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カテゴリ:寺子屋の日々( 124 )

寺子屋の日々 ~Days in Terakoya~ (てらこや新聞164-167号 亀井のコーナーより)

~ Spring is around the corner. ~

~ 春がやってくる ~

今年も、高校3年生の正規授業のすべての過程が終了した。春がやってくるのだ。きっと毎年言っているのだろうけれど、今年の高校3年生は格別だった。自分たちの意見を持った素敵な女子、そして考える力を持った優しい男子がそろっていた。

中でも、印象的だったお話を1つ。

英検にも英作文が採り入れられ、大学入試の英作文の課題にも短くても自由英作文が増えている。そんな中、1人の男子生徒が持ってきた英作文の課題―

「エレベーターに閉じ込められることになって、1人だけ一緒に閉じ込められる人を選べるとすれば、あなたは誰を選びますか。その理由2つとともに書きなさい。」

私が真っ先に思いついたのは、その時間を一緒に過ごして、不安をかき消してくれる人だった。

けれど、彼の同級生女子は違っていた。

「自衛隊員」か「大物の権力者」

―理由は、私のようにいつかは誰かが助けてくれることを前提とし、閉じ込められる時間の不安の払しょくではなく、自衛隊なら自力で脱出する方法を知っているだろうから、そして、大物の権力者が一緒に閉じ込められたら周りの動きが迅速になって早く出られるはずだから・・・だった。 笑

授業後、谷さんにも同じ質問をしてみたところ、彼女も女子生徒と同じ発想をしたことに、私は衝撃を受けた。

そして、谷さんはこう分析するー

「先生は、まず誰でも信じて受け入れることから始めるけれど、私はそうではないから。」と。

私は、実際に「エレベーターに閉じ込められる」経験をしたことがあるけれど、そのときも、そのうち誰かが助けてくれることを信じて疑わなかった。高校生で、仲間が大勢いたからということも大きいけれど、自力で脱出しようなどという考えは微塵も思い浮かばなかった。

そして、谷さんの言っていることはおそらく正しいー私は、とにかく誰でも、まず信じることから始める。自分を信じてほしければ、相手を信じることから始める。自分を愛してほしければ、相手を愛することから始めるのが、私の処世術である。

一方で、私は、女性であることを渋々でも受け入れて、折り合いをつけて生きてきた。そして、自分のできることを知っている。それは、同時に自分のできないこともわかっている。だから、今、自分のあるべき姿に何も感じないわけではないけれど、飽き足らずも納得して生きていくことを知っている。自分の分相応―を基準として生きていくことを教えられている。

「自立する」ことを、私は、人に頼り頼られる人になることだと信じている。頼るばかりではダメなのは当たり前だけれど、人に頼られるばかりでもダメなのだ。頼り、頼られる「お互い様」であることが「自立」の第一歩だ。一方で、頼らないし、頼られない人を自立しているとは思わない。それは「孤立している」というのだ。

だから、私は、おそらく時代の差が大きくて、考え方の差があるけれど、谷さんも高3女子も、自分の分相応を知りながら、自立した女性たちだと感心した。彼女らは、自分たちなりに外に出ることを考えながら、自分に足りない力は人の力を借りることを考えられる人だと思う。

思いがけず、「英作文の課題」は、心理テストになってしまっていた。

Y.K


*てらこや新聞164-167号は2019年3月15日に発行されています。


by terakoya21 | 2019-04-22 08:30 | 寺子屋の日々

寺子屋の日々 (てらこや新聞159-163号 秋・冬号 亀井のコーナーより)

~ A Woman is like a Tea Bag… ~

~ 女性はティーバックのようなもの ~

“A woman is like a tea bag; you never know how strong it is until it’s inhot water.” 女性はティーバックのようなもの。熱湯につけるまで、それがどんなに濃い(強い)かわからない。―エレノア・ルーズベルトの言葉だ。

何度も書いているけれど、私は、フェミニストではない。そして、専業主婦が私の見果てぬ夢である。笑

私は、家でクッキーを焼きながら夫の帰りを待つ妻になりたかった。

一方で、私のイメージする専業主婦は、専業じゃないーという話もある。私の専業主婦のイメージは、自分の母だからだ。私の父は個人事業主で母は専従者と呼ばれる、その仕事を支える人でもあったから、現実には主婦を専業としているわけではなかった。

けれど、母は、いつも私たちが学校から帰ると家にいる人で、私の子どもの頃のおやつは母の手作りかもらいものーそれがなければ、おやつなどなかったし、母は、子ども5人だけではなく、下宿人も居候もいた大家族を切り盛りする主婦であった。

だから、私は今でも自分のおやつは、ちゃっちゃと自分で作ることがよくある。見よう見まねで料理もお菓子作りも当たり前に覚えていた。母は、忙しさにかまけて、私たちに生きる術を教えることを怠ることはなかった。

私は小学3年生には津まで習い事に一人で通い、高校生のときには自分でお弁当を作り、試験中だからとか受験生だからということでほかのことを免除されることなどなかった。

我が家では学生である間、「勉強すること」は当たり前であり、それをしたからと言って、褒められることもなければ、何かをしなくていい免罪符になることもなかった。

そして、父は、母の「妻」として、「母」として、そして「社会人」としての貢献を素直に認めて、感謝を言葉に、そして態度に表すことを怠らない人だった。

「ぼくの仕事は日曜日にお休みがあるけれど、お母さんの仕事にはお休みがない。」だから、皆が助けることを忘れてはいけないと、事あるごとに私たちの前で口にし、日曜日には外食に連れて行ったり、子どもたちでも準備ができる料理をリクエストしたり、朝、幼稚園に私を送っていってくれたり、長い休みにはたまった仕事をもっていきながらも、必ず私たちを旅行に連れていく…自分の下着がどこにあるかも、リモコンが現れる前には、テレビのチャンネルさえ母に変えてもらっていた昭和一桁生まれの父だったけれど、今考えれば「イクメン」の走りだったのかもしれないと思う。

だから、私は、「主婦」も立派な社会貢献であり、仕事だと思っている。そして、その立派な仕事するチャンスを得ることができなかった自分だからこそ、ほかの形で社会に貢献しなければならないと思って、日々努力を続けている。

だから、私は、女性だからできることをしたい。そういう意味では男女同権を目指す人なのかもしれない。だけれど、私は、自分の大切な人たちがきちんと自分たちの働きを認め、かけがえのない人だと思ってくれたらそれでいいと思っている。また、それが許される環境にいられることに感謝できる人でありたい。

そして、ときどき、キャリアを積むことしか選択肢を考えられない現代の女の子たちに、「亀井先生みたいになりたい」と言われることに違和感を抱く私は、何度も言うけれど、今でも専業主婦になりたいと思っているのである。 Y.K



by terakoya21 | 2019-01-02 08:30 | 寺子屋の日々

寺子屋の日々 (てらこや新聞159-163号 秋・冬号 かめいのコーナーより)

~ Luck is a Matter of Preparation. ~

~ 幸運は準備とともに ~

日常に追われる日々が続いている。幸運は準備万端なところに訪れることはわかっていても、気が付くと1日が過ぎているーそんな日々がここ2年程続いている。

けれど、ふとした瞬間、幸運が目の前に現れることがある。

チャンスの神様は前髪しかないという。だから、チャンスは通り過ぎてしまったら、後ろを捕まえるのが難しいー。でも、きっとチャンスは何度も巡ってきている、それに、気づかないのはチャンスではない・・・なんて開き直るようになってもう10年ほどが経っている。

私は、大学院で「都市・地域計画」を専攻していた。大学ではポルトガル語を学び、大学院では行政学―何も考えていないようで、私の中には、地元に戻ることを前提とした選択だった。

今、私は自分の夢を叶えている。日常に追われながら、30代の間ずっと苦しみ続けながら、少しわきに置いていた20代のころと同じ心境を、45歳を越えて取り戻している。

10年先を見据えて、明日死んでも後悔のない人生を」

30代で自分をある意味見失うまでの私のモットーだった。けれど、30代は過酷でその日その日が自分の能力を超えているような気がして、逃げることを必死になって考えていたような気がする。

だけど、気が付いたら、また、自分を取り戻しつつあると感じる今日この頃。40代は、かなり過酷だけれど、とても楽しいと感じている。

そんな中、国は小学校での英語の科目化、プログラミング授業が導入されることを決め、世の中ではますます英語熱が高まり、プログラミング講座も人気だ。グローバル化に対応できる人材育成をしたいらしいけれど…

一方で、母語で自分を表現することもできず、簡単な計算もできない子どもたちが増えている。自分の誕生日が言えず、学校の場所を説明できない、自分の家の電話番号も住所も書けず、持ち物の確認もできないー忘れ物や失くしものをしたのはおばあちゃんのせいで、遅刻はママのせいーそんな子どもたちが英語やプログラミングを学んで、本当にグローバル化に対応できる人となるのか・・・私は疑問に思うばかりだ。

そして、大学院で学んだことを思い出す。

グローバル化はローカル化と同時に起こる。

ローカル、地元、自分の生まれ育った場所を大切にできない、自分を育ててくれた人や環境に思いを馳せられない人や地域にグローバル化は訪れない。私はそう信じている。

子どもたちには自分にチャンスを見いだせる大人になって ほしいと願っている。そのために私にできる準備をこれからも続けていきたいと思っている。

Y.K


by terakoya21 | 2018-12-16 10:16 | 寺子屋の日々

寺子屋の日々 ~ Days in Terakoya ~ (てらこや新聞147-149号 亀井のコーナーより)

~ No one Learns as Much… ~

~ 教えることは学ぶこと ~

毎年、夏休みは忙しないのだけれど、今年の夏は格別だ。仕事量がいつもの夏の3倍くらいあるのではないかと思うほど、その上に考えさせられること満載だ。

私は、勉強が好きな学生だった。そして、私の周囲にいる人たちが、勉強は「好き」ではなくても、「学ぶこと」に前向きな人ばかりだった。

私は、勉強も含め「学ぶ」ことが好きである。

そして、目の前のある事象をじっくりと考えるのが習慣になっている。

だけど、多くの人がそうではないのかもしれないと18年足らずの期間、この仕事をしながら気づき始めている。

このところ「面倒である」というのと「わからない」が 同じだと思っている生徒に遭遇することがある。そして、大人たちは、勉強は教え方次第で「楽しく」なり、子どもたちは勉強 好きになると思っているようである。

それは、大人たちが間違いや困難から学ぶ経験が少なくて、その大切さを子どもたちに伝えられないからではないかと思う。

この仕事を始めてすぐ、大人たちが「楽しく学ぶ」、「学ぶ楽しさを教える」なんてことが、学ぶ苦しさやつらさを伝えずにできると本気で信じているようであることに衝撃を受けた。そして、このところ、その弊害を子どもたちの言動に感じることが増えている。

勉強をしない理由が

「嫌いだ」から、「面倒だ」から、「いやだった」から、または「忙しかった」から、「ほかにすることがあった」からと言って、大人に通用すると思っていること。そして、「好き」・「嫌い」で進路が決められると思っている節まであると首を傾げずにいられない―。

そりゃ、「好きこそものの上手なれ」というけれど「下手の横好き」ともいうのである(笑)。

「好きなこと」は趣味のまま置いておくほうがいいもの、そして「嫌い」でもしなければいけないことがある。そんなことを知らずに上手にできないのに、不得意なのに、「好き」だと思い込んでいる方向に進んで、失敗して立ち直れないで引きこもってしまう若者も少なくはないのだ。

子育ても、教育も、私たち大人がいなくなったあと、子どもたちが次の社会を担う人として自立するために行うもの。子どもたちの将来は、今、私たちが嫌われても言っておくこと、しておくことにかかっている―。

日に日にその思いを強くする。

そして、この夏、数学が苦手だという中学1年生君がある日夏期講習と正規授業の長丁場を終え、私に伝えてくれた言葉にやはり、子どもたちは、学びが「つらいもの」であっても、「いやなもの」であっても自ら「楽しみ」を見出し、意欲を持つことがあり、その意欲は必ず彼らに残っていくものであることを改めて教えられた。

「あぁ、疲れた。でも、先生、楽しかったよ。また来るわ。」

そして、私は改めて思う―

“No one learns as much about a subject as one who is forced to teach it.”

「人に教えることほど、勉強になることはない。」ピーター・ドラッガーの言葉だが、わが父が口を酸っぱくして言っていたTeachingis learning. (教えることは学ぶこと)と同様、本当のことだと。

Y.K



by terakoya21 | 2017-09-26 08:30 | 寺子屋の日々

寺子屋の日々 ~Days in Terakoya~(てらこや新聞145-146号 かめいのコーナーより)

~ Our deeds determine us… ~

~ 自分の言動に気を付ける ~

このところ、ブログは書けるのにこの「てらこや新聞」の記事になると、アイディアが浮かんでこないということが続いている。毎日、いろいろなことが起こり、様々なことを考え、次々と挑戦するうちに、何に対しても「これ」という結論がでない―そんな日々が続いている。

だけど、なぜだかそんな日々が充実の日々でもある。

その状況をうまく文章に表せないので、今回はブログでも紹介した名言を再度紹介したいと思う。

まず、この記事の題名にも使った

“Our deeds determine usas much as we determine our deeds.”

イギリスの女性作家ジョージ・エリオットの言葉です。

「私たちの行動は、私たちがそれらを決定するのと同じように、私たちのあり方を決めている。」

本当にそうだなぁ・・・と感じることが増えている。「めんどくさい」としょっちゅう口に出す人は、いつも「めんどくさい」ことに惑わされていて、人のことや自分に与えられたチャンスを「ありがたい」と言える人は、その「ありがたい」ことがいつも巡ってくる・・・なんてことが多いのではないかと思う。

だから、私たちは

“Manis not the creature of circumstances, circumstances are the creature of men.”

イギリスの元首相であるベンジャミン・ディズレーリの言葉を覚えておいた方がいいのかもしれない。

「境遇が人を作るのではなく、人間が境遇を作るのである。」

世の中には、私たちにはどうしょうもないことがたくさんある。だけど、そんなどうしょうもないことは、愚痴を言い続けようが、文句を言おうが、いじけようが、「どうしょうもない」ままである。

自分が境遇を変える―そして、その過程が自分を変えていくことを忘れないでいたい。

そうそう、「境遇」と言えば、寺子屋創設年度の高校2年生が、「境遇」の意味がわからないと言い出し、

国語辞典を引かせると

「ある人が置かれた状況や運命」との説明に

「先生、ある人って誰?」と聞いてきたことがある―。

そんなことをふと思い出した。でも、、、そのお話はまた別の機会に(笑)。

Y.K



by terakoya21 | 2017-07-01 12:44 | 寺子屋の日々

寺子屋の日々~Days in Terakoya~(てらこや新聞143-144号 亀井のコーナーより)

~ Before Learning English…

~ 英語を学ぶ前に ~

昨年11月と今年の3月に「作文発表会」に招待していただき、そこで、「英語より前に日本語を」というテーマでミニ講演をさせていただいた。

寺子屋は36日に17周年を迎え、18年目に入ったけれど、私は相変わらず英語への過度の 期待と憧れと闘い続けている。そして、講演の機会に原稿を書き、講演への反応を聞いて気が付いたことがある―。

このままでは本当に英語嫌いが増え続ける。  そして、日本語もまともに操れない子どもたちがたくさんできる。そうしないために…

「英語は、道具である」「英語を学ぶのにはわけがある」ことを、大人はきちんと説明してほしい。

私は、父に「英語は道具だ。英語習得は最終目標ではない」と言われ続け、だから、「英語の先生になるなら、英語以外の言葉を1つ以上学ぶこと、 そして教育学部には行くな」と言われていた。

だから、英語習得は通過点、私の英語学習の目標は英語習得ではなく、アメリカに行き、青い目の金髪のイケメンに出会うことであったり、NBA選手と出会うことであったりというおばかさんの夢から「コミュニティ センターのような塾経営」というちょっと変わった夢まで続いていくことになる。

一方で、英語は、日本語と同じく、世界中に何千とある言語の1つでしかないこと、大人はきちんと認識してほしい。

英語はできたら有利、できなければそれまでであること、きちんと子どもたちに伝えてほしい。

そのうえで、英語を義務教育で教えている理由をゆっくりと子どもたちとともに考え、話し合ってほしい。

私たちにとって、特別な言葉は、日本語だけ。 けれど、英語ができると有利なのはなぜか。それを教えられて学ぶのと、それを知らずにただ、漠然と必要だから言われるままに学ぶのでは、壁にぶつかったときに子どもたちが出せる力が違う。

英語は、もともとどこで話されていた言葉で、今は、どこで、どのように話されているのか、そして、なぜ、義務教育で英語を学ぶことが必要になったのか…。

言葉は、文化とともにあり、その文化をある程度理解しないと「使う」ことはできない。

昨年のサミットのために三重県に足しげく通っていた外交官の友人が、伊勢神宮を各国から来る人びとに伝える言葉を、知恵を出し合って考えているというような話をしていたけれど・・・英語を知っているだけでは、何にでも、どんなときでも英語が自由自在に使えるわけではなく、相手に伝えるべきことを吟味し、言葉を選び、使うことができるためには、幅広い知識と経験が必要である。英語への知識とともに、それがあってこそ、「英語を使うことができる」という―

日本の文化や社会を外国語で伝えることの難しさは、同じように、外国語の文化や社会を私たちが知ることの難しさをも伝えていると思う。そして、外国語を学ぶことは、その文化や社会を知る窓口であることを忘れないでほしいと思う。

Y.K



by terakoya21 | 2017-05-02 08:30 | 寺子屋の日々

寺子屋の日々~Days in Terakoya~ (てらこや新聞141-142号 亀井のコーナーより)

~ The real voyage of discovery…?~

~ 真の発見は…? ~

“The real voyage of discovery consists notin seeking new landscape, but in having new eyes.”
 (本当の発見は、新しいものをさがすことにあるのではなく、新しい視点を持つことの中にある)(マルセル・プルースト)

このところ、テレビでニュースを見なくなった。まったく見ないわけではないけれど、世の中の理論や理屈を聞いていると、希望を失いそうになるからである。

人の話を聞いて、「へぇ~」と感心した後、「果たして本当にそうだろうか」と考える姿勢を私はいつも持っていたいと思う。私は、大概、心を揺さぶる意見に出くわすと一晩以上考える。

でもさ、、

やっぱりさ、、

だからさ、、、

なんて自問自答をして、結局、人の言っていた説に納得することもあれば、そうでないこともある。

世の中、いろいろな人がいて、いろいろな意見がある―そして、「正しさ」も何を基準にするかによって違ってくる。

アメリカに住んでいたころ、アラブ系の友人が多かった私は、約束の時間に現れない友人にいつの間にか慣れていた。―だからと言って、自分が遅刻することはあまりなく、今でも5分前行動を心がけている―最初はもちろんびっくりしたけれど、4時間でも待たされたときのために、待ち合わせ場所を工夫したり、時間のないときは先に伝えておいたりして・・・。

そして、私は、世の中にはいろいろな人がいる、そしていろいろな意見がある―というセリフは、寛容な心を持った人々の言葉だと思っていた。

けれど、しばらくすると、その言葉―不寛容な人々から発せられることが多いのに気が付いた。 人の意見を受け入れず、自分の意見を通すための言葉になっているのではないだろうか。

このところ、いろいろなところで様々な人の言葉を聞くたびに、生徒たちには「正しさ」より「優しさ」を優先できる大人になってほしいと思う。

「優しさ」は多くの場合「正しい」方向へ人を導くけれど、「正しさ」は多くの場合「優しさ」へとはつながっていかないことを忘れない1年にしたいと思っている。

Y.K
*てらこや新聞 141-142号は2017年1月20日に発行されました。


by terakoya21 | 2017-02-16 13:36 | 寺子屋の日々

寺子屋の日々 ~ Days in Terakoya ~ (てらこや新聞140号 亀井のコーナーより)

~ What do we expect from them? ~
~ 彼らに何を期待するの? ~

アメリカの大統領選が終わった。大方の予想に反して(といわれているが・・・実は、私の第二の故郷の友人たちの中では、ずっと優勢だった(笑))、トランプ氏が当選して、メディアを沸かしている。

この選挙結果を見て、この夏2人の友人が言っていたことを思い出した。

1つ目は

…何度か、このエッセイでも書いたけれど、私はフェミニストではない。そして、女性として男性社会での出世を目指す気も、目指したこともないので「家でクッキーを焼いている女性」の方には共感できても、社会進出を目指す女性に共感することは少ない。そんな私の

―「女性議員」にはめったなことがない限り、私は投票しない。女性を強調されても、「女性である」という事実以外、私が共有できる憂いも課題も見いだせない。というか、私は彼女らに邪魔をされていると感じることすらあるから…。

というような内容の言葉に対する、大学時代の 友人の言葉。

「でも、彼女たちのような人たちの今までの努力がなければ、今の私たちの仕事の環境はなかった。少しは感謝しなさい」

―確かにそうなのだろうけれど、それでもなお、「家でクッキーを焼いている女性」であった自分の母に、私は現在の自分の多くを作ってもらったことに感謝している。

私は、地に足をつけて生活をしていたい小市民の1人だ。自分の能力も、できる貢献も、自分の物差しで測れる範囲にしたい―。自分を犠牲にしても国を動かしたり、社会のために貢献したりしようとしている人を否定する気もなければ、その人たちに感謝しないわけでもない。けれど、人は上ばかり、外ばかり見ていると、いつしか自分の土台を忘れていくような気がするのだ。

「家でクッキーを焼いている女性」という表現は、ヒラリー・クリントン氏が夫の政界進出の頃、自分はそうでないとして使った表現だ。その言葉に、「家でクッキーを焼いている女性」への蔑視がなかったとしたら、これほどまでに彼女が女性に嫌われることはなかったと思う。

そして―もう1つは、地元の同級生がポロっと 吐露した言葉

「できる女性には、ゆるい人が少なくて、できない私は息苦しく感じることがある」

というもの。それは、いつも私が感じていることと同じだった。

私がこの仕事をする前に、出会った女性に言われたことがある。

「亀井さんは、10年先を見て、今、行動を始められる人。でも、私は明日のことも見えないから、それにはついていけない」と。

当時、27歳と若かった 私は、自分に10年先が見えているかどうかはわからないけれど、そう認めながらの彼女の言いきりに衝撃を受けた。けれど、今、振り返れば、その彼女の気持ちがわかるのだ。そしてまた、その時の衝撃が私の今の仕事を続ける気力を支えている。

“People take different roads seeking fulfillment and happiness.
Just because they’re not on your road doesn’t mean they’ve gotten lost.”

「人はみな、成就や幸福を求めて、それぞれ違う道を歩む。
誰かが人とはちがう道を歩んでいるからといって、彼らが道に迷っているわけではない。」

―ダライ・ラマの言葉だ。この言葉が、心に響く11月。みんな違っていていい。でも、共感できないことを発する自由を皆が持っている。そして、皆が、成就や幸福を求めて生きている。
私の愛する第二の故郷の大統領が、そのことを知っていることを願うばかりである。
(Y.K)
by terakoya21 | 2016-12-12 08:30 | 寺子屋の日々

寺子屋の日々 ~Days in Terakoya~(てらこや新聞138-139号 亀井のコーナーより)

~ The Leopard Cannot Change His Spots ~
~ 雀百まで踊り忘れず ~


9月の最終日、卒業生からの吉報が届いた。1人は、中学校の英語の先生として、もう1人は、小学校の先生として三重県の教員採用試験に合格したとの知らせ。中学校の英語の先生になる卒業生は、わざわざお顔を見せてくれての報告だった。

彼女は、この春大学を卒業していて、現在2つの中学校で非常勤講師としてすでに教鞭をとっている。そして、少し近況を報告してくれた。その中の彼女の発言でハッとしたことがあった。

今、子どもたちの言葉が乱れているー。彼らの表現力が理解力とともに落ちている―そして、それは私たちー彼らの周囲にいる親、先生を含む大人の言葉の乱れ、表現力、理解力の低下によるものであるに違いない。

テレビやちょっとしたインタビューやスピーチにおいて、いい大人-20代半ばを過ぎた人たち―が 公の場で、自分の親について、「お父さん」、「お母さん」と表現する、一人称を「俺」または、自分の名前で話すのを見て、呆れを通り越してもう笑うしかないと感じるのは私だけではないと思う。・・・誰にだって、失敗や言い間違いや「たまたま」は、存在する。次、それが改められていたらそれでいい。けれど、この人たちには、それを気づかせるために、注意してくれる人がいなかった、また、今もいないという現実があるのなら、私は気の毒だと感じる。

そして、「英語教育」へのその影響なのか、もしかすると目の前の「英語教育」の影響かもしれないと感じることが増えている。

①My mother is a teacher.
②Your mother is a teacher.


この2文の訳を子どもたちに書かせたとき、その解答に戸惑う。私なら、①は「私の母は先生です。」、②は「あなたのお母さんは先生です。」と訳す。そして、①の解答に「私のお母さんは先生です。」とあれば、○をあげたとしても、②の解答に「あなたの母は先生です。」とある場合、○するのに躊躇をする。

こまかいことを・・・と思う人がいるかもしれないけれど、英語も日本語同様、言葉である。日ごろ使う言葉なのだ。そして、それに気が付けないとすれば、「外国語を学ぶ」ことの意義は半減するのである。外国語学習は、振り返って自分たちの言語への理解を深めるというところまでを含んでいる。それが、外国語を学ぶことの、おそらく一番大切な要素なのだ。

なのに、このところ、私は、躊躇はしながらも、 注意もせず○をつけることが増えている―それを、卒業生の訪問で気が付いた。今回、訪問してくれた卒業生が中学生のころの私は、それを説明する 余裕を明らかに持っていたのだ。

彼女は、それを覚えていてくれたのだ。

―活躍の場所は違っても、先生という職業は、今目の前の成果ではなく、将来出るか出ないかわからない成果を信じて待つそんな仕事であることを忘れないでほしいと願っている。そして、将来、必ずや彼女にも、私に対する彼女のように、多くの学びと喜びを与えてくれる生徒がいることを確信している。

Teaching is Learning.(教えることは学ぶことである)を忘れずに頑張ってほしいと思う。
(Y.K)
by terakoya21 | 2016-10-31 16:04 | 寺子屋の日々

寺子屋の日々 ~ Days in Terakoya ~ (てらこや新聞137号 亀井のコーナーより)

~ Some people feel the rain. Others just get wet. ~
~ 雨を感じる人もいれば、ただ濡れるだけの人もいる ~


「世の中の8割、いや9割の人が、あなたみたいにいつも考えてはいないことに、そろそろ慣れたほうがいいよ」と・・・先日、東京で会った親友に言われた。

知ってはいる、頭ではわかってはいるけれど、「慣れる」ことがなかなかできない。

いろいろなことを感覚的に捉える人が増えているんだな…と日ごろ生活の中でも、じわじわと、ヒシヒシと、切実に感じる。その実感と比例するように、最近の子どもたちには、一つの物事についてじっくりと考えることや、段階を経て考えることが苦手な子が増えている。だから簡単に、「そうだから」と納得するわけにもいかないのだ。

先日、「学歴」についての話題が出ていた。

私にとって「学歴」は、少しだけ自分の進む道を楽にしてくれるものだったと思う。「東京外国語大学卒」も、「アメリカの大学院卒」も結局、私が田舎で仕事をするとき、大いに役立ち、チャンスを与えてくれたもの―。でも、その一方で、この学歴は、自分が何かの努力を怠れば、今まで「東京外国語大学卒だから」、「アメリカの大学院を出てるから」だった評価が、「東京外国語大学卒なのに」「アメリカの大学院まで出ているのに」という評価に変わり、足かせとなるものでもあった。
そのことを、私の両親をはじめとする周囲の年長者たちは、私が人生の歩みを進めるにあたってしっかりと諭し、教えてくれていたように思う。

けれど、今、子どもたちの周囲にいる大人たちはそれをしない―。それができる人が少なすぎるのかもしれない。

そして、多くを「学歴」のせいにする大人が多いようにも思う。「東京大学卒なのに」・・・そう言い放つ人に自分自身が東大卒の人はいないと思う。一方で、良いと言われる大学―たいていが入学者の偏差値の高い大学とされる大学―に行くことを子どもたちに勧める人も多い。

昔から、おそらく「東京大学」を卒業しても、仕事のできない人も、コミュニケーション力が足らない人も多くいたのだと思う。そして、かつては、それを人々の多くが、「東大卒だから」(凡人にはわからない?)を「納得する」方法として使っていたのかもしれないとも思う。

私の祖父は東大卒の医者で、医者としては優秀だったし、人のために何かをすることを厭わない心の優しい祖父だったけれど、彼の武勇伝は、おそらく今なら、「コミュニケーション力」が足らないと言われるものかもしれないと思うものが多い。けれど、人々はおそらく「東大卒だから」と許し、愛されていたのだと思う。

しかし、今は「東大卒なのに」が先行しているように思う。それには、いくつか理由があるけれど、1つは、大学の評価が入学時の「偏差値の高さ」で決まると思っている人が多いこと。そして、何も考えずに偏差値の高い大学を選ぶ傾向があることである。

大学だけではなく、学校の評価は、本来、卒業生の活躍で測られるものだと思う。そして、その活躍は、平凡なものがほとんどで、その積み重ねが、大きな評価となっていくことを多くの人が忘れていると思う。以前、コマーシャルにもあったけれど、ファインプレーは、難しいことを華々しくするのではなく、平凡なことを何気なくきちんとすることである。

そして、仕事のできない人やコミュニケーションが苦手な人は、どんなグループにもいるのだと思う。それを多くの人が忘れているように思えてならない。

それを、「一流大学卒なのに」と見るのか、その人個人の力と見るのかは、受け止める側の問題だ。また、大学を出ただけで完成した人間が出来上がるわけではなく、人は日々、経験と周囲の人々とのかかわりで成長しているとすれば・・・その人となりを「学歴」ばかりで見ているのは、見る側のほうの問題が大きいように思う。

一方で、「学歴」が足かせになることも事実―。「先生」と呼ばれる者の端くれとして、私は、これからを生きる若者たちには、現実をしっかりと伝えていきたいと思う。

私は、いちいち、1つの話、1人とのかかわりで、これだけのことを考え、自分の意見をまとめるのに、何日も、何週間も、何ヶ月も、何年もかけていく―そりゃ、そろそろと言われても、「世の中考えない人のほうが多い」ことに慣れるのは難しい(^-^;。

。。。と・・・友人への言い訳に、1つのエッセイを使ってしまうわけである(笑)。
(Y.K)
by terakoya21 | 2016-09-05 08:30 | 寺子屋の日々

英語塾の寺子屋かめいの元気を発信します


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