人気ブログランキング |

タグ:宇治だより ( 4 ) タグの人気記事

宇治だより (てらこや新聞164-167号 下西さんのコーナーより)

宇治だより⑤
「芭蕉と蕪村のえにし」の巻

一昨年の7月、母が92歳で亡くなりました。最期の4年は、病院で過ごしたものの、徐々に体力が衰え、 歩行はおろか会話もできなくなり、枯れるように逝きました。母は若い頃から俳句を趣味としており、同人誌に投稿したり、NHK学園の俳句講座を受講したりしておりました。遺品の中に俳句手帳を見つけ、遺作の一部を遺稿集「蝉時雨」と題して、まとめました。親不孝な娘の罪滅ぼしのつもりで、四十九日の法要に間に合うように、気持ちを込めて。


c0115560_21240442.jpg

 句集名の『蝉時雨』は「(せみ)時雨(しぐれ)訃報(ふほう)届きたる後も」 から付けました。ちょうど母の通夜・告別式の折の私の心境をも言い当てていました。

母の句を詠みながら、その場所も情景も心情も思い当たるのに、まねして作ろうと思っても、全くできません。母の脳内には「俳句を成すためのアプリ」が備わっているかのようです。黛まどか・茂木健一郎著『俳句脳』(角川新書)に出会い、母も俳句脳を獲得したのだと 確信しました。


 その著書の中に、黛まどかさんの「俳句は祈りの詩」であり、「思いを述べないで祈る」のであり、「余白に祈りが込められている」の一節に出会ったとき、ああそうだと、思わずうなずきました。母の句を詠んだときに感じる切なさは、その「祈り」に触れたからでしょうか。


c0115560_21243096.jpg

京都市左京区一乗寺才形町に、松尾芭蕉(1644~1694)・与謝蕪村(1716~1783)ゆかりのお寺、金福寺があります。

金福寺の境内には、茅葺屋根の「芭蕉庵」があり、蕪村の墓もあります。蕪村は荒廃していた「芭蕉庵」の再興に寄与しました。安永5(1776)年、61歳のときです。このころには、夜半亭という結社の後継者として 名を成しており、「芭蕉庵」にても写経社の名で句会を開いておりました。

大谷晃一著『与謝蕪村』(河出書房新社)で、蕪村の人生を学びました。大谷さんの見解がすべてではないでしょうが、蕪村が具体的な「姿」として起ちあがってきました。勝手に作っていた蕪村のイメージ、例えばひげ面蓬髪で、ヨレヨレの着物を着て…ではない姿が。

父と母が主人と使用人の関係だったこと。「与謝」が母の故郷の地に由来していること。出身地の大阪(毛馬)を離れ(16歳ころ)、俳諧と南画のつてで関東・東北を放浪し修行したこと。借金を返すために絵をかきまくったこと。蕪村にも家族がいたこと(42歳で所帯を持つ)。娘を溺愛したこと。花街の女性と老いらくの恋もあったこと。芝居が好きで、花街にも出入りしていたこと(当時、島原などは文芸の行われる場所でもあった)。

c0115560_21253665.jpg

金福寺では、蕪村ゆかりの品々を見ることができました。『洛東芭蕉庵再興ノ記』で芭蕉庵の由来と再興した志を述べた文章に接し、「耳目(じもく)(はい)(ちょう)こゝに玉まく芭蕉庵」の句に、全身(耳目肺腸)で芭蕉庵が新しくなった喜び(「玉まく」が初夏の季語で丸まった若葉が伸びようとしている様子)を感得しました。『奥の細道画巻』は、芭蕉の『おくのほそ道』に芭蕉の旅姿を俳画として書き加えた絵巻物です。この『奥の細道画巻』は人気があって、しばしば注文に応じては描いて、生活の糧にしていたとか。

 金福寺を訪ねたのは、5月の下旬、青葉の美しい境内、まさに玉まく頃でした。芭蕉庵からは京都の市街地が遠望できました。


同じく一乗寺辺りには、楠木正成軍と足利軍が激突した折の  「大楠公戦陣碑」、宮本武蔵ゆかりの史跡「一乗寺下り松」、詩仙堂、曼殊院、狸谷不動などもあり、京都市の中心部からは外れた場所ですが、見所いっぱい、歩いて楽しめるモデルコースでもあります。

京都市下京区仏光寺通烏丸西入南側辺りが蕪村の終焉の地です。祇園祭の最中の7月13日、当地を訪ねました。蕪村終焉の地の駒札は、美しい格子戸の商店(呉服屋かな?)の前にありました。祇園祭協賛の商談会があるのか、人の出入りが多く、華やいでいました。近くには「船鉾」「伯牙山」「岩戸山」の山鉾が並んでおりました。

c0115560_21260368.jpg
 ちょうど「船鉾」の曳き初め(試し曳き)のイベントに遭遇しました。 この曳き初めだけは、一般の人にも開放されるとのこと。船鉾は、鉾の上に囃し方などすべて乗り込み、音頭取りのソーレの掛け声とともに、本番さながら、8トンを越える鉾が動きました。新町通を四条通りまでの400メートルほどを動かしました。曳くといっても、運動会の綱引きのように力を込めて曳く必要もなく、大勢の人とこの幸運を楽しみました。

船鉾は17日の山鉾巡行にあわせ、11日から鉾を組み立て初め、工芸の粋を集めた懸想品といわれる装飾(船首に木彫の(げき)・側面に天水引・後ろに見送り)が施されていました。


by terakoya21 | 2019-04-30 08:30 | 新聞164-167号

宇治だより(てらこや新聞159-163号 秋・冬号 下西さんのコーナーより)

宇治だより④
「宇治茶の郷巡り」の巻

宇治の5月は、御茶摘みや新茶製造・販売で大忙しです。忙しいのは、もっと早くからで、4月頃から御茶摘みさん募集の求人広告が出回ります。茶葉の摘み取りは、多くが機械になっていますが、宇治ではまだまだ手摘みの高級茶が生産されています。

4月初めころから、茶畑の多くは、黒いシートに覆われます。宇治の風物詩というべきもので、新芽が出るころを見計らって、日差しを避けるためのこの覆い(主に寒冷紗)がなされます。かつては宇治だけに許された「覆下茶園」で、「かぶせ茶」といわれるゆえんです。たまに「本ず」といって、ヨシズとワラを使った昔ながらの「覆下茶園」を見かけることもあります。ここは、最高級のお茶を生産中。

夏も近づく八十八夜 野にも山にも若葉が茂る……♫今年の八十八夜は、5月2日でした。毎年八十八夜に当たる日、宇治市では「八十八夜茶摘みの集い」が行われます。

c0115560_10275315.jpg
府立茶業センター(宇治市白川中ノ薗)にて、茶畑で茶摘みを体験しました。覆下の茶畑の畝に分け入って、新芽の3~5枚を指で摘まみ折ります。新芽(一芯ニ葉)の付け根には「霜かぶり」と呼ぶ小さな葉があり、その葉を目安に、その上を親指と人差し指で折りとるわけです。茶摘みは、初心者でもできる容易な作業ですが、仕事として終日続けるのは、容易ではないでしょう。

この日体験できたのは、「やぶきた」という品種でした。両手一杯ほどの茶葉は、その日の夕食で天ぷらになりました。

摘んだばかりの新芽はすぐに蒸され、蒸した茶葉の手もみ体験もできました。蒸された茶葉は、下から炭火で適度にあぶり、乾燥させながら茶葉に縒りを付ける青製煎茶法で、大層な手間であることを知りました。ちなみに、蒸す時間が長いと深蒸し茶になるわけで、宇治茶は短時間でむしあげて、香りと色を楽しむことができるとのこと。

府立茶業センターは、茶園の外に製茶機械もあり、機械での製茶工程も見学できました。煎茶の新茶もいただき、また碾茶用の茶葉を使った水出し緑茶も頂きました。

宇治茶会館(宇治市折居台)では、碾茶を石臼でひく体験もできました。碾茶の姿を初めて見ました。煎茶と違って、板ノリをほぐしたような形状。

一口にお茶を飲む、と言っても人それぞれの光景が浮かびます。ズパッ!とペットボトルのキャップをひねって、コップに注ぐお茶。急須に適温のお湯を注ぎ入れ、茶葉を蒸らしてから注ぐお茶(煎茶)。茶碗に抹茶を少々入れ、お湯を入れて茶筅でシャカシャカ泡立て飲むお茶(薄茶)。抹茶茶碗に抹茶をたっぷり入れ、少々のお湯を入れ茶筅でゆっくりと練ったものをすするお茶(濃茶)。


c0115560_10282308.jpg

宇治では、それぞれの好みのお茶にまつわる場所があり、絶景があります。

室町時代から江戸時代の「宇治茶」は、碾茶であり、御茶壷道中で運ばれる権威の象徴的な、贅沢品でした。「御茶師」と呼ばれる人々がコーディネーターとして、将軍家や諸大名の用命を引き受け、「茶壺」を仕上げていきました。茶壺には、 最高級の何種類かの碾茶(濃茶用)が小さな袋に入れられ、その小袋を守るかのように詰められる碾茶が、薄茶になりました。宇治橋通にある「宇治・上林記念館」では、御茶師の家に伝わる茶壺や茶器・文書などが展示してありました。先ずは 茶壺の立派なことに驚き、宇治の茶師の権威に頷かざるを得ません。

黄檗宗(おうばくしゅう)(まん)(ぷく)寺門前(じもんぜん)には、「(こまの)(あし)(かげ)(えん)(あと)()」があります。  碑には、「(とがの)()尾上(おのえ)の茶の木分け植えて あとぞ生うべし駒の(あし)(かげ)」とあります。栂尾のお茶の木を宇治にもたらした明恵上人は、宇治の村人に、馬が歩む足跡に沿ってその間隔に茶の種を植えればよいと教えた、とのこと。

萬福寺(宇治市五ヶ庄)は煎茶のゆかりの寺です。江戸初期に開山の隠元が煎茶道の開祖といわれ、江戸中期には煎茶を広めた「売茶翁(月海)」ゆかりの寺でもあります。売茶翁は禅僧がお布施のみで生きていることを潔しとせず、茶道具を担いで市中に出て、お茶(煎茶)を振舞い、喜捨にこたえたとのこと。手軽に飲める煎茶が一気に普及したと言われています。萬福寺は、中国風の外観が特徴ですが、総門の扁額には「第一義」の文字が掲げられていました。

江戸時代中期からは、煎茶が普及し始め、抹茶より 手軽な煎茶が「宇治茶」ブランドに加わります。永谷宗円が普及させたという「青製煎茶法」、つまりお茶の色が「茶色」ではなく「黄緑っぽい色」になる煎茶の作り方が普及します。永谷宗円は現在の永谷園のご先祖様だそうです。永谷宗円の生家は再建されました(宇治田原町湯屋谷)。また。宇治の煎茶を江戸で大いに売ったのが山本嘉兵衛、山本山(株)のご先祖様です。

明治時代に、外国との貿易で外貨を獲得するために貢献したものの一つが、お茶でした。お茶は加工方法で、日本茶にも紅茶にも中国茶にもなりますから。

木津川市山城町上狛に600m程の道沿い一帯に「上狛(かみこま)茶問屋ストリート」があり、最盛期には120軒の 茶問屋があったとか。今でも40軒ほどの茶問屋があります。

山城一帯のお茶は、交通の要衝である上狛に集められ、加工精製され、木津川の水運を利用して、神戸港に送り出されました。そして、神戸港から世界各地へ。

問屋ストリートとして街並みが整備されていますが、その中心のひときわ大きな看板が、あの「福寿園」でした。いつの間にかペットボトルが幅を利かす時代になって、「福寿園」の「伊右衛門」は、見事に時機を得た 商品です。

ペット茶と言えば、京都府茶協同組合が販売している碾茶入り「宇治茶」というペット茶があり、府内の観光地には自販機もあります。500ml入り160円とちょっと高めですが、正真正銘の宇治茶。ラベルには「源氏絵」が転写されています。

c0115560_10280234.jpg
宇治茶の郷・宇治田原町や和束町では、山なりの茶畑が見られます。山肌一面の見事な茶の木の畝は、絶景です。

一方、珍しく河原にも茶園があります。八幡市(こう)津屋(づや)には、木津川の河川敷に「浜茶」と銘打った茶園があります。そして、この辺りに上津屋橋、別名「流れ橋」が架かっております(全長356.5m・幅3.3m)。

流れ橋とは、川の増水時に橋板が外れる構造になっています。欄干がなく、木製の橋桁に橋板が乗っかっているシンプルな橋で、人と二輪車くらいが通れる橋です。昨年9月にも、台風21号の大水で、見事?橋板が流され、6月にやっと復旧しました。ちなみに、橋板は頑丈なワイヤーで橋桁と繋がれており、外れても遠くに流れないようになっています。

この流れ橋は、時代劇のロケ地としては有名な場所で、最近の映画「超高速参勤交代」でも、佐々木蔵之介さん(殿様役)が渡っていました。


先日、NHKの番組「ブラタモリ」でも宇治と宇治茶が取り上げられました。冒頭に茶店「(つう)(えん)」が登場。広辞苑の「通円茶屋」の項にも、「茶人通円が宇治橋東詰で茶を売っていた店」とある老舗です。宇治橋東詰に店を構え、代々「橋守」を自認しているこの家の歴史をたどれば、源頼政の家来として橋合戦に参戦したとのこと、恐るべし、京都…。


by terakoya21 | 2018-12-02 08:30 | 上越だより

宇治だより (てらこや新聞150-152号 下西さんのコーナーより)

宇治だより②
「天王山から光秀首塚までをウロウロの巻」

6月16日天王山(京都府乙訓郡大山崎町)に登ってきました。

あの天王山、1582(天正10)年本能寺の変の後、明智軍と秀吉軍が戦った山崎の合戦の舞台となった場所です。けっこうな山道でしたが、高さはたった270m。「年ごろ、おぼしつること果たしはべりぬ。」(宿願達成)の心境です。

光秀は…西国から駆けつけてくる秀吉軍を迎え撃つには山崎のあたりが最適と考えた。そこは、京・大坂のほぼ中間点であり、天王山と淀川とにはさまれた隘路(あいろ)となっていて、防戦するにはもってこいの地形だったからである。実際の山崎の戦いといわれている両軍の激突は十三日であるが、その前日、早くも山崎周辺では両軍の先鋒同士の小競りあいははじまっていた。…いよいよ合戦当日である。光秀は下鳥羽(しもとば)から御坊(おんぼう)(づか)に本陣を移し、天王山麓を進んでくる秀吉軍に備え、円明寺川の自然堤防背後の低湿地に布陣した。【小和田哲男著『明智光秀と本能寺の変』(PHP文庫)】

京都府(山城国)と大阪府(摂津の国)の境に位置するの山崎・天王山は、桂川・宇治川・木津川の三川が合流して淀川となる付近に面しています。そして、対岸は(いわ)清水(しみず)八幡(はちまん)(ぐう)のある男山(八幡市)です。

狭い平野部分に、JR京都線(東海道本線)、東海道新幹線、阪急京都線、国道171号(旧西国街道)、など幹線がひしめく交通の要衝です。明智光秀が、中国地方から戻ってくる豊臣秀吉軍を待ち伏せするのに最適な場所でした。

天王山にはいくつかのハイキングコースがありました。その一つは、JR山崎駅近くの登山口から始まります。チェックポイントもいくつかあります。まずは宝積寺。ここは山崎の戦いでは秀吉が本陣を置いたところです。山門には「金剛力士像」が立ち、秀吉が一夜で建てたと伝わる「三重塔」、秀吉が腰かけたといわれる「出生石」もありました。一説では山(さき)(しろ)一部(いちぶ)にもなったとのこと、境内(けいだい)(ひで)(よし)()くしです。

六合目(ろくごうめ)あたりに青木(あおき)()(だに)展望広場があり、ここから大阪平野が一望できます。うっすらと大阪城らしき形を認めることができました。

七合目あたりには(はた)立松(たてまつ)展望台があり、ここからは天王山の戦いで、両軍が布陣した「地図」が掲示されていました。旗立松とは、山崎の合戦のおり、秀吉がその存在を示すべく千成ひょうたんの旗を掲げた場所にちなんでいます。

眼下の風景は、縦横に立体交差した道路や鉄路がみえて、ジオラマのようで、ダイナミックですが、往時の光景を想像するべくもありません。実際の合戦場も展望台から目星を付けることができました。

山中にある(さか)(とけ)神社(じんじゃ)の脇を通って天王山山頂です。ここは山崎城跡でもあり、秀吉が大坂城に移るまでの短期間、本拠としていました。

山頂と言っても展望がきくわけではなく、城跡と言っても山城研究家ではないので城の縄張りを思い描けるではありません。が、天王山山頂の標識の前に立つと、歴史の舞台に来れた!という感慨がこみ上げてきました。

c0115560_15310268.jpg

平日だったので、登山中に出会った人は十名くらい。歴史的な地を踏破する目標を持った人、トレーニングのために日常的に登っている人、さまざまなハイキング模様でした。

ハイキングコースの途中には、「秀吉の道」と題する陶板絵図六枚が、点在しておりました。原画は日本画家・岩井弘により、解説文は堺屋太一によるものでした。「本能寺の変」「中国大返し」「頼みの諸将来たらず」「天下分け目の天王山」「明智光秀の最期」「秀吉の天下人への道はここからはじまった」というテーマで、戦国時代絵巻が繰り広げられていました。

ここに来るまで、山崎の合戦は天王山の山中で行われたと思い込んでいました。山道を歩きながら、6月の暑さの中、鎧兜のいくさ支度では歩くだけでも大変…と思っていましたが、それは大間違いで、天王山は秀吉が陣地を構えた場所で、実際の合戦は、平野部で行われた…ということを、堺屋太一さんの文章で知りました。

光秀の敗走について、小和田哲男さんは著書『明智光秀と本能寺の変』(PHP文庫)で、次のように述べています。



c0115560_15313570.jpg

光秀が、勝竜寺城を脱出したあと、つぎにどのような手を考えていたのかはよくわからない。ただ、このとき、(しょう)竜寺(りゅうじ)(じょう)を出て、下鳥羽に至り、さらに大亀谷を経て山科(やましな)小栗栖(おくりす)に至っているので、近江方面をめざしていたことが考えられる。(略)小栗栖の竹藪を通過中、落ち武者狩りをしていた農民のくり出した竹槍で光秀が殺されたとき、側には、近親の溝尾庄兵衛ら五,六人しかいなかったといわれている…

7月27日、明智光秀の最期を遂げた場所といわれる「明智(あけち)(やぶ)」(京都市伏見区)に行ってきました。本経寺の裏側にあたり、細道に連なっている民家が途切れた場所から、もっと細い小道を「明智藪」の標識に導かれて歩きました。ほの暗い小道に藪蚊を手で払いながら歩くと、「明智藪」の駒札(説明書き)がありました。ここは、四百年以上も前に、本当に光秀がこの道を通ったのかもしれないと、思い浮かべることができるそうな不穏な場所でした。(ここの住人には失礼かもしれませんが。)


京都市東山区梅宮町 (三条通白川橋下ル東側)に明智光秀の塚(首塚)があります。地下鉄東西線東山駅で降り、白川に沿って南に(知恩院の方へ)5分くらい歩くと、半間ほどの小さい(ほこら)が見つかりました。祠には「光秀公」と書いた扁額がかかり、ちっぽけな五重の石塔があり、戒名が刻まれた石柱もありました。8月10日に訪ねたので、ちょうど数輪の桔梗が咲いていました。白川沿いの小道は柳の木が枝葉を風になびかせ、気持ち良い散策道になっていました。塚の近くに「(もち)(とら)」というお菓子屋さんがあって、「光秀饅頭」を売っていました。光秀の桔梗の家紋の焼き印を押したまんじゅうは、白みそあんと粒あん、両方ともおいしかった!


塚については、いつ建ったのか、だれが建てたのか、どうしてこの場所なのかは判然としません。駒札には、最期を遂げた光秀に、「家来が、光秀の首を落とし、知恩院の近くまできたが、夜が明けたため、この地に首を埋めたと伝えられている」と書かれていました。

「天王山に登りたい」から始まった散策は、図らずも光秀のその後をたどることになりました。信長を倒した反逆人・明智光秀は、江戸時代に入って密かにではありますが、きちんと弔われていました。


by terakoya21 | 2018-02-25 08:30

宇治だより(てらこや新聞147-149号 下西さんのコーナーより)

新支局の宇治支局長・下西さんが寄稿してくださいました。ありがとうございます!!

2017年6月 宇治だより①
「宇治橋の巻」

c0115560_15162323.jpg

4月から、京都府宇治市の住人になりました。宇治市といえば、宇治茶、そして宇治川、宇治橋、宇治茶、 平等院、萬福寺、「源氏物語」の宇治十帖の舞台などを思い出されます。私が転居した地区は宇治川の左岸に当たり、昔は丘陵地帯だっ

たのかと思われる地域です。今はすっかり住宅地化が進みましたが、100年前は茶畑が広がっていたのかもしれません(今も住宅街の一角に取り残されたように茶畑があります)。鳥になって上空からこの地区を見ると、いくつもの棚田に見えるのではないかしら……うねうねとした坂が多く、坂に交わる道路は 曲線・扇型になっております。

4月15日、宇治市生涯学習センターにて行われた 宇治市民大学に参加し、「宇治橋、宇治の歴史の架け橋」の講演を聞きました。講師は放生院の住職、黒木英雄さん。放生院は宇治橋の東岸(右岸)橋詰にあり、橋寺とも呼ばれるお寺です。この講演をきっかけに、宇治橋かいわいの昨今を調べてみました。

宇治川は、広辞苑では「琵琶湖に発し、上流を瀬田川、宇治に入って宇治川、京都市伏見区淀付近に至って木津川・桂川と合流して、淀川と称する」川とのこと、淀川中流部の通称にすぎないのです。

宇治橋が架けられたのは、実に古く、大化の改新のころ、(一説には646(大化2)年)と言われています。

7世紀の日本は、「みやこ」がまだ落ち着かない時代で、大和地方(飛鳥)あるいは近江地方(大津)にさまよっていました。8世紀に入り(710年)、奈良に平城京が造られ、日本の首都が落ち着いたのかな、という 印象です。

そして地理的にみると、宇治は大和の北限であり、宇治川は近江と大和をつなぐ大切な水運の役割を担っていたようです。(たとえば大和の都建設のための多量の材木は近江の山から切り出され宇治川によって運ばれたとか。)

そんな宇治橋の歴史を証明するものとして、「宇治橋断碑(だんぴ)」(重要文化財・日本三古筆の一つ)があります。断碑とは、「碑文が刻まれた石碑の割れたもの」の意です。宇治橋がいつ(大化2年)、だれ(道登)によって 架けられたか、その経緯(宇治川の激流に難渋していたが、架橋によって人畜が救われた云々)が漢詩  (96文字)の形で石碑に刻まれました。それが長い年月の荒波、あるいは洪水により、一度は姿を消します。が、1791(寛政3)年、放生院(ほうじょういん)の境内にて石碑の  三分の一ほどが発掘されました。鎌倉時代の資料にこの碑文の記録があったため、断片から、元の石碑が復元されて「宇治橋断碑」として現在に至っています。


c0115560_15172664.jpg

大和と近江の境、あるいは大和と京都(山城国)との境であるがゆえに、宇治橋は古代より多くの戦場になっております。特に有名なものは、『平家物語』にある「橋合戦」(1180年)と「宇治川の先陣争い」   (1184年)でしょうか。「橋合戦」の主役である源頼政の終焉の地は、「扇の芝」として、平等院の境内に残っています。頼政は以仁王を奉じましたが、平家の大軍の前に自害しました。

源義仲軍を打つべく源頼朝の家来、梶原景季と佐々木高綱とが先陣争いを演じた場所もおそらく現在の宇治橋付近でしょう。観光客が抹茶アイスをほおばりながら、そぞろ歩きをするのどかな現在の光景からは想像することができません。

c0115560_15175201.jpg

現在の橋は1996年に竣工されたものですが、橋の歴史にも、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康とビッグネームが並びます。

織田信長は、1579(天生7)年に最後の足利将軍(義昭)を宇治川合戦で倒した後、この宇治橋を大掛かりに修復しました。ところが、豊臣秀吉は1594(文禄3)年、宇治川の付け替えを含む大規模な土木工事を行い、奈良への道(大和大路)を変えてしまいました。つまり、宇治川が流れ込む巨椋池に、小倉堤を新設し大和新道(旧国道24号線)とすることで、奈良への新しいルートを作り、宇治橋を壊しました。宇治橋はこれまでの交通の要衝の役割を失ったわけです。一方、徳川家康は1599(慶長4)年、秀吉が壊した宇治橋を再び架けなおしました。

宇治橋辺りには、平安時代から、平等院鳳凰堂が地図上のランドマークのような存在で鎮座しています (1052年創建)。文学の金字塔?『源氏物語』の宇治十帖の舞台になったのも宇治橋周辺です。宇治橋が戦場となったこともありました。

現代の読み物でも、宇治橋周辺が舞台となっているものがあります。武田綾乃著『響け!ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部へようこそ』(宝島文庫)は、アニメ「響け!ユーフォニアム」の原作で、アニメに描かれた風景が宇治の街を模しているので、アニメの「聖地」として若者にも人気の場所になっています。宇治市商工観光課によって「『響け!ユーフォニアム』宇治探訪マップ」が作成されています。

c0115560_15183014.jpg

アニメに登場する吹奏楽部の高校生たちが通学で使う電車が、京阪電鉄です。宇治川右岸に沿って走る路線の終点、京阪宇治駅の近くに「莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子(のみこ)の墓」があります。厳重に囲われた古墳のようです。

4月中旬に訪れたとき、こんもりとした森は、野鳥の住処のようで、ウグイスが甲高くさえずり、ツバメがせわしなく飛び交い、サギが悠然と飛び、あたかも鳥たちが「墓守」のよう。彼は応神天皇の皇子であり、皇太子になったものの、次期天皇は弟の仁徳天皇(大鷦鷯(おおさざきの)皇子(みこ))に譲ったことになっています。昔々のお話ですが(5世紀)。いえいえ、仁徳天皇は幼名の「鷦鷯」はミソサザイであり、陵墓の百舌鳥(もず)(みみ)原中(はらなかの)(みささぎ)の「百舌鳥」がモズと鳥つながりであるとは、いまも二人のバトルは続いている?、などと妄想してしまいました。

この古墳と現在の宇治川堤とに挟まれた場所に、「宇治川太閤堤跡」があります。2007年に発掘・発見され、国史跡に指定されています。秀吉の河川改修を裏付ける遺構として、宇治市はこの一帯を「宇治川太閤堤跡歴史公園」として整備する計画を立て、オープン時期を2019年としていました。しかし、市民の理解が得られす、事業計画の見直しが求められていると地元紙が報じていました。

歴史の重みと現実の切実さ、観光と日常を、どのような兼ね合いで平衡を保つかは、古都京都であっても難問題なのです。



by terakoya21 | 2017-10-16 08:30 | 上越だより

英語塾の寺子屋かめいの元気を発信します


by terakoya21
プロフィールを見る
画像一覧
更新通知を受け取る