度覚えてしまえば何てことないことなのだが、学習初期の段階では覚えきるまでには少し苦労する。私もいち早く数字を覚えてしまいたくて、何度も唱えたり聞いたりした。

順番通りの数なら言えても、ばらばらになると分かりにくくなる。

円周率の小数点以下の数字が20桁程載っている本をひろげて、その数字を中国語で読み上げたりした。それでも、その順番になれてくるので、あとは日常で目にする数字をすべて心のなかで唱えたりした。どの段階で数字に抵抗がなくなったかは覚えてはないのだが、いつしか自由に数字を言えるようになっていた。

中国留学時代に持たせてもらっていた携帯電話、電話番号は11桁ある。その番号を今でも中国語で言うことができる。日本語となると置き換えるのに少々時間がかかる。中国語と日本語どちらにしても言えたところで何の役にもたたない数字の羅列である。それより何か別の単語を覚えていたかったと思う。


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by terakoya21 | 2017-10-30 08:30 | 新聞147-149号

I Love Books! (てらこや新聞147-149号 竹川のコーナーより)

BOOK83森谷明子

「春や春」(光文社文庫)

夏の甲子園というと思い浮かぶのは、高校球児たちの全国高校野球選手権大会でしょう。夏の風物詩の一つと言っても良いかもしれません。

全国の高校生が愛媛県・松山市で開かれる「甲子園」を目指す夏の大会があることを、私はこの本で知りました。それが俳句甲子園というもので、今年で20回目を迎えるそうです。
(詳しくは松山俳句甲子園ホームページへ→http://www.haikukoushien.com/

以前に著者・森谷さんの「れんげ野原のまんなかで」(創元推理文庫)を読んだことがあり、その文体が気に入って今回のこの文庫を手に取ったのですが、今回ご紹介する一冊は読後感の爽快さが際立つ一冊だと思います。

藤が丘女子高校に通う俳句好きの女子高生・茜は、俳句に否定的な国語教師と授業で対立し、それをきっかけに図書館でトーコという友人ができます。茜とトーコは「俳句甲子園」を目指して俳句同好会を立ち上げますが、俳句甲子園出場にエントリーするためには、部員が最低5名は必要と分かり、部員集めに奔走します。書道有段者の真名、音感に鋭い感性を持つ理香、弁の立つ夏樹、情緒豊かな瑞穗が集まり、俳句作りが始まります。

5・7・5の17音の中に、季語を含め、どういう情景を、何をどう読むのかから始まり、表記も漢字で表すのか、ひらがなで表すのか、どういう語順で表すのかなど、俳句は短いからこそ悩みどころは満載なものだと思います。日本語の豊かさ、繊細さに敏感になれるものかもしれません。17音に全てを注ぐ女子高生たちの清々しい成長が、とてもまばゆく感じられました。

言葉を味わう楽しさを伝えてくれる一冊・・・おすすめです。

( K.T.)




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by terakoya21 | 2017-10-29 08:30 | 新聞147-149号

Bonjour! (てらこや新聞147-149号 谷のコーナーより)

マニキュア

爪の補強、身だしなみ、趣味の一つ……マニキュアを塗る理由は、人それぞれだ。知り合いや友人にはいつも爪の先の先まで手入れを欠かさない人が何人もいるが、諸々の事情で、私の頻度はかなり低いほうだ。かと言って、興味関心がないわけではなく、おしゃれなネイルやきれいな指先にはつい目がいく。

年に数回とはいえ、自分の短くていびつな爪を少しでもきれいに見せたくなるときがある。マニキュアの蓋を開けた瞬間に広がる香りは、いつも私の鼻を刺激する。お約束のように敏感に反応してしまうのは、未だに慣れていないという何よりの証拠だろう。お店には、カラフルでラメやパール入りのものがバリエーション豊かに並んでいるものの、アラが目立ちにくくて生活や仕事に支障なさそうなタイプばかりに手が伸びる。

「ネイル」と呼ぶには程遠く、母や姉の見様見真似でしていた学生の頃からたいした上達もなくてぎこちない。決してきれいとは言えない仕上がりだけれど、先っぽに少しの色とツヤが加わるだけで、毎回、自分の手が自分の手でないような不思議な気持ちになる。それから数日の間は、いつもより手や指の仕草を意識しながら過ごしている。それもつかの間、リムーバーとコットンで一本ずつマニキュアを拭き取ってしまえば、私の指先にはまた日常が戻ってくる。



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by terakoya21 | 2017-10-28 08:30 | 新聞147-149号

宇治だより(てらこや新聞147-149号 下西さんのコーナーより)

新支局の宇治支局長・下西さんが寄稿してくださいました。ありがとうございます!!

2017年6月 宇治だより①
「宇治橋の巻」

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4月から、京都府宇治市の住人になりました。宇治市といえば、宇治茶、そして宇治川、宇治橋、宇治茶、 平等院、萬福寺、「源氏物語」の宇治十帖の舞台などを思い出されます。私が転居した地区は宇治川の左岸に当たり、昔は丘陵地帯だっ

たのかと思われる地域です。今はすっかり住宅地化が進みましたが、100年前は茶畑が広がっていたのかもしれません(今も住宅街の一角に取り残されたように茶畑があります)。鳥になって上空からこの地区を見ると、いくつもの棚田に見えるのではないかしら……うねうねとした坂が多く、坂に交わる道路は 曲線・扇型になっております。

4月15日、宇治市生涯学習センターにて行われた 宇治市民大学に参加し、「宇治橋、宇治の歴史の架け橋」の講演を聞きました。講師は放生院の住職、黒木英雄さん。放生院は宇治橋の東岸(右岸)橋詰にあり、橋寺とも呼ばれるお寺です。この講演をきっかけに、宇治橋かいわいの昨今を調べてみました。

宇治川は、広辞苑では「琵琶湖に発し、上流を瀬田川、宇治に入って宇治川、京都市伏見区淀付近に至って木津川・桂川と合流して、淀川と称する」川とのこと、淀川中流部の通称にすぎないのです。

宇治橋が架けられたのは、実に古く、大化の改新のころ、(一説には646(大化2)年)と言われています。

7世紀の日本は、「みやこ」がまだ落ち着かない時代で、大和地方(飛鳥)あるいは近江地方(大津)にさまよっていました。8世紀に入り(710年)、奈良に平城京が造られ、日本の首都が落ち着いたのかな、という 印象です。

そして地理的にみると、宇治は大和の北限であり、宇治川は近江と大和をつなぐ大切な水運の役割を担っていたようです。(たとえば大和の都建設のための多量の材木は近江の山から切り出され宇治川によって運ばれたとか。)

そんな宇治橋の歴史を証明するものとして、「宇治橋断碑(だんぴ)」(重要文化財・日本三古筆の一つ)があります。断碑とは、「碑文が刻まれた石碑の割れたもの」の意です。宇治橋がいつ(大化2年)、だれ(道登)によって 架けられたか、その経緯(宇治川の激流に難渋していたが、架橋によって人畜が救われた云々)が漢詩  (96文字)の形で石碑に刻まれました。それが長い年月の荒波、あるいは洪水により、一度は姿を消します。が、1791(寛政3)年、放生院(ほうじょういん)の境内にて石碑の  三分の一ほどが発掘されました。鎌倉時代の資料にこの碑文の記録があったため、断片から、元の石碑が復元されて「宇治橋断碑」として現在に至っています。


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大和と近江の境、あるいは大和と京都(山城国)との境であるがゆえに、宇治橋は古代より多くの戦場になっております。特に有名なものは、『平家物語』にある「橋合戦」(1180年)と「宇治川の先陣争い」   (1184年)でしょうか。「橋合戦」の主役である源頼政の終焉の地は、「扇の芝」として、平等院の境内に残っています。頼政は以仁王を奉じましたが、平家の大軍の前に自害しました。

源義仲軍を打つべく源頼朝の家来、梶原景季と佐々木高綱とが先陣争いを演じた場所もおそらく現在の宇治橋付近でしょう。観光客が抹茶アイスをほおばりながら、そぞろ歩きをするのどかな現在の光景からは想像することができません。

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現在の橋は1996年に竣工されたものですが、橋の歴史にも、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康とビッグネームが並びます。

織田信長は、1579(天生7)年に最後の足利将軍(義昭)を宇治川合戦で倒した後、この宇治橋を大掛かりに修復しました。ところが、豊臣秀吉は1594(文禄3)年、宇治川の付け替えを含む大規模な土木工事を行い、奈良への道(大和大路)を変えてしまいました。つまり、宇治川が流れ込む巨椋池に、小倉堤を新設し大和新道(旧国道24号線)とすることで、奈良への新しいルートを作り、宇治橋を壊しました。宇治橋はこれまでの交通の要衝の役割を失ったわけです。一方、徳川家康は1599(慶長4)年、秀吉が壊した宇治橋を再び架けなおしました。

宇治橋辺りには、平安時代から、平等院鳳凰堂が地図上のランドマークのような存在で鎮座しています (1052年創建)。文学の金字塔?『源氏物語』の宇治十帖の舞台になったのも宇治橋周辺です。宇治橋が戦場となったこともありました。

現代の読み物でも、宇治橋周辺が舞台となっているものがあります。武田綾乃著『響け!ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部へようこそ』(宝島文庫)は、アニメ「響け!ユーフォニアム」の原作で、アニメに描かれた風景が宇治の街を模しているので、アニメの「聖地」として若者にも人気の場所になっています。宇治市商工観光課によって「『響け!ユーフォニアム』宇治探訪マップ」が作成されています。

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アニメに登場する吹奏楽部の高校生たちが通学で使う電車が、京阪電鉄です。宇治川右岸に沿って走る路線の終点、京阪宇治駅の近くに「莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子(のみこ)の墓」があります。厳重に囲われた古墳のようです。

4月中旬に訪れたとき、こんもりとした森は、野鳥の住処のようで、ウグイスが甲高くさえずり、ツバメがせわしなく飛び交い、サギが悠然と飛び、あたかも鳥たちが「墓守」のよう。彼は応神天皇の皇子であり、皇太子になったものの、次期天皇は弟の仁徳天皇(大鷦鷯(おおさざきの)皇子(みこ))に譲ったことになっています。昔々のお話ですが(5世紀)。いえいえ、仁徳天皇は幼名の「鷦鷯」はミソサザイであり、陵墓の百舌鳥(もず)(みみ)原中(はらなかの)(みささぎ)の「百舌鳥」がモズと鳥つながりであるとは、いまも二人のバトルは続いている?、などと妄想してしまいました。

この古墳と現在の宇治川堤とに挟まれた場所に、「宇治川太閤堤跡」があります。2007年に発掘・発見され、国史跡に指定されています。秀吉の河川改修を裏付ける遺構として、宇治市はこの一帯を「宇治川太閤堤跡歴史公園」として整備する計画を立て、オープン時期を2019年としていました。しかし、市民の理解が得られす、事業計画の見直しが求められていると地元紙が報じていました。

歴史の重みと現実の切実さ、観光と日常を、どのような兼ね合いで平衡を保つかは、古都京都であっても難問題なのです。



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by terakoya21 | 2017-10-16 08:30 | 新聞147-149号

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