人気ブログランキング |

カテゴリ:寺子屋の日々( 123 )

寺子屋の日々 ~Days in Terakoya~ (てらこや新聞114号 亀井のコーナーより)

~ What can I do for…? ~
~ 「授業中眠くならない方法」~


「先生、どうしたら授業中眠くならないですか。」
「集中力はどうすればつきますか。」
「英単語はどうすれば覚えられますか。」
「なにか良い問題集はありますか。」

全て、私には応えられるけれど、おそらく、その応えは全て、期待されている応えではないと自信を持って言える質問である。

「授業中眠くならない方法」も「集中力をつける方法」も、毎日、早寝早起きを心掛け、良い睡眠をとることである。でも、それは、現代っ子たちがほとんどの場合、「無理」と言って実行してくれないことである。

また、「英単語の習得法」は、いくつかあるが、私は何度か、もしくは集中して見る機会さえあれば、覚えられる。それは、おそらく「どうすれば単語が覚えられるのか」と悩む人にはそぐわない方法だと思う。「良い問題集」は、たくさんあるけれど、「万人にとって良い問題集」であれば、答えは「ない」である。

そして、そういう日常的に子どもたちから発せられる「質問」を聞いていて思うことがある。それは、彼らは何事も目の前の問題は「自分の外側に要因がある」もしくは「自分以外の人や物が何か『良い解決策』を教えてくれるはずだ」と考えているということだ。

授業中、眠くなったことがないという人はおそらくほとんどいないのだと思う。でも、「眠くなる」と「眠る」には大きな違いがあり、また、「眠くて授業が聞けない」というのも「眠くなる」という事象からは大きくかけ離れている。

「眠る」には、本人がその選択をすることが必要だ。学生が、意志に反して眠りに落ちてしまうほどの眠気に授業中襲われるとすれば、ほとんどの場合、そんなに「眠くなる」原因も、本人が作り出しているはずである。

「どうしたら、眠くならないですか?」という質問ではなく、「どうして、眠くなるのか」という質問であるなら、私は「それは、あなたの生活悪習慣のためです。」と応えるだろう。

また、「集中力が続かない」のは、自分たちに 「続ける工夫」や「続かなくても勉強のできる工夫」が足らないからだ。単語を覚える方法も地道に自分に合う方法を見つける努力をするのは自分自身だ。

そして、最近気になるのは、テスト期間中に私が生徒にする質問への彼らの応えである。

私: 「テスト勉強は進んでいますか。」
生徒: 「いいえ、やる気がなくて・・・」

「やる気」は勝手には出てこない。また、学生が勉強をするとき、「やる気」がある、必要などない。勉強は、やる気がある、ないに関わらず、「する」 ものであり、それがわかっていない人が、「やる気」になることなど、はっきり言って、「ない!」のである。

学習に対する問題も、数学などの問題と同じく、すぐに答えがでなければ、少し視点を変えて考えてみてほしい。そうすれば、解決策は自ずから出てくると思う。なぜなら、その解決策は、あなたの中にしかないのだから…。

そして、最後に親御さんに一言申し上げておく。

「やる気スイッチ」などない。「やる気」は、生活習慣や人間関係に大きく左右されているということに気が付いてほしいと思う。

(Y.K)
by terakoya21 | 2014-10-09 13:44 | 寺子屋の日々

寺子屋の日々 ~Days in Terakoya ~ (てらこや新聞113号 亀井のコーナーより)

*「てらこや新聞」113号は2014年8月20日に発行されました。

~ Remember Hiroshima & Nagasaki ~
~ 平和ってなんだ? ~


日本の多くの人々にとって、8月は特に「平和」について考える月だと思う。私にとっても、8月、9月はそういう月である。それは、おそらく日本で生まれ育ち、またアメリカで3年という歳月を過ごしたからだろう。

私にとって、8月6日か9日は、小学生時代の夏休みの登校日で、原爆の日である。そして、8月15日はお盆の期間中でもあり、終戦記念日。また、9月11日は、アメリカ同時多発テロの起こった日だ。

アメリカ同時多発テロは、自分が目の当たりにし、下手をすれば親しい人が犠牲になっていたかもしれない身近な惨事だけれど、それ以外は、私が生まれるずっと前のお話―けれど、8月6日、9日、15日というのは、私の心にいつも残っている。

この仕事をしていると、それは、何故なのだろうか…と考えることが多くある。

―それは、今の子どもたちの多くが、「8月6日は何の日か」とか「終戦記念日はいつ?」という質問に答えられないからだ。

高校時代、ある人が自分の誕生日を伝えるのに「8月5日、広島の原爆の日の前日」と紹介していた。それは、とても印象に残る説明で…私は彼の誕生日を今も忘れない。そして、私の姪っ子の誕生日は8月15日で、彼女の誕生日のお祝いを忘れたことはないけれど…やはり8月15日はそれ以前に私にとっては「終戦記念日」なのである。

そういう思いを持たせるほど、私たちの学生のころの「戦争」は・・・体験としての「戦争」ではないものの、覚えておかなければならないものとして、幼い私の心に沁み込んでいた。それでも、学生時代の私は、戦争のお話は嫌いだったし、戦争のお話の感想を求められたら、「戦争はいけないと思う」と言えばいい・・・くらいの感想しかもっていなかったと思う。

高校2年生のとき、アメリカの中学3年生たちと「アメリカ史」の授業を受けていて、「原爆」を正当化する人たちがいることを目の当りにした一方で、戦争をどちらの立場からも考えてみようとする授業を受け、私の知らなかった「相手国」の立場や考えを聞いた。そして、大学生のとき、第一次湾岸戦争へ、高校時代に知り合った友人が出征したこと、その後精神を病んでしまったこと―を知った。

大学院留学中には、パレスチナ人たちと知り合った。そして、イスラエルの肩ばかりもつように見えるアメリカがパレスチナの人々の多くを受け入れていることを知り、同時に「平和な祖国」を知らずに私たちと同じ年月やそれ以上を生きていても、これほど優しくなれることに衝撃を受けた。

そして、今、子どもたちと話をすると、「戦争は嫌」、「戦争は怖い」と言って、学校で行われる「平和教育」の一環のお話を聞いていなかったり、映像を拒否していたりする様子がうかがえることに、かなり不安を感じる。

「誰だって争うことは嫌」なのだ。だけれど、少なくとも、私たちの時代の「平和教育」は、「嫌」とか「怖い」とかの感情に訴えるのではなく、戦争は 「無惨」で「無益」であることを強調していたと思う。それは、大きな違いであると私には思える。「嫌」なことや「怖い」ことは、目をつぶったり、自分だけ避けることができるというような印象があり、自分たちが考えないということで、避けていけるような印象がある。けれど、無惨で無益だと言われれば、それを自分たちが避けるためにできることを考えなくてはいけないと感じるのは、私だけだろうか。

そこが、現代っ子たち…私たち以上に「人権教育」を受け、世の中でも「戦争や 平和」が盛んに話題にのぼるのに、無関心に見える理由ではないかと感じる。自分たちの感情を優先し、相手まで、その対象のものに思いをはせることができないでいるのではないか。

そして、世界の友人たちを見ていて思う―平和とは、自分たちの「弱さ」を知り、相手を理解しようとする努力と周囲への少しの「優しさ」から作られていくものだと…。今、日本の教育に必要なのは、「感じる」ことから「考えること」へと発展させて学ぶ努力をすることで、まずは、「おもてなし」より「おもいやり」なのではないかと思ったりもする。

(Y.K)
by terakoya21 | 2014-09-13 11:19 | 寺子屋の日々

寺子屋の日々 ~Days in Terakoya~ (てらこや新聞112号 亀井のコーナーより)

… ※Genius is 1% inspiration and 99% perspiration. …
~ ※2学びて思わざれば則ち罔(くら)し、思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し ~


ときどき、生徒たちが学校で憤った話を「先生、聞いてください!」といいながら、話始める。彼らの主張の半分以上が私も納得し、「それはおかしいね」なんて、一緒に憤れる内容なのだが、半数近くが「それは、君たちがあかんやろ」と言いたくなるものでもある。

そういうお話の中での生徒たちの憤りは・・・ほとんどが、まず若者の基準となるところが、大人から見ればおかしいということに気が付いていないところから来ている。だから、「大人」の1人である私が納得するはずはないのだけれど、私もその彼、彼女らから見ると理不尽なことを言うはずの「大人」であることが忘れられていることも多い(^_^;)

そして、そんなお話に見え隠れする「自分たちは正しい」という彼らの基準・・・学習にも現れる(+_+)。間違った解答に×を付けて返すと・・・

「先生、これどこが違うんですか」 とか

「あってますよ」と

堂々と主張する彼らの「自分が間違っているかもしれない」という不安を持っていないのではないかと、こちらが逆に不安になるような態度に・・・「学ぶ姿勢」のなさが学習の最大の妨げであることを思い知らされる。

もちろん、どんな先生だって間違うし、見間違うし、見落とす・・・けれど、英語を学び始めて数年の彼らと、英語を学び始めて30年以上、教え始めて20年以上が経つ私を比べれば、私が「英語の問題」に関して間違う確率は彼らが間違う確率よりは低いはずだ。

もちろん、私も間違う。けれど、中学生や高校生になった生徒たちが本当に学ぼうとしているとすれば、なぜ間違っていないと思うのかの根拠をしっかりと示して、質問をする姿勢が必要だと思う。少なくとも私は、学生時代、その先生との経験の差を埋めるために根拠となる辞書や参考書、何かの本などを調べ、その根拠をもって、先生に主張しに行ったものだ。

それが、私の英語への興味と実力をどんどんと強めていったのである。

そして、こちらが間違っているのではないかと不安になるほどの勢いで、「自分が正しい」と主張する割には、自分たちの間違いを指摘されたときの彼らの反応のあっけない変わり方に、反省のなさが表れ・・・「学ぶ内容」よりも「学ぶ姿勢」の大切さを痛感する。

一方、世の中の出来事にしても、政治家の態度も、政治への批判も…大人が、自分たちの以前の行動が今に至っているという反省もないことを映し出しているとしたら…地道に、子どもたちに語る努力を続け…責任のある行動とは、真摯な反省とともにあることを伝えたいと感じる。

学ぶ姿勢が―肘をついて勉強する姿にも、授業中我慢も隠すこともせずあくびをする姿にも、まっすぐ座っていられない態度にも―軽視されていると感じずにはいられない。私たちの仕事は、子どもたちの学びを手助けする仕事。あくまで「手助け」であり、私たちの努力だけで、子どもたち自身の努力なしでは、学べるものも学べない。子どもたちがまず努力しなければならないことは、「学ぶ姿勢」を自ら作ることだ。

そして、「学び」に大切なのは、「自らが知らないこと」が世の中にあることを認識すること。それは…明らかに人生を生きやすくすることでもあると…私は、40歳を越えて、今感じている。

※ 「天才は1パーセントの才能と99パーセントの努力からなる」という意味のことわざです。

※2論語のなかの「孔子」の名言で「教えてもらっても自分で考えなければ役に立たず、自分の考えばかりで学ばなければ危ない」という意味です。
(Y.K)
by terakoya21 | 2014-08-12 20:59 | 寺子屋の日々

寺子屋の日々 ~ Days in Terakoya ~ (てらこや新聞111号 亀井のコーナーより)

...Ladies and Gentlemen,
Be Indecisive and Flexible! …
~ オトナたちよ、優柔不断 で
 臨機応変でいよう! ~


最近の世の中の「教育論」を聞いていても、若者の話を聞いていても首をかしげることが多くある。そして、塾の学校への干渉(介入?)―を目の当りにすると、もう怖くなるときさえある。それはなぜかというと…「教育」の選択肢が奪われていると感じるだけではなく、「断定口調」というのか、自信に満ち溢れているように見える人が、そういう光景には多いからだ。そして、彼らの言葉は本当に息苦しい―生き苦しいとさえ見える世の中を象徴するような響きに満ちている。

当然のように皆が言う「みんなで仲良く」という言葉―これは、私が小学校・中学校・高校時代、学校が大嫌いだった1番の理由だ。私は、みんなとは仲良くできない―そして、嫌われてもおかしいことはおかしいと言いたい。だから、小学1年生から中学3年生まで毎年、面談で担任に母が言われたことは「亀井さんの言っていることは正しい。でも、言い方がきつい。」だったという。けれど、私にとって救いだったのは、この言葉への母の反応だったと思う。

先生には、「私も昔そうでしたから(笑)。私に似たんですね」と。そして、私に、「また言われたわ(笑)。言っている ことは正しいけど、きついって。泣く子もおる から、気をつけなさいって」だった。

人並みにうっとうしいと思ったり、両親が離婚したら絶対私は父についていくと信じていたりした時期があるけれど…私が母に絶大な信頼を置く理由は、私の成長する過程での、この母の「臨機応変さ」だと思う。

“オトナなんて、言っていることが、そのときどきで、しょっちゅう変わり、大いなるうそつきである。だけれど、何かっていうときには、必ず信頼できるー。”

というのが、私を支えてきた大人への信頼だ。 それには、母の態度が大きく影響している。そして、気が付けば私も、すでにそんな―「優柔不断」とも言える大人の仲間入りをしている。

一方、今の大人の多くは、いつも「きれいごと」を並べ、そして、それを信じている。一見、「首尾一貫」しているようにも見える。

なのに、していることは、本当にめちゃくちゃ。けれど、それを認めない。

そして、「子どもというものは…」なんて勝手に決めつけて、子どもへの対応をする。「いじめ」での「自殺」などのニュースが流れたときの「教育評論家」の発言に、私はよく首をかしげる―

子どもって、本当に大人に何も話そうとしないのだろうか、と…。もちろん、話さない、話せない子どもたちは多いかもしれない。でも、皆がそうでないとすれば…「自殺」や子どもたちによる暴力行為や 犯罪を防ぐために大人たちがすべきことは…子どもたちが、信頼する大人に自分たちがなろうとすることではないのか、自分たちの「弱さ」を見せることではないのかー。

きれいごとや「かっこいいことば」にあふれる世の中では、「強さ」が「良いこと」のように見える。だから、子どもたちは、他人に頼ることが苦手になり、大人に頼ることができないのだろう。そこでは、いじめられていることが「かっこ悪い」と思うのかもしれない。―けれど、「いじめられていること」はかっこ悪いことではない。「弱い者いじめ」をして、自分より下だと勝手に判断したものより自分が上にいると信じて、いきがっている人のほうがよっぽどかっこ悪い。(少なくとも私には、そういってくれる大人が何人も周りにいたが―)

自分の「弱さ」を認識できる人が、本当は一番「強い人」である。「いじめ」は自分自身が、「弱い」ということを認識できない人が行う行為だ。だから―「弱い」から「いじめられる」わけでも、「強くなれば」いじめられないわけでもない。

また、民主主義は「多数決」で決まっていくことが多いけれど、それは、「正しい」ということではない。そして、自分の住んでいる世界が、すべてでは  ない。白か黒、正か非かに分けたがる人が多い世の中だけれど、正しければ、人がみな幸せになるわけではないし、皆がすることが正しいとも限らない。

…子どもたちは、学校でのいやなことや人にされたこと、そして、してしまったこと…すべてではないけれど、自ら話したいと思っている。少なくとも塾で、何もできないはずの私たちに…話をいろいろとしていく姿を見れば、そう思わざるを得ない。

私は、ご存じのとおり―決してやさしい言葉をいつもかけられるほど大人ではない。いけないことはいけないと言うし、間違ったことや自分が嫌悪感を持つことには、きつい一言をお見舞いするのは、小学生のころと何も変わってはいない。そして、母同様、言っていることはハチャ メチャな大人にすでになってしまっている。

けれど、子どもたちが私を頼ってくれているとすれば、この「ハチャメチャ」さに安心してくれているのだと思う。-私が、母が何かを言うと安心したように…。

私も人間だから、迷い、間違う―そして、今の人生はその「間違い」の経験や「迷い」から学んだことの上に成り立っている。だから、あなたたちも悩んでも、間違ってもかまわ ない。けれど、私は、できれば「正しく」生きていたい。だから、きついことも言う。正論を言っているだけに聞こえることもあるだろう。その上で、正しくない私も、悪いことをしたり、言ったりする自分も、受け入れて、いつも次なる一歩を踏み出そうとしている。それが、オトナである。

そして、同じように、間違ったり、悩んで動けなくなったりする。そんなあなたたちを受け止められるオトナになりたいと思っている。

そんな気持ちが、子どもたちに伝わっていれば、いいなと思う。

(Y.K)
by terakoya21 | 2014-06-30 06:30 | 寺子屋の日々

寺子屋の日々 ~Days in Terakoya~ (てらこや新聞110号 亀井のコーナーより)

… Haste Makes Waste… …
~ 急いてはことを仕損じる ~


「授業への要望」を聞くと、よく「『リスニング』を授業でもしてほしい」という意見が届く。けれど、その要望に私たちは、目に見えて…というか、期待される形では対応をしていないと感じている生徒がいると思う。この意見では、『リスニング』『ヒアリング』という聞き取りの力をはかる部分が定期テストにはあり、そのための「対策」なるものを求められているのだということは重々承知だけれど…『リスニング』のためだけにできる対策などないのだから、私たちは「音読」に力を入れることでその対応を前々からしてきている。

『聞き取る力』は、音声を聞くということだけを繰り返せば身に着くものではない。もちろん、それは英語の音と音波に慣れるという効果はある。けれど、それは、英語を理解させる効果は少ない。

『聞き取りで理解する』基礎は「黙読」と「音読」から作られる。そして、単語を覚え、文法を覚える努力が加われば、それなりの「聞き取る力」は自然についていくのである。そこで、日頃の教科書の授業ではなるべく音読をするようにしているので… CDなどを使ったリスニングの授業は、受験対策などではするけれど、日頃の授業でそれをしてほしいというのなら…その前に生徒たちにしてほしいと思うことがいくつかある。

文法の授業で…「“That picture is beautiful.” を疑問文にしなさい。」という問題があったとしよう。私は、授業で…“That picture is beautiful.”を読み上げ、「これを疑問文にすると?」と尋ねる…。答えは、”Is that picture beautiful?” で、答えに使われる単語は、問題文に使われているものとそっくり同じである。その文章が正しく自分の問題集やノートに書かれているというに…自分の答えを発音できないという生徒が多くいる(もちろん、例として用いているので実際にはもう少し難しい単語のときである)。これは、どうしてだろう。考えられるのは、①私の発音があまりに下手(上手?)すぎて、聞き取れなかった、②私の発音を聞いていなかった、のどちらかだと思う。私の発音は、取り立てて下手でも上手でもないと思う。そして、もし、注意深く聞いていたとして、聞き取れなかったのであれば、「もう一度、この単語の発音をしてください」と聞いてくれれば、私は、もちろん快く発音するだろう。…③として、もしかすると自分が当たるということに 非常に緊張して私が発音しているときに聞き取ることができなかったというのもあるのかもしれないが…その場合…「緊張する」ことに対処しなければ、テストなどで実力を出すことはできないのだから、徐々に慣れる努力をしてほしいと思う。

また、「英語」は言葉である。日本語でできないことは、英語でもできないのだと思う。

そして、日本語でそれができれば、英語でもそれなりにできるようになる。

友だちと話すとき使う言葉と大人と話すときに使う言葉を変えることができない生徒が増えている。そして、漢字を使い分けることのできない生徒が増えている。それは…英語を学ぶ上でも大きな支障を来す。

日本人は、仮名と漢字を使い分ける―他の国の人々よりもその点で言語能力の高い人たちだ。そして、日常的に、聞き取った「ことば」を頭の中で漢字に変換し、語と文章を認識し、理解するというプロセスを気付かない間に行っている。―だから、単語を知らない、漢字がわからないでは、日本語をうまく聞き取り、理解することはできない。英語でも同じことだ。英単語を耳にしたとき、それをスペリングして、認識し、理解する。単語を知らなければ、理解できない。そして、相手の置かれている状況を理解していないと誤解が生じる。逆に言えば、うまく聞き取れなくても、単語を知っていたり、状況を認識していたりすれば、理解できることになる。

それが、言語である。

子どもたちの「勉強」に、ひと手間、ひと努力、ひと工夫が足りないと感じることが多い。そして、そのひと手間、ひと努力、ひと工夫を積み重ねていけば、必ずや実力は上がるのに…と思える生徒が何人もいる。

それは…「効率」を重んじる社会の傾向や…一見簡単に、また易しく見えるものに飛びつく、そして「傾向と対策」なるものが全てにできると思っている大人が増えているからだと私には思える。勉強は本来「めんどうなもの」であり、学習を繰り返し、少しずつ、徐々に知識や能力が身についていくものであることを忘れている人が多いからだろう。

“There is no royal road to learning. (学問に王道なし)”だということをもう一度、繰り返しておきたい。

そして、“Haste makes waste. (急いてはことを仕損じる)” 効率よりも積み重ねが学習には必要であること、傾向と対策も、地道な努力に勝るものではないということを強調しておこう。

(Y.K)
by terakoya21 | 2014-05-30 17:07 | 寺子屋の日々

寺子屋の日々 ~ Days in Terakoya ~ (てらこや新聞109号 亀井のコーナーより)

… What do You Think of It?? …
~ 考えること ~


*「読書は単に、知識の材料を供給するのみ。それを自分のものにするのは、思索の力だ」(ジョン・ロック)

今回のエッセイに何を書こうかと考えているときに、出会ったこの言葉。よし、これについて書いてみよう!と意気込んでパソコンの前に座ること30分・・・1行も書けなかった。頭の中でこんなことが言いたい!というのはあるにもかかわらずだ。

そして、数日、塩漬けにしておいたところ…「しろこく」さんの原稿が届き…新学期最初の中学1年生の授業を担当して…やはり、これについて書こう!という思いを強くした。

そう、人生で目の前に現れるもの、人との「偶然の出会い」も読書と同じ―「材料」でしかなく、それを自分のものにするのは、思索の力、思考力、想像力など・・・自らの力によってである。

中学1年生の授業で、新しい担任の先生の名前を聞いてみたけれど…きちんと返答がなかった。そして、隣で授業をしていた中学3年生が…新学期が始まって3日も経っていたのに、自分の隣に座る塾でのクラスメートが学校でもクラスメートであることに気が付いていなかったことが分かった。

私は、毎年、同じ質問をする。寺子屋生同士が同じクラスであるかどうかというのは、気になる情報だけれど、私が生徒の担任の先生の名前を覚えようというわけではない。ただ、クラスについても、担任の先生についても、話のきっかけや興味の矛先を引き出すための話題の1つでしかないのだけれど…毎年がっかりさせられている(懲りないという点では私も生徒と同じかもしれない…(笑))。

そして、「読書」のお話―去年の夏、高校時代の友人に久々に会い、話をしていたときのこと…「今は『読書』に過剰な期待をしている人が多すぎるよね」と言われたのが、最近になって、急に腑に落ちたのだ。

私は、「読書」をしない子どもだった。大学生になって初めて、本を読む習慣ができ、今は月に少なくとも10冊は本を読んでいる。そして、昔から読んでいればよかったと思うことも多い。子どもたちにとって「読書」が大切なことだと感じてもいる。けれど…英語を教える私には、今、本を読む子と読まない子に、差があるようで「ない」と感じることが多い。

それは…「思考力」や「想像力」のない子どもたちの読書量が多くとも、その書物の経験や知識を自分のものにできないからだろう。つまり、読書だけの力ではだめなのだ。それでも、読まないよりはましなのだろうけれど、私には、子どもたちに本を読ませる前に、大人がするべきことが抜けていると思えてならない。

それは、「会話」だ。「考える会話」-子どもの大人との会話、子どもたちと彼ら以上にものを知っている人々との会話である。―私はその機会に恵まれて育ったと思う。そして…

私は、幼いころから両親をごまかすことはできないと知っていた。だからと言って、ごまかそうと思ったことやしたことがないわけではない―ただ、「親は自分よりものを知っている」という知識は、世の中の大人は自分たちが知らないことを知っているということを知ることにつながる。そして、世の中には自分の知らないことがたくさんあることを知る―それが、教養をつけるための第一歩だ。自分が「知らないことがある」という事実を認識している人が教養のある人で、「知りたい」という気持ちは、「知らないこと」があることを知らないとわいてはこないのだ。

だから、最近の若者の言動が私には気にかかる。今、若者たちは、「自分には知らないことがたくさんある」、「自分の知らない世界が存在する」ということを知らな過ぎる、だから、「知らない世界」や「わからないこと」を畏れることが少なすぎる。その状態で、自分の経験を補ったり、自分の考えを作り出したりに、本を役に立てることは難しいのではないかと思う。

そして、若者たちのそんな言動は、幼い頃から大人が子どもたちに合わせてくれるのが当たり前だと子どもたちに思わせていることから始まっていると思う。それは、「しろこく」さんの言う「勉強」に「楽しさ」を求める姿勢にも共通する。人生の「喜び」や「楽しみ」を感じられるのは、「苦しみ」と「哀しみ」を知っているからである。そして、世の中には自分たちの思いも及ばないような様々な事象や世界が存在する―そのことに畏怖の念を持つことがもっと知りたいという気持ちにつながっていく。

子どもたちの育ちに、若い頃、幼い頃の大人とのかかわり方、会話が大きな影響力を持っている。その「会話」を、知っている大人との「会話」から、知らない人との「会話」へと広げるのが読書だ。また、読み聞かせも、その声色や間のアドリブや、感想を言ったりすることで、大人とのコミュニケーションを始める機会であり、独力で本を読む前に必要なプロセスなのだろう。

だから、本当に**「あらゆるよき書物を読むことは、過去のもっともすぐれた人々と会話を交わすようなものである」(レネ・デカルト)のだろう。

*“Reading furnishes the mind only with materials of knowledge; it is thinking that makes what we read ours.” John Locke(英国の哲学者・政治思想家1637-1704)
** “The reading of all good books is like a conversation with the finest men of past centuries.” Rene Descartes (フランスの哲学者・数学者 1596-1650)
(Y.K)
by terakoya21 | 2014-05-20 15:36 | 寺子屋の日々

寺子屋の日々 ~Days in Terakoya~ (てらこや新聞108号 亀井のコーナーより)

… What’s YOUR PRIORITY??? …
~ 可能性は、限界がある―だから… ~


松阪の駅前に新しくできた本屋さんのおすすめで、昨年末に高校の先生が書いた本を読んだ。そして、その内容に私は、案の定、首を傾げ、考えさせられた。「子どもの能力」や「学生のあり方」について根本的に、今多くの大人が誤解しているのではないかという私の中にずっとあった不安が現実のものであることを改めて思い知らされた気がしたからだ。

人間には、限界がある。―そして、私たちの周囲のものには全て「限り」があるのだ。「子どもの能力は測り知れない」のは事実だけれど、それは「無限」ということでもないし、彼らに望むことが全て「なんでもできる」ということではない。それは、1日がだれにとっても24時間で、1週間が7日、1年は多くとも366日しかないのと同じだ。資源も時間も、そして自分たちが手にするもの、手に入れられるものにも「限りがある」から、地球は美しく、すべての生き物の命が尊く、人生は素晴らしい―それを多くの人が忘れているのではないかとこのところ思うことがある。それを、教育に携わる人までも忘れているのではないかと感じると私はやるせない。

そう、1日は24時間なのだ。そして、毎日、子どもたちは少なくとも7、8時間は寝てほしい―。それは高校生でもである。その睡眠時間には、もちろん、授業中の居眠りの時間は含まれない。―寝る時間、学校もしくは職場にいる時間を考えると、私たちが自由に活動できる時間は、ほんのわずかということになり、そのわずかな時間をいかに有効に使うかを、人は自分で考えることで、自分の道を切り開いていくのだと私は信じている。そして、しっかりと睡眠をとれば、集中して物事に当たれるので、効率もあがる。

私は、高校を卒業するまで、毎日 9時就寝―ほぼ9時間睡眠を続けていた。それを言うと生徒たちには、「それはおかしい」というような反応をされる。もちろん、私だって、それがだれにでもできることだとは思わない。ただ、私はその睡眠時間を確保しても、年間数十日欠席をするか、もしくは英語の単位が危なくなるほど保健室で休むかを繰り返す学生だったのだ。だから私は、自分の時間が限られていることを知っていた。その限られた時間内で、するべきことをしなければならないことを知っていた。体の弱さは、私の弱点だったけれど、それが与えてくれた「限界」は、私の「強味」を作り出していた。だから私は、体が弱くても、自分の大事なときに病気になることも、休まなければならなくて悔しい思いをすることもなく、ずっと「本番に強い女」でいられたと思う。

今、子どもたちを見ていて思う―「君たちの可能性は無限大だ!」というような言われ方をして、自分の未来は自分の選択次第だと思っている子どもたち―そして、それが真実だと思い込んでいる大人たちがなんと多いことか。年末に読んだその本も、そんな風に子どもたちに語りかけていたようだった。

与えられた環境、自分の位置―それを把握し、その中の選択肢を見極めることにより、未来は自分の選択次第になる。そして、そこで自分の能力を最大限に利用できる。それが、自分の果てしない力となる。そういう意味で、子どもたちの可能性は無限大だ。けれど、「無限」ではなく、自分で人生を切り開くためには、「条件」、「制限」があることを、知らせることは、周囲の大人の仕事だと私は思う。それは、こっそりと気付かれないように、もしくは、優しく友だちのように大人が彼らに伝えることではなく、彼らの壁となり障害となることによって彼らに気づかせるのが大人の役割だと思う。

その「条件」や「限界」を知ることが、子どもたちの「強味」となり、彼らの「飛躍」へとつながることを、大人たちにはわかってほしい。そして、子どもたちの未来を「無限大」にしてほしいと思う。

そのためには、まず、子どもたちが早めに「就寝時間」を決め、習慣にするように強く促すことを保護者の方々にはお願いしたい。
(Y.K)
by terakoya21 | 2014-04-06 10:35 | 寺子屋の日々

寺子屋の日々 ~Days in Terakoya~(てらこや新聞107号 亀井のコーナーより)

… What’s OUR PRIORITY??? …
~ 塾の存在意義?!?! ~


「三匹のおっさん」(有川浩 文春文庫)という小説の中に、ある中学生が学校でのトラブルについて、以前通っていた剣道の先生に相談に行き、その剣道の先生を含む「三匹のおっさん」と中学生たち、学校とが協力し、抱えていた問題を解決するというエピソードがある。その中で、「おっさん」たちと解決に奔走した中学生は、自分たちに欠けていた何かに気が付いたり、学校の解決策が本当に「ことなかれ」主義だったり、現代の学校を取り巻く環境の歪みを如実に突いていて興味深い。

私は、塾経営者の娘として生まれ、育ち、そして、今自らが塾を切り盛りして…気が付いたら「塾」というものの舞台裏で40年以上を過ごしている。そして、塾は、子どもたちの成長に必要な場所であると思っている。でも、塾は―私設の学び舎であり、 私たちには、学校という公教育を担う機関の先生たちとは、立場も目指すものも違う存在意義があると私は信じている。学校のクラブ活動とスポーツ 少年団で目指すものが違うけれど、どちらも子どもたちの成長にも社会の未来の健全化にも必要なのと同じだ。

塾は「私教育」の場所である。生徒1人1人への向き合い方が学校の先生とは違う。塾は1人1人の生徒の目標のためにある場所だから、「行く(来てもらう)」、「行かない(お断りする)」を含め生徒にも先生にも「選択肢」がある。行き詰まりを感じれば、どちらの立場の人間も、場所をかえることができる。しかし、 学校では先生たちは逃げることができても、子どもたちに逃げ場はない。

そして、「複数の子どもたちに関わる」問題は、塾の先生には解決ができないことが多い。複数の同じ地域に住む子どもたちに関わる問題を解決する主導権は、学校の先生方にあり―その協力者に保護者、地域の人々が加わるのだと私は信じている。

しかし、その関係は、今いろいろな理由から… 崩れていると言わざるをえないのかもしれない。

何年か前、ある少年とその少年の生活環境と、他の子どもたちへの影響が気になって、公の機関に相談に行ったことがある。そして、学校への相談をお願いした。しかし、どんどん悪化する子どもたちの環境と全く埒があかない上に最後にやってきた学校を管轄下に置く「お偉いさん」の爆弾発言に…私は打ちのめされた。

―あなた、珍しい人ですね。他人の子どもの  ためにこんなに一生懸命になれるなんて―

義務教育機関の上にいる組織の「お偉いさん」―その方自身も「先生」を名乗った経験のある人の言葉だとは、にわかには信じられなかった。

おそらく私は、1人の 少年の問題で終わるなら、直接的にも間接的にも「学校」に相談などしなかった。けれど、この少年の問題は、この少年だけの問題ではなかったのだ。この少年を取り巻く子どもたちの生活が脅かされ、それは同時に、この少年をも苦境に追い込む―そう思ったから、相談に行ったのだ。

また、何年か前、ある少年のために毎日のようにお弁当を作ったことがある。それは、「塾の先生」としての私ではなく、その子の周囲にいる1人の大人として、私にできることがそれしか思いつかなかったからである。そして、その対応は「塾の先生」と生徒というより、身近なおばさんと少年の関係の中での対応だった。

学校は、疑似社会であって…子どもたちが社会でやっていける力を養うためにある場所だ。特に、義務教育の間は、そのために必要な基礎的な学習をする中で、先生たちから厳しくも優しい助言や叱責を受けながら、社会での生活力の習得をする場所だろう。だから、先生方には、「生活指導」という仕事があり、それは、授業と同様、大切な部分を占める先生方の仕事だと私は思う。

一方、塾は、1人1人が目標を持って通い、その実現の手助けをする場所である。だから、私たちは、その子一人ひとりが身につけておいた方が良い ことを、嫌がられても、口を酸っぱくして繰り返す。

同時に、塾の先生というのは、子どもたちが何かに困ったとき、危機に立ったとき、相談に来られる地域のおばさん、おじさんでもある。生活面でおかしなことはおかしいといえる存在であるのは、子どもたちが育つ社会に先に生まれたものとしての仕事だからだ。

前述の「三匹のおじさん」―にあるように学生が、学校や社会で起こったことに悩んだとき、相談できる大人は多い方がいいと思う。そして、そんな風に頼ってもらえる大人であるために努力を続け、子どもたちの将来を案ずるという仕事は、「先生」という立場でなくても、世の大人皆に与えられた仕事だと私は思う。

自分の子であるか他人の子であるかなど関係はない。子どもは社会の宝、私たちの社会の未来なのだから…。

(Y.K)
by terakoya21 | 2014-03-08 11:29 | 寺子屋の日々

寺子屋の日々 ~Days in Terakoya~ (てらこや新聞106号 亀井のコーナーより)

… Life is Good as Long as it Lasts! …
~ 人生 楽ありゃ、苦もあるさ! ~


年末、年始―ここ数年、私にとっては本当の意味の「休養」期間となっている。年末の3日間のうち2日は寝込み、1年間の不足していた睡眠を貪るかのごとく眠ることが多い。今年は、それが年始まで続き…年をとったからだろうな~…と苦笑するしかなかった。

私は、幼い頃から頭痛もちで…大学院に入学してからは本格的にひどくなり、何日も寝込んだり、学校を休んだり…。そして、30代に入ると、年に3,4回の頻度で、点滴がないと回復しないほどの頭痛と嘔吐に悩まされるようになった。でも、内科の先生に相談すると、「頭痛ごときで…」と鼻で笑われたり、「更年期にはまだ早いよねぇ~」なんて言われたり、検査をしても悪いところは見つからなかったり…逆にストレスとなってしまっていた。…思い切って、他の持病で通院していた大学病院の先生に相談すると「偏頭痛」という診断をもらった。遺伝のものだということもわかった。

「経営者」そして「先生」という仕事をしている私には、この頭痛―痛みがいつ来るかわからないことが痛い間の嘔吐や痛みの苦しみよりも苦痛だった。「薬」があるということ、これを飲めば、何とか日常生活を営めるということが慰めとなり、また、「病名」をつけてもらえただけで…ストレスは数段小さいものになっていた。その診断を受けてもう10年近くになる―。

そして、ときどき、頭痛で動けなくなり、また、ストレスいっぱいの私の仕事ぶりを見て…友人、知人から、「あまり無理せずに」だとか「体に気をつけて」などというメッセージをもらうことが増えた。たしかに、私は幼い頃から気がつけば体が悲鳴をあげ始め…寝込み、何日も起きられないという日が続くことがあり、自分を持て余すことがあった。けれど、徐々にこの体とうまくはないけれど、自分なりにつきあっていく術を見つけて、昨年末、42歳に なった。

確かに、この仕事はストレスが多い。そして、私はなんでも「セッカチ」で「頑張りすぎる」タイプの人間だと思う。―けれど…私にとっては、人が言う「無理せずに」生きることが難しい。そして、ストレスは日々の頑張りの源でもある。また、この自分と戦い、自分と向き合うこの期間も、おそらく私には必要な時間だ。日頃、健康であること、そして1年間なんとか乗り切ってこられた ことに感謝する時間でもある。

Life is good as long as it lasts. 私の人生で出会った友人の中でも大好きな人の1人がいつも呪文のように唱えてくれていた言葉だ。「人生は 続く限り素晴らしい」とでも訳すのだろう。「人生楽ありゃ、苦もある」だから、人生は続く限り素晴らしい。そんなことを実感した今年の年末年始休暇だった。そこでリフレッシュ…さぁ今年も、全力投球したいと思う。

こんな私ですが、本年もどうぞよろしくお願いいたします。

(Y.K)
by terakoya21 | 2014-01-31 20:40 | 寺子屋の日々

寺子屋の日々 ~Days in Terakoya~ (てらこや新聞105号 亀井のコーナーより)

… 温故知新 …
~ Learn from the Past ~

「わざわざ東大に行かせて、それで地元に戻ってこいというのは親のエゴだと思う。」という友だちがいる。私は…必ずしもそうは思わない。確かに、おそらく私の父も、わざわざ東京の大学を出し、アメリカの大学院まで行かせて、地元に帰ってこいというのは親のエゴだと思っていて、私が帰ってくることを望んでいないふりをしていた。大学院を卒業する前に、「アメリカに残ってはどうか」と言われたことがある。

けれど、私にはずっと…「私が、東京の大学に行くのも、アメリカの大学院に行くのも、地元に帰ってきて、何かをするため」だった。そして、私は自分が培ってきた能力は、「地元」だから役に立つのだと信じている。

考えてみてほしい。年間何千人という卒業生を出す東京大学…地元にいるとお目にかかることは少ないけれど、長い歴史の中…かなりの人が東京大学出身であることになる。明治生まれで生きていれば110歳を越えるわが祖父もその1人であるし、母の仲良しの同級生のおじ様もその1人、ジョニーの病院の獣医さんもそうで…と考えていくと、地元にも目立たずとも身近に東大卒業生はいるのだけれど…その卒業生の多くが都会にいるとすれば…地元に帰ってきた方が私は、有利だと考える。そして、「地元」が…自分が人生の最初の10年から20年近くを過ごした場所であれば、そのときに蓄えた人脈や友情などが大きな力としてその「学歴」に加わる。学校で学んだことと共に、学歴は「人脈」をも意味すると私は考えている。

―だから、私は地元に戻った。と言っても、私自身は東京大学を出ているわけではない。東京大学を受けられるかも?!?!というようなセンター入試の結果に、周囲が浮足立ったこともあったけれど、結局、40倍近い倍率に私のにわか東大受験は、足切され、門前払いだった(^○^)…ただ、どんな大学に行こうが、私は、自分自身の学歴もそこで培った力も、「地元にいる」ということからもらう「助け」とともにあって、私の大きな実力となっていると…大学を卒業後、20年近く(正確には19年弱(^_^)v)、大学院卒業後15年ほど経って、今、確かに実感している。

―だから、私は、地元に戻ることを条件に、地元から離れた大学に行かせることは、親の「エゴ」ではなく、「愛情」だと思う。そして、私は、そういう若者が増えてほしいと思う。また、親御さんは堂々と、そう主張していいと思う。

グローバリゼーション…というけれど…国際化も、グローバル化も結局、地元やローカルの大切さを私たちに知らせてくれていると思う。

「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」―ビスマルクが言ったといわれているこの言葉は、「愚者は自分の体験から学んで、賢者は自分の 過ちをさけるために他人の経験から学ぶ」という意味で発せられたらしい。皆が言うことを鵜呑みにするのではなく、歴史からも経験からもしっかりと学んで、自分に合った進路を見つけてほしい。

温故知新―「*昔のことをよく学び、そこから新しい知識や道理を得ること。また、過去の事柄を研究して、現在の事態に対処すること」をいう。新しい考え方を得るために、古いもの、昔のことを研究、現在の事態に対処するために、過去のことを知る―その手助けを与えるのは、少し古くから生きている、もう少し昔を知っている大人たちの役割だと私は思う。だから、大人たちは、子どもたちに自分の知っていること、自分の思いをぶつけてほしい。それをどう捉え、何を学ぶかは、子どもたち次第…。

だから、私は伝えたい。伝え続けたい―その思いも、考えも、知識も…たとえ、エゴに聞こえたとしても…そこから考えるのは、子どもたちなのだから。

* 故事ことわざ辞典 参照 http://kotowaza-allguide.com

(Y.K)
by terakoya21 | 2013-12-28 08:55 | 寺子屋の日々

英語塾の寺子屋かめいの元気を発信します


by terakoya21
プロフィールを見る
画像一覧
更新通知を受け取る