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旅日記 (てらこや新聞 2019年春夏号 海住さんのコーナーより)

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イングランド南西部 ①

イギリスでは、西ヨーロッパ各国では使えるユーレールパスが使えないので駅窓口で切符を買わなければならない。しかし、切符売りとインフォメー  ションの窓口を兼ねた小さな駅で並ぶ列には4,5人でも閉口した。というのも、列の前の人が乗り換えなどを聞いていたりすると大変だ。5分、10分かかろうと、後ろに並んでいる人には一切おかまいなしに納得するまで聞くし、駅員さんも親切このうえなく教える。

しかし、そんなことにイライラしているのは、どうやら、日本人であるわたし1人だけだったようだ。みなさん、それが当たり前のように順番を待っている。イギリスの小さな駅は牧歌的だった。

ドイツのテキパキ、さっと、行き先と乗り換え駅、出発ホームから乗り換え駅の到着時間、乗り換え   ホームの番号、乗り換えの出発時間、目的地の到着時間を書いたプリントを瞬時に印字してくれるスムーズな仕組みは、日本人には快適だった。

けれど、イギリスが嫌いになるどころか、逆にイギリスが好きなり、大人の国であることを感じさせた。イギリス人たちは、けっこう、おおらかなんだ。

ロンドンから、イングランド南西部の地方都市、Gloucesterに向かった。オーストリアのザルツブルクで出会ったイギリス人、Matthewが住んでいる町だ。日本の「快速」のような仕様の列車の行き先はSwanseaとあった。Swanseaは、友人であり、かつて、松阪市内の県立高校でALT(外国人英語助手)として働いていたウエールズ人女性の出身地だったので地名を見て感慨深いものがあった。Gloucesterへは、ウエールズの少し手前、イングランドの西の端っこの港湾都市Bristolで北のほうに乗り換える。

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イギリスの鉄道には、人と同様、せかせかしたところがなかった。

近鉄の急行やJRの「快速みえ」のようなガタガタ、ゴトゴトと突っ走っていくときに車内に伝わる騒音ではなく、モーター音が聞こえてくるしとやかさがあった気がする。分厚く感じた車窓のせいだったかもしれない。車窓も、次々と切って飛んでいく建物ではなく、のどかな田園風景を見せていた。

列車もゆっくりだ。それに時間調整のためか駅でもないところで何度も止まる。そして、止まる時間が長い。地図で見たGloucesterは近いように思っていたが、東京と静岡ぐらいの距離はあったようだ。Bristolという町の駅のホームで乗り換えを待っていたときの記憶は、すでに太陽が沈んだあとの夕焼けで赤く染まった部分が残る西の深い群青の広い空が、がらんとしたプラットホームを覆った風景だ。

午後2時50分にロンドンを出て、Gloucesterに到着したのは午後5時10分だった。

Gloucesterは、イギリス西南の一地方都市だが、南イングランドの地図を見ればわかる通り、イングランドのプリティな小さな町を巡るにはヘソのような便利な位置にある。シェークスピアの生家のあるStatford-upon-Avonや、何とか言う有名な画家の名作として知られる大聖堂で有名なSalisbury、お風呂(バス)の語源であるとされる古代ローマの温泉遺跡が遺るBath、街中が大学のOxfordと、なんだか、イングランドの名所図会のような名所が集まっている。それらの町へ実にうまく路線バス網がつないでいる。それに、  町中がイングリッシュ・ガーデンのような中世の家々の街並みが狭い石畳の路地によって結ばれるCotswoldsと呼ばれる丘の街がある。ライムストーンというクリーム色の石で造った中世の家々に今も人々が住み、ゴトゴトした狭い石畳の道路を路線バスが走るが、ライムストーンの家々を飾る植物の色彩が独特の景観を構成する。

のちに松阪のわたしの家にも泊まることになるMatthewの両親の家に宿泊させてもらい、かれの運転するクル

マでこのあたりを回った翌日からは、路線バスを乗り継ぎ、これらの街に立ち寄った。それはわたしの今回の旅のイギリス最後のルートでもあった。
Matthewと出会わなければ、独りのんびり、ゆっくりと路線バスの風景を楽しみながらでイングランドの素敵な田舎巡りをすることはなかっただろう。

12月9日と10日は
Gloucesterに宿泊し、そののちは、路線バス網を利用して、11~12日はOxford、13~14日はSalisbury、15日はBathを訪ね、それぞれの町のゲストハウスに泊まりながら、港町Plymouthを目指した。Plymouthからはフェリーで海路、スペインへ渡る予定だった。


とにかく、暖かいところに行きたかった。  (1995年12月9日~11日)



by terakoya21 | 2019-07-21 08:30 | 新聞最新号

旅日記(てらこや新聞164-167号 海住さんのコーナーより)

59

ロンドン(イギリス)②

ロンドンは寒かった。けれど、そこは、笑顔、驚き、ため息とさまざまな感情を見せる表情いっぱいの都会だった。


 ザ・ビートルズの名アルバム「アビーロード」のジャケットの写真の横断歩道を探し、写真に撮っていると、クルマで通り掛かった若い男性が窓を開け、「何撮っているんだよ。ハハハハ」と声に出し、笑顔を向けてきた。「わかっている、わかっている、ソレ、撮りたいんだよな」とでも言いたそうだった。のちにニューヨークの街角では「お前、何撮っているんだよ。そんなもの撮らずにアメリカの女の写真を撮れよ、ほれ」と運転席からポルノ雑誌を見せつけてきたトラックの運転手がいた。


 が、ロンドン郊外に出向いて行って、ロードマップを頼りに歩いて探し当てた
EMIスタジオ前のアビーロードの横断歩道は、ビートルズファンにはおなじみの風景だけに見ず知らずの通りすがりの声掛けにも、気持ちが通じ合っているようで楽しかった。


 夜、暗く寂れた街角で、カメラを首にぶら下げ、長時間、行き来する人々の後ろ姿を撮っていた。カメラには大きく延びたレンズと、ストロボなしで撮るためのミニ三脚を装着している姿はさぞや異様だったろう。路地のコーナーでハッと出くわした人は警察官だった。その一瞬、かれは、わたしの胸のほうにぶら下がっている黒い物体を見て表情をギクッとこわばらせたのがわかった。黒く大きなカメラは脚付きでマシンガンのように映ったのではないか。

けれど、すぐにカメラであることを認識し表情を緩めてくれた、丸腰(銃は持たない)と言われていた、良い意味で職務に誇り高きロンドン市警のお巡りさんを驚かせてしまいほんとうに申し訳なく思った。とても紳士的な方だったので申し訳ない気持ちだ。

「お前、アメリカに土産(罰金)を置いていきたいのか」とすごんできたロサンゼルスの白バイとは随分違った。

前から歩いてくる2人連れの30代初めくらいのスーツ姿の男2人は、 気持ちよく酔った明るい笑顔だった。わたしの前まで来ると、ふいに、背中を向けたてズボンを下ろし、お尻をまくり腰を突き出してきた。

状況によってはなんて失礼な奴ということになりかねないが、わたしは思わず吹き出してしまった。彼らも。嫌がらせではなく、なにか罰ゲームのような罪のない遊びであるらしく、お互い笑いあった。


 楽しく旅の街歩きをするうえで重要な要素は、どんなところに泊まるかだ。ロンドンと言えば、
B&B。ベッド&ブレックファーストの略で、朝食付きの個室が提供される民宿だ。もともとは一夜の下宿のようなものだったのだろう。比較的安くてよく勧められるロンドン名物だが、有名になるにつれ宿代は高くなり、劣悪なところも増えたのではないか。当時、安くて3000円はしたし、当たり外れは大きかった。

売りであるはずの朝食もオーナーの人柄しだいで、朝食は焼きトマトのトーストではなく、ポテトチップスだけというところもあるらしい。わたしのところは、ケロッグの箱が置いてあって、適当に牛乳をかけて食べろ式のセルフサービスだった。ロンドンに到着して最初の夜はB&Bにしたが、2日目からは民間のユースホステルにした。古い邸宅を丸ごと宿泊して、大部屋に二段ベッドをぎっしり詰め込んだところに寝ることになるが、もともとが大邸宅だけに木の階段のしつらえやロビーの雰囲気などがレトロでシック。一泊の料金が1000円もしなかった。それに友達ができる。

寒くて暗いけど、居心地が良くなってきたロンドン。だが、そろそろ旅の続きを考えなければならない。その前に、イギリスに来るまでの道中で出会ったイギリス人に電話を入れて、会える人には再会しておきたい。10月にザルツブルク(オーストリア)で出会ったイギリス人マシューは、3か月の休暇を取ってヨーロッパからエジプトに向かう道中だったので、もう帰ってきているはずだ。イギリスに来たら自分の家に泊まっていけよと、住所と電話番号を教えてくれていた。

ポーランドの古都クラカフで知り合い、ワルシャワ(ポーランド)の街を案内してくれた英国人のジョナサンは「エディンバラ(スコットランド)はとても美しい。イギリスに行ったら、行くといい。友達を紹介するよ。絶対に連絡するんだよ。とてもいい奴だから」と親切にしてくれた。

プラハで部屋が同じになったオーストラリア人の体育教師もロンドンにいる。ここにくるまでに、イギリスに行けば手を差し伸べてくれる人たちと出会いがあった。

ロンドンより北はるかにあるスコットランドに行くのは、ロンドンの寒さと暗さからたじろぎ断念した。マシューの住んでいる街に行くことにした。グロウスターというイングランド南西部の地方だ。ロンドンからだと北西に、ウエールズの町に向かう列車に乗る。 (1995年12月1日~8日)


by terakoya21 | 2019-04-15 08:30 | 新聞164-167号

旅日記(てらこや新聞145-146号 海住さんのコーナーより)

55

ベニス・ミラノ(イタリア)からアムステルダム(オランダ)へ

1月の阪神大震災、3月の地下鉄サリン事件が続き、日本の「安定」をぐらつかせる契機となった   1995年も晩秋を迎えている。秋の入り口のほうではチェコのユースのロビーのテレビで、ユニフォームの袖に「がんばろうkobe」のロゴを入れたイチローらオリックスの戦士たちがリーグ優勝に歓喜する姿を見た。頑張れば復活することができる。まだまだ日本は大丈夫であるとだれもが信じていた。

当時、独身で30代半ばだったわたしは、かねてよりの海外への夢を実現させるのはこの時期しかないと、読売新聞記者の「安定」と「夢」を等価交換できる余裕を保つことができていた。30歳にして夏冬それぞれに90万円ずつあったボーナスを米ドル預金にし、世界どこでもキャッシングできるようにして多額現金を持ち歩かずに、自由な旅ができた。この旅を終えたら、松阪に帰ると決め、成田を   出て3か月がたとうとしていた。

11月になっても豊熟の秋に彩られたイタリアだったが、さすがに11月も下旬に入れば、ここベニスのサン・マルコ広場の午後のたっぷりな日差しも長い影を感じるようになった。が、キラキラと日差しを照らす海面高い海に面した広場の陽だまりは心地よく、広場とサン・マルコ寺院との間の回廊の日陰ではホームレスが一人、ベンチにゆったりと腰かけたまま快適な午睡の中にあった。ホームレスという暗さは感じず、その様子が、あまりに絵になる美しさを感じた。

大変失礼ながら、本人に断りもなく、こっそりとカメラのシャッターを切り続けた。困ったのは、わたしを真似して写真を撮る観光客の人だかりが出来たことだった。しかし、わたしが狙った構図は、寺院の回廊のシルエットと陽だまりとの対比、そして、その陽だまりの恵みを満喫する睡眠だった。世界的に見れば、ジャーナリストの多くが不安定なフリーランスという中にあって、たいへん恵まれた「スタッフ・ライター」という記者の地位を捨てこの旅に出た私自身がその後出くわすであろう未知の怖さを描いたわけではなかったが、それを感じた一枚だったのかもしれない。百聞は一見にしかず、ここに、その写真をご披露させていただくことにする。

わたしのベニスの旅は、鉄道の駅とサン・マルコ広場を歩いて往復したぐらいで、この一枚の写真がすべてであった気がする。無銭飲食のホームレスのおじさんにお土産のピザさえコートのポケットにねじ込んであげた屋台のおやじの底抜けの人情を見た貧しい南のナポリの下町から、裕福な北イタリアの都会ミラノに近づきつつある。それに伴って旅は面白くなくなる。ベニスのあとはお昼にミラノに着くが、ほんの少し街を歩いただけでいいところも見つける努力もせずに、ベニスの2倍近い値段のする宿泊所に引き返し、翌朝6時には起きて、イタリアを出国することにした。

寒いところは嫌だから、鉄道で南仏を経て、スペインに向かおうと、フランスのニース行きの国際列車に乗った。もちろん、高級リゾートのニースに宿泊する“用意”は持っていないので車窓の風景だけパスをし、漁師の名物料理ブイヤーベースを当てにして港町マルセイユで下車しようと考えていた。  ところが、なんとも運の悪いことにフランス国内の鉄道は突如全面ストに入ってしまった。「鉄道のストぐらいすぐに終わるさ」と、かつての日本の国鉄のストぐらいに考えていた自分が甘かった。ストの収束まで1か月ぐらいかかるらしい。さすがは革命を起こし、一時はプロレタリアート独裁の政権を樹立したフランスだ。国境に近いジェノバで折り返し、スイスを経てベルギーのブリュッセルに向かうことにした。

しかし、フランスのストの影響で国際列車の車両のやりくりが大変なのだろう。乗り換えに次ぐ乗り換えと、動いているのか止まっているのかさえわからないようなノロノロ運転と行き先変更のアナウンスの連続。そのたびに別の列車に乗り換える。ヨーロッパの鉄道は大混乱だった。

こんなときも世界のバックパッカーたちは、フランス国内を格安バスで通り抜けるという話を聞いたが、わたしはこの年の年末まで有効のヨーロッパの鉄道乗り放題チケットである「ユーレール・パス」を持参しているのでゆっくりと身を委ねることにする。

どうやらスイスに向かっているようだ。車窓は雪一色に覆われた山々で、谷も深い。客車は窓が大きく、おしゃれなものに替っていた。夏の観光シーズンには大勢のリゾート客の歓声が聞かれることだろう。乗り換えを待つ間、一度はスイスの空気を吸っておきたいと外に出たが、雪ばかりでその風景の良さなどわからない。しかも、物価がべらぼうに高い。イタリアの通貨リラの桁がいくつもゼロが削り取られていく感触だ。スイスのチョコレート一箱が、イタリアの宿一泊分のような気がして、すぐにこの国は発つことにした。よって、わたしのスイス滞在はほんの20分足らずとなった。

ミラノを午前7時10分発のニース行きの列車に乗り、一応の目的地に着いたのは翌朝9時40分だった。26時間半も列車に乗っていたことになる。この旅でヨーロッパに着いたとき、記念すべき第一歩を記したアムステルダムに到着した。疲れているときは知らない街であくせくと宿を探すより、頭に街の輪郭が入っているところのほうがよい。東京駅の丸の内口とデザインが似たアムステルダム中央駅を背に、小さな懐かしいホテルに向かって歩いた。さっぱりとした空気感漂うアムステルダムの街は疲れた身に心地よい。

(1995年11月23日~27日)


by terakoya21 | 2017-07-30 08:30 | 旅日記

旅日記(てらこや新聞143-144号 海住さんのコーナーより)

54

シエナ(イタリア・トスカーナ地方)

イタリア・トスカーナ地方のシエナは、ペルージャのアッシジとは反対方向だがフィレンツェからローカル列車に乗って日帰り旅を楽しめる古くて小さな町だ。ピサの斜塔のあるピサへもついでに足を延ばそう。

アッシジに出掛けた翌日、フィレンツェを朝の8時25分に出て、10時5分に到着する汽車に乗ったことを手帳に記している。シエナはアッシジに負けず劣らず魅力的で、同じくらい有名そうだが、同じではない。もう、アッシジときたら、まるで大和地方の明日香村あたりを歩いているくらい牧歌的で土の香りの乾いた薄茶色い風景の中にモスグリーンのオリーブ畑が点在していて心なごんだ。それと比べ、シエナは「ここは都市国家なんだなあ」とつくづくと思ったものだ。おそらく、シエナのライバルはペルージャ地方のアッシジではなく、同じトスカーナ地方のフィレンツェだったのではないか。政治や経済上の覇権を争った歴史があるのではないか。ここには、フィレンツェのメディチ家と同じような豪商(ブルジョアジー)の存在があったはずだなどと、想像をたくましくしている。

シエナの街の中心は、石畳の街中を駈け抜ける勇壮な競馬見物で世界的なニュースになるカンポ広場だ。広場の周囲には、12~13世紀にフィレンツェと覇権を争うくらい経済力を持った中世都市が、そのまんま、美しい姿でとどまっている。建物も道も明るい色調のシルバーグレーな石で統一され洗練されているところが、造形美として絵にはなった。大聖堂の塔を入れた写真を撮ろうと、何カットもシャッターを切った。

ただ、わたしは、造形美を写真に収める趣味はあまりなく、人間臭さを求めるところがある。野良着で街に人のいるアッシジのオリーブ農家の人たちの素朴な印象を前日に見たばかりで、キレイすぎる街に長居してくつろぐ気にはなれなかった。あまった時間で、ピサの斜塔ぐらい見ておこうと、駅に向かった。


しかし、またしても失敗した!

早めにこの街を切り上げてローカル列車に乗ったのはよいが、動き出してから気づいた。反対方向に向かって走っている。同じ失敗はドイツのデュッセルドルフからケルンに行こうとしてやっている。今回は人と待ち合わせていないのが救いだ。けれど、これではとんでもないところに行っているうちに夕方だな。なぜだかヨーロッパでは、ホームに到着している列車がどっち向いて走っていくのか、なぜか心もとないところがあった。まあ、ヨーロッパ中の主要都市をつないでいる国際列車でないからよいが・・・・。

イタリア・トスカーナの中世都市のシエナは人口5~6万人の街で、トスカーナ地方では十分に“都会”ではあるが、ドイツの大都会デュッセルドルフとはくらべものにはならない。三重県レベルでにたとえると、玉城町のようなシエナから目的地とは反対方向に乗って行けばどんな街に着くことやら?降りた駅から折り返しの汽車が来るまでには2時間はかかる。ひとけもない、駅から見える道路脇に止められたポンコツのクルマには落ち葉が降り積もっている。街歩きして楽しそうなところのない住宅地だ。駅のホームでひたすらぼんやりと過ごした。駅にはだあれもいない。なあんにもない。これはピサへ行ったらもう真っ暗になってしまうと諦め、汽車が来たらまっすぐフィレンツェに帰ろう。


美しくて小さな田舎も魅力的だが、暗い晩秋の夜はさびしかった。

おお、フィレンツェ!

フィレンツェには、美しい造形美も、人々も、“いたぁ~りあん”なざわめきも、それに、小さくて大衆的でおいしい食堂もある。人々の笑い声も聞こえてくる。人のいる場が都市の中に存在する都市。

フィレンツェ万歳!

(1995年11月21日)


by terakoya21 | 2017-05-01 08:30 | 旅日記

旅日記(てらこや新聞141-142号 海住さんのコーナーより)

番外 新春編

東京と江戸のあいだ。そして、熊野と伊勢も。

1980年代のバブルの時代を20代で過ごしたわたしたちの世代でも、お正月だけは日本で過ごしたいという人が意外と多かった。

12月25日のクリスマスを境目に、街の音楽、風景ともクリスマス狂想曲からがらりと歳末景色に一転。その喧噪は「ゴーン」という鐘とともに琴の響きとなり、  「迎春」の赤い文字に彩られた紙がお店のシャッターに貼られ街は静まり返る。このドラマチックな変化を味わい、家族、親せき同士過ごすなごみの時間が、昭和の日本のお正月だった。

昭和が終わったか、平成が始まったかのころのある正月、30歳への足音がどん  どんと近づいてくるのを打ち消そうとする気持ちの現れからか、母校の活躍に青春の幻影が見たくなって、東京の国立競技場で行われた大学ラグビー準決勝(1月2日)と、箱根駅伝(1月2日~3日)をダブルで見る贅沢な2日間を東京で過ごした。

そのときしみじみとしたのは、都内のホテルの部屋の窓から見る繁華街の様子が元日から正月3日にかけて明らかに変化していくことに対してだった。当時は東京でも、元日には人の気配がなくなり、灯りのついている店はほとんどなかった。それが2日になると少し灯りが増え、3日にはかなり平常に戻っていくさまをホテルの窓から感じとったのだった。それは、東京の年末年始という「非日常」から日常へと戻っていくさまである。


 現在は、東京に限らず、全国どこでも24時間、365日間オープンのコンビニが増え、日常と非日常の境が無くなっている。昭和の時代はもちろん、平成に入ってからも1990年代初めまでは、日常と、非日常の正月の間の区別は残っていたような気がする。わたしは、そのような「非日常」のあった東京が好きだった。

その年は、新年は松阪で迎え、真っ暗になった元日の夜に東京に着き、2日の朝、国立競技場に近い国電(現在のJR)の信濃町駅で友人らと待ち合わせ、大学ラグビーを観戦。試合終了後は表参道を原宿駅に向かったが、正月ばかりは原宿が大人のヨーロピアンな街に見えるシックな佇まいで、とても気持ちがよかった。初めて原宿を魅力ある街に感じた。3日は浅草の浅草寺に初もうでに出掛け、天どんを食べた。浅草のにぎやかな喧噪が街に華やぎをもたらせていて、江戸情緒を味わうことができた。浅草のにぎわいに心が開放されていく。

浅草から東京方面に向かう、がらがらの地下鉄の車中で新年のたっぷりの日差しを浴びながらゆったりとスポーツ新聞を広げたオッちゃんたち2人が、大きな声でちゃきちゃきの江戸っ子言葉を話している。ふだんは標準語族にかき消され、ここまで純粋な江戸族は東京でもめったに見られないよなあ、と、とても新鮮だった。2人が「もうすぐ(駅伝は)ゴールだねえ」と話しているのを聞いて、「そうだ、今なら間に合う。フィニッシュを見に行こう」と大手町で降りて、ゴールの読売新聞社前にラッシュした。ゴール付近には参加各大学の応援部が繰り出し太鼓の音がどんどこと響いている。東京農大応援部員が両手にダイコンを持って踊る農大名物ダイコン踊りがビル街の 谷間でひときわ目を引いていた。そこに集まったみんなは箱根から東京に向かって駆け抜けてくる選手たちを待っている。

わたしは箱根駅伝に、正月2日に東京から箱根の冷たい山に分け入っていく往路に対し、正月3日に箱根から東京に帰る復路は6区から7区、8区、9区と東京都心に近づいてくるにつれ、見てみる者みんなの気分がだんだん明るくなってくる違いを感じる。この場合は聖地たる箱根は「非日常」の世界であるに対し、関係者や全国の駅伝ファンが待つゴール東京はすでに十分な日常性を持って待ち受ける場であるような気がしてならない。暗く冷たい世界に向かってどんどん走っていく山上りから山を駈け下り、ひらけた世界へ快走していく明るい陽の世界としての東京が選手たちを待っている。それがわたしにとっての箱根駅伝だ。もうここ何年かのあいだにすっかり人々に定着した言葉に「元気をもらう」というのがある。箱根から東京に帰ってくる選手たちは襷とともに山の英気を持ち帰ってくる“神男(しんおとこ)”の役割を担っているのかもしれない。

三大駅伝とされる出雲、熱田・伊勢、箱根に共通するのは、代表して詣でてくるという行為だ。平安の昔より、京の都の貴族には熊野(本宮、那智、新宮の三社を中心とする紀伊半島の芯の山々を指します)に詣でるという異界(平安貴族にとって熊野はこの世とはかけ離れたくらい遠いところにある別の世界だった)への旅がはやった。熊野に詣でれば、命が蘇る、もう一度、生をうけるという熊野信仰だ。少々飛躍したが、箱根駅伝には、現代版の熊野への旅のようなところがある(「隠の世界」を代表する熊野に比べ、江戸時代のお伊勢さん参宮は、めっちゃ明るい「陽の世界」を代表しています)。

ほんと、話がどんどん異次元にいってしまいましたが、あのころの東京は、お正月になると広大な都会がしんと静まり返ってしまい、店も閉まっているので一人暮らしにはなんともやりきれなかった。しかし、明治神宮のある表参道や浅草寺のある浅草はほどよいにぎわいとても楽しかったことと、スポーツ新聞のオッちゃんたちの車内でのくつろぎ感と、江戸 言葉が標準語を圧倒していた空気感がとてもよかったというお話でした。


by terakoya21 | 2017-02-13 08:30 | 旅日記

旅日記 (てらこや新聞138-139号 海住さんのコーナーより)

第53回
アッシジ(イタリア・ペルージャ近郊)

街に着いてからそのことに気づいた。

中学生のころに観た名作映画「ブラザー・サンシスター・ムーン」(1972年公開)の主人公・聖フランチェスコが暮らした町だ。

イタリア中部ペルージャ近郊のアッシジ。駅に降りると、5キロぐらい向こうに見える丘が、その町だ。駅からバスに乗って、坂をぐるぐる回って、上って、上って。丘のてっぺんのところで下車すると、世界遺産のフランチェスコの教会があった。ただ悔やむが、そこには入らず、わたしはどこから写真を撮ればこの町を一番うまく表現できるかと思い、丘の上の町をさらに上から望むオリーブ畑に入ってカメラに夢中だった。

だが、ここまで来たなら、この教会に入っておくべきだったろう。

後悔の念を強くしたのは、この旅から2年後の1997年にイタリア中部を大地震が襲い、この教会も大きな被害を受けたというニュースを聞いたときだ。残念なことにガイドのない旅の間は、自分がどこに来ていて、この町が歴史的にどんなに重要な歩みをなしていて、目の前に見える教会や城がどんなに有名なところかも知らないうちに通り過ぎていることがざらにあった。すべての旅を終えて日本に帰り、後悔しても遅い。

それはそれとしても、アッシジの町はとても良いところだった。中世に、平坦地の真っただ中にここだけこんもりとした丘陵地に、教会を中心とした都市を築いた。高いところからたっぷりと眺望を楽しみ、オリーブ畑を歩いて写真を撮りまくり、石造りの家々が連なる町をらせん状に歩いて降りた。あとはまっすぐに駅まで延びる田舎道を5キロほど歩いて帰った。途中でオリーブを収穫している真っ最中の農家の一家に頼み、収穫の様子を写真に撮らせてもらった。

村上春樹であれば、ワインの農家を巡り、クルマのトランクにいっぱいワインの ボトルを詰め込んでくることだろう。わたしはカメラマンベストにカメラバッグ、愛用のキャノンを首に掛けて歩く、歩く。

夕方4時18分の列車に乗る。薄暗い車内より外のほうが明るい。車内はガラガラだったが、日本女性が一人で乗っていた。イタリア在住の方で、日本人観光客をガイドした帰りだということだった。「夏だと、このあたり、ヒマワリがとてもきれい  なんですよ」。建物がごちゃごちゃしない郊外の車窓風景はとてもなごむ。

乗客はわたしたち以外は、アメリカ人のグループだ。「あんたたちはアメリカ人?」と確認はしていないが、絶対にアメリカ人だ。姿を見なくても「音」でわかる。

同じ車両の随分離れたところから聞こえてくるしゃべり声と、その英語。ヨーロッパにはいろいろな言語があるが、イギリス人の英語を含め、ヨーロッパの響きがある。どことはなしに音がこんもりとして柔らかったりシックな響きがする。どれもヨーロッパ言語としてまわりに溶け込んでいるのだが、どうもアメリカ人の英語だけはきわだって聞こえてくる。声が大きいように思うし、音がカラカラと弾んでいる。ヨーロッパの音になじんでいないのだ。たぶん、アメリカ人はそのことに気づいていないだろう。

私はだんだん、ヨーロッパ人たちの、何語であろうが、あの「モゾモゾ」という感じに響いてくる言葉が意味もわからず好きになりかけていた。イギリス人の英語はヨーロッパ言語に聞こえるのだが、アメリカ人の英語はヨーロッパとは 異質なもののように思えた。言語も、着る物、食べ物の違いと同様、その土地、土地の風土なんだと思う。

いつのまにか、車内は、目の前に座っているガイドの女性の存在だけが確認できるくらいの明るさだった。もう夏じゃないのに、イタリアの列車はまだ夏時間なのかな。日はどっぷりと落ちている。
女性は比較的すぐに下車し、あとはアメリカ人のグループだけだった。声だけがやたらと響くワ、うるせい!

(1995年11月20日)
by terakoya21 | 2016-12-04 08:30 | 旅日記

旅日記 (てらこや新聞137号 海住さんのコーナーより)

第52回
フィレンツェ(イタリア)

1995年8月31日付で退社した新聞社の社員手帳「’95読売手帳」は、退社翌日の9月1日に成田を飛び立ったあともメモ用に使い続けていた。11月19日(日曜日)のページには、「午前8時ナポリ発、午前10時5分ローマ経由 午前11時58分フィレンツェ着」と書いている。

イタリア南部の中心都市ナポリから、近世にルネサンス文化が花開いたフィレンツェまでは遠くないと記憶しているのに、実際は4時間近くも、特急列車に乗っていたわけだが、2時間おきという等間隔で主要都市があるのもバランスがよい。それに伴って都市のカラーも違ってくる。

西ヨーロッパならどこへでも一等車乗り放題の外国人専用の「ユーレール・パス」(3か月間有効)を買ってあるので、インターシティと呼ばれる超快適な特急を使っている。イタリアは、南から北に行くにつれ、お金持ちが増えてくるようだ。

ローマから北へ向かう車両に乗っている人は、服装や鞄、装身具などに随分お金がかかっているように見えた。特に中年以上のビジネスマン男性の、鮮明な青のシャツやネクタイの鮮やかな色彩が印象的だった。1995年の秋、ドイツやオーストリア、旧東欧で見てきたヨーロッパの人々の服装はダークな色合いが多かった中、イタリア人たちのファッ ションの色使いは大胆だった。しかし、11月も後半だというのに、暖かい太陽が降り注ぐこの国では人々にうまくマッチしている。

10月後半から11月初め、ポーランドやドイツでは身も凍るほどの寒さだったのに、ほんとうに快適で、秋という季節の彩りを感じることができた。イタリアで買った英字新聞「ヘラルド・トリビューン」紙には氷柱が垂れたウィーンの写真が載っていた。

これだけ気候が違えば、地中海性民族のイタリア人たちと、北のゲルマンの人々とではキャラが異なるのも当然だ。

犬が違う。ドイツやオーストリアではしつけの行き届いた大型犬が、まちなかを紐にもつながれず飼い主の前をおとなしく歩き、そのまま電車にも乗っている。片や、イタリアのローマやナポリあたりではバイクの排気音がビーンと石畳に響き排ガスのにおいが充満する。野良犬や野良のネコがひょこり顔を出す。無銭飲食の男にピザをふるまったナポリのピザ屋のあるじ、わたしにフォークとスプーンの使い方を教えるために厨房から飛び出してきた店のご主人。人の気質というものの差にあらわれる。

それにしても、フィレンツェ。このわたしに何を語る必要があるだろうか。

ヨーロッパにルネッサンスをもたらした芸術の街、そして、豊かな建築美、建造美。町中が美術館のようだ。町のシンボルでもある、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(ドゥオーモ)の屋根裏の通路を歩く見学コースはやはり体験したくなる。ドゥオーモの高いところから市街地を眺めても赤い瓦の続く街と、遠くに見える丘陵。気持ち良いよオ。秋、秋、最高の秋という季節を堪能している。

しかも、ちょっとした出逢いもあったというか・・・。大聖堂(ドゥオーモ)の屋根裏の通路で写真を撮っていた日本人の女性に声を掛けた。いっしょに観光名所を回り、少し、気分が開放感につつまれたせいか、まちの広場で売っている古着を買う贅沢をしてしまった。肩のところに旧・西ドイツの国旗のマークが小さくあしらわれた、厚手のふんわりと綿の入ったコットンの色あせたミリタリー・ジャケット。日本では決して買うことのないタイプのものであったが、羽織ってみた。あせたグリーンが似合った気がした。

しかし、その後、ベネチアのユースホステルの大部屋で、同じ部屋にいた白人女性が「なぜ、あの人はドイツ軍のジャケットを着ているか」と話しているのが気になった。こっそりドイツの国旗の部分を破ったのだが、オランダに入ったときはジャケットそのものをゴミ箱に捨てることにした。

第二次大戦中のヨーロッパ戦線でドイツが犯した戦争というものの残虐性を思い、こんなジャケットは着ていられないと思ったからだ。イギリス人にそのことを話すと、「ドイツの国旗は、戦後制定されたものだから関係ないよ。捨てることはなかったんじゃない?」と、笑っていた。

確かに、ミリタリーを採り入れたファッションは世の中に数多い。別に気にするほどのことではなかったかもしれない。持参していた黄色のパーカーを着ることにした。その後、アメリカに行ってわかったことだが、東海岸にはヨーロッパ系の色が多いが、西海岸には黄色や赤、青といった原色系が目立った。もっとも、西海岸は暑いので冬でもパーカーなど要らなかったが・・・。
(1995年11月19日)
by terakoya21 | 2016-09-25 08:30 | 旅日記

旅日記 (てらこや新聞136号 海住さんのコーナーより)

51

ポンペイ(イタリア)

ヨーロッパをめぐるのに4か月間と、たっぷりと時間のある旅だった。それがかえって、あっちに行こうか、あそこはやめておこうかなどと現地であれこれ取捨選択をすることにけっこうムダなエネルギーと時間を使ってしまうことがあった。


羅針盤のない一人旅で知らない国に入るときは、まずはその国の首都から入り、ちょっとはその国の“仕組み”に慣れておいてから興味のある地方に出向く。この旅のイタリアでは、ドイツのケルンから夜行でローマに入り、その南のナポリへと向かった。


最近、イタリアからエーゲ海クルーズを楽しむツアーに参加した70代の夫婦は、「旅行会社の人は、『ナポリでは街に出ません』と言うんですよ」と話していた。団体旅行のお客さんを連れて歩くには、ナポリはひったくりや強奪などの被害に遭う危険が大きいということなのだろうか。わたしが旅した20年前と今とでナポリの治安に変化があったのかどうかは知らないが、大手代理店の団体旅行にはナポリはあまりオススメできる都市ではないということだ。その代わり、ナポリを経由しないと行くことのできない南イタリアの魅力ある観光名所は数多い。位置感覚的には、半島の先っちょの小さな町や島々にいくためのゲートウエイのような都市がナポリだ。伊勢志摩に当てはめれば、志摩半島に対する鳥羽みたいな位置にあるのかもしれない。食べるという享楽においてもパスタやピザの発祥はナポリで、ほんまもののある路地裏をうろつくにはある程度の危険は覚悟しないといけないみたいなヤバさがある街なのかもしれないな、ナポリというところは。


ヨーロッパの旧市街の石畳の道を、真っ赤なボディに「Look JTB」と書かれたエアコンの効いた大型観光バスが走り抜ける。日本人団体客専用バスが、重い荷物を背中に担いで黙々と歩くわたしのヨコでエンジン音を吹かす。そうしたツアーの行き先は、豪華クルーズでカプリ島の「青の洞窟」を訪ね、海の幸を堪能するリゾートだろう。


観光バスでぐるりと行ってしまうような旅の場合はナポリがどんなであろうと無関係に通り過ぎればよい。けれど、わたしの場合、この先、宿が取れるのかどうかわからない小さな町に行きたいときは、いったんは最寄りの玄関都市にステイし、そこで土地の勘のようなものを身につけ、ガイドブックではわからない現地情報をゲットしてローカル線やバスルートのダイヤを知って、日帰りで済むのか、その先で宿をとったほうが有利なのかどうかを判断する。ヨーロッパでも少しへき地のようなところに来れば、この先「どうにかなるサ」ではなく、慎重に情報を確認する。とはいえ、多くは適当な自分の勘に任せることが多く、それなりにドジを踏んでしまい、半日棒に振ることもある。しかし、まだ30代半ばだったそのころはすべてを経験として蓄積できた。駅を乗り過ごし、一つ向こうの駅から歩いて戻るような失敗をしてもそれを取り返せるエネルギーがあった。


数ある失敗の一つにすぎないが、ポンペイに着いたときはもう午後4時を過ぎていた。火山の噴火で積もった火山灰に町がすっぽりと埋もれた紀元79年のローマ人の都市の遺跡は、せっかくここまで来たのに日没の1時間前には閉鎖になるということで、入るのをあきらめてしまった。遺跡の外から発掘された街路をちらっと見たが、のちにポンペイ遺跡の価値を知るにつけ、悔やむことが多い。埋もれたときのままに見つかった遺跡からは当時の人々の暮らしぶりが生き生きとしのばれるもので、ワインのある居間の食卓や人々の交流の場である居酒屋、街区や道路がある。いったい文明って何なんだ? 日本ではまだ卑弥呼が生まれるよりも前の時代に。


1時間やそこらあれば見ることができるのではないかという錯覚はわたしたちが知っている博物館などで勝手に身につけてしまった勘違い。丸一日でもかけてでも見る気概が必要なのかもしれない。いま思うのは、翌朝早くナポリを出て、たっぷり1日かけてポンペイという街を見て、古代を感じれば良かった。ただ、実際には遺跡の中に入っていないからどんなふうだったかは知らない。肖像画やワインの壺や食器など出土品はナポリの美術館に収蔵されているそうだ。


遺跡は見ることができなかったが、ローカル列車の車窓からぼんやりと眺めた南イタリアの海岸線の平和な風景を楽しむことはできた。松阪にあったイタリア料理店「カピタノ」さんは、このポンペイよりさらに半島を進んだところにある宿泊付きのレストラン「カピタノ」で修業をされて松阪で同じ名の店を出し、ピザを焼く窯もナポリから取り寄せたものだと聞いた。あとでふり返ると、高速鉄道で主要都市を中心にめぐるヨーロッパではなく、ローカル列車と路線バスで南イタリアの半島めぐりや、イタリア中部のトスカーナ地方の村々をもっとしておきたかった。ほんの断片に触れただけの旅だった。


そんな後悔は、その土地を去ってからわいてくる。そのせいもあって、スペイン最南端のアンダルシア地方では小さな都市と小さな都市をつなぐバスで田舎を回ることができたのは良い思い出だ。

(1995年11月18日)



by terakoya21 | 2016-08-13 08:30 | 旅日記

旅日記 (てらこや新聞135号 海住さんのコーナーより)

第50回
ナポリ(2)(イタリア)
ナポリ人有情

街の中心に近い場所で、開けっぴろげの大衆食堂を見つけた。まだ時間が早かったせいか、がらんと広い店内はガラガラ。長方形の加工板に鉄の脚の付いたテーブルがいくつか置いてある。ナポリタンというわけではないが、スパゲティを注文した。

食べ始めると、厨房から、右手にフォーク、左手にスプーンを持った親父さんがわたしのほうにすっ飛んできた。

「いいか、こうやって食べるんだ」。

スパゲティの食べ方を教えに来てくれたのだ。

わたしは、もともとフォークで麺をくるくると巻くのが苦手。20代のころはイタリア料理の店には行ったりしなかった。ましてやデートでそのような店に行くことも避けてきた。けれど30代になると、あんまりスタイルのことには気に掛けず、おいしいものは食べたいという気持ちを優先するようにはなっていた。それに、ここは、ミラノやフィレンツェの気取った店ではなく、ナポリの大衆食堂だと油断していた。

ところがなんとこの街には下町の親父さんがいた。

日本人が外国人に箸の使い方を教えるように、左手のスプーンの上で右手のフォークを使ってくるくると麺を巻くよう手ほどきをしてくれた。これを本場仕込みというのかもしれない。以来、スパゲティを食べ、麺が巻きにくいとき、あの親父のワンポイント・レッスンを思い出す。

屋根はテントのような店でピザを食べたときのことだ。

客は、先に、ダブダブのトレンチコートを来たボサボサ頭のおじさんがひとり。若い店員とのやりとりがどうもヘンだ。店員は怒っている。どうやら、無銭飲食らしい。店員の兄ちゃんは、「ポリツァイ」(警察)、「ポリツァイ」と言い、店の電話のダイヤルを回した。おじさんはすっかり観念し、うなだれている。

わたしが注文したピザが焼き上がると、店の親父が出てきて、静かな口調で説教を始めた。警察が来るまでの時間稼ぎと思われた。

店の親父は、頃合いを見て、「さあ、立って。行けよ」。やはり静かに促す。座ったまま、親父を見上げるダブダブトレンチのオジサン。立ち上がったオジサンの後ろには、兄ちゃん店員が立っている。兄ちゃんは、トレンチコートの左右両方のポケットに紙袋に包んだ熱々のピザを2つねじ込んだ。驚いて振り返るオジサンにはニッコリ微笑んでいる兄ちゃんが目に映った。

警察に通報したフリをして、実は電話などしていなかったのだ。

一つ離れたテーブルで一部始終を見ていて心温まった。いいものを見せてもらった。

たっぷりとナポリを堪能した。

さて、あすは、紀元79年のヴェスヴィオ火山の噴火によって発生した火砕流で一瞬にして埋もれた都市ポンペイ遺跡へ出掛けるとしよう。ナポリからローカル列車で海岸線を走れば1時間もかからず到着するはずだ。

(1995年11月17〜18日)

by terakoya21 | 2016-07-15 08:05 | 旅日記

旅日記 (てらこや新聞134号 海住さんのコーナーより)

第49回
ナポリ(イタリア)①

「ナポリを見てから死ね」。いやだ。こんなところで死にたくはない。

「ナポリを見てから死ね」。こんな“格言”があるそうだ。ナポリには人生の享楽がぎっしりと詰まっている。そんなナポリを知らずに終える一生なんてあまりにつまらないでないかという意味のようだ。そんなナポリに出掛けようと、ローマから南へと向かう特急列車に乗り込んだ。

しかし、ガイドブックを読むと、おいしい話ばかりではなさそうだ。スリ、ひったくりの手合いには特にご用心。いかにも裕福そうな北イタリアと違い、イタリア中央に位置するローマよりも南にあるナポリは貧しい。ローマでは被害にこそ遭わなかったが、ニセ警察官に狙われた。もっと用心するに越したことはない。

車内でパスポートや航空券などの貴重品はカメラマンベストの内側にしまい、しっかりとチャック。財布には小銭と、万一のときに差し出す1米ドル紙幣だけ残し、あとは靴底のスポンジの下に隠し、鞄のチャックには南京錠で鍵をした。わたしの所持品の中で最も高価で人目を引く、キャノンもひとまずカメラバッグごと、「ブラックホール」(何でも入るというパタゴニア社製の黒一色の怪しい大きな鞄の商品名)にしまった。あとは気持ちを引き締め、すたすたとスキを見せずに歩くことだ。万全の態勢で駅から街へと出た。

防犯上、街なかでは地図を開かなくても済むよう、泊まりたいホテルの位置を記したメモを手の中にしのばせた。が、なんということはない。ひなびた田舎町っぽい。古い建物ばかりで、手入れは行きとどいていないが・・・・。

これなら大丈夫そうだ。「地球の歩き方」は、大げさに書きすぎるなあ。殺風景な建物の下の歩道をテクテクと歩いた。人々はのんびりとしている。その街が危ないかどうかは歩いてみれば雰囲気でわかる。

気持ちの緊張を解いた、ちょうどそのときだ。この旅最大の身の危険に見舞われたのは。

ガガガガガー。なにが起きたのだろう。一瞬わけがわからなかった。ものすごい音とともに、頭の上の古い建て物の外壁の石が落ちてきたのだ。軒先でバウンドして、1メートル前方に落ちて砕け散った。長さ30センチはあるコンクリートブロックのような外壁だ。頭に当たったらその場で死んでいた。あまりの 恐怖に立ちすくんだのが幸いした。そのまま前に向かって歩いていたら、いまごろわたしはこの原稿を書いていなかっただろう。

周囲の建物から人々が、わたしの回りというより、砕けて散った石の回りに集まった。わたし以外に歩行者はいなかったからけが人とか犠牲者はいない。群がった人々がザワザワと話し、なにやら、わたしのほうを見る。

「オイ、死にそうだったんだぞ。大丈夫か?のひと言はないのかよ」。と、心の中で思う。

しかし、それどころか、目線は冷たい。

「(この石を割ったのは)こいつか?」という調子でわたしを指指す男がいた。別の男が「いや違う。こいつがやったんじゃない。上から落ちてきたんだ」と言ってくれたようで、頭上を指で指している。やれやれ。ヘンに犯人扱いされなくてよかった。僕は死ぬところだったのだぞ。

それにしても、こんなところで死んでいたら・・・。それこそ、物盗りのえじきだったろうか。果たして身元は確認してくれるだろうか。警察官はなんだこのアジア人はという扱いだろうか。地球上のたった1人きりという危うい立場を思い知らされた。まさしく、ロンリー・プラネットな気分だ。

貴重品を盗られないよう万全の態勢をとったはずだが、頭の上から石が降ってくるなどとは想像はしていなかった。

ナポリを堪能もせず、死んでたまるか。砕け散った破片に当たることもなく、そして、歩道の器物を壊した犯人にされなかったことを良しとしておこう。

ともかく、なんともなかったのは良い。早くホテルに入り、荷物から開放されたい。体が汗ばんでいるので、熱いシャワーを浴び、さっぱりしたTシャツに着替えたい。

ホテルは日本円にして1800円ぐらいの部屋だが、床の大理石が心地よく、ひんやりと心地よい。
ひと心地ついたら、身軽になって街を歩くぞ。まずは、ナポリ一おいしいピザ屋と、世界的ガイドブック「ロンリープラネット」が推奨しているところへ行こう。それに、ビールだ、ビールだ!
(1995年11月17日)
by terakoya21 | 2016-06-05 08:30 | 旅日記

英語塾の寺子屋かめいの元気を発信します


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