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宇治だより (てらこや新聞150-152号 下西さんのコーナーより)

宇治だより②
「天王山から光秀首塚までをウロウロの巻」

6月16日天王山(京都府乙訓郡大山崎町)に登ってきました。

あの天王山、1582(天正10)年本能寺の変の後、明智軍と秀吉軍が戦った山崎の合戦の舞台となった場所です。けっこうな山道でしたが、高さはたった270m。「年ごろ、おぼしつること果たしはべりぬ。」(宿願達成)の心境です。

光秀は…西国から駆けつけてくる秀吉軍を迎え撃つには山崎のあたりが最適と考えた。そこは、京・大坂のほぼ中間点であり、天王山と淀川とにはさまれた隘路(あいろ)となっていて、防戦するにはもってこいの地形だったからである。実際の山崎の戦いといわれている両軍の激突は十三日であるが、その前日、早くも山崎周辺では両軍の先鋒同士の小競りあいははじまっていた。…いよいよ合戦当日である。光秀は下鳥羽(しもとば)から御坊(おんぼう)(づか)に本陣を移し、天王山麓を進んでくる秀吉軍に備え、円明寺川の自然堤防背後の低湿地に布陣した。【小和田哲男著『明智光秀と本能寺の変』(PHP文庫)】

京都府(山城国)と大阪府(摂津の国)の境に位置するの山崎・天王山は、桂川・宇治川・木津川の三川が合流して淀川となる付近に面しています。そして、対岸は(いわ)清水(しみず)八幡(はちまん)(ぐう)のある男山(八幡市)です。

狭い平野部分に、JR京都線(東海道本線)、東海道新幹線、阪急京都線、国道171号(旧西国街道)、など幹線がひしめく交通の要衝です。明智光秀が、中国地方から戻ってくる豊臣秀吉軍を待ち伏せするのに最適な場所でした。

天王山にはいくつかのハイキングコースがありました。その一つは、JR山崎駅近くの登山口から始まります。チェックポイントもいくつかあります。まずは宝積寺。ここは山崎の戦いでは秀吉が本陣を置いたところです。山門には「金剛力士像」が立ち、秀吉が一夜で建てたと伝わる「三重塔」、秀吉が腰かけたといわれる「出生石」もありました。一説では山(さき)(しろ)一部(いちぶ)にもなったとのこと、境内(けいだい)(ひで)(よし)()くしです。

六合目(ろくごうめ)あたりに青木(あおき)()(だに)展望広場があり、ここから大阪平野が一望できます。うっすらと大阪城らしき形を認めることができました。

七合目あたりには(はた)立松(たてまつ)展望台があり、ここからは天王山の戦いで、両軍が布陣した「地図」が掲示されていました。旗立松とは、山崎の合戦のおり、秀吉がその存在を示すべく千成ひょうたんの旗を掲げた場所にちなんでいます。

眼下の風景は、縦横に立体交差した道路や鉄路がみえて、ジオラマのようで、ダイナミックですが、往時の光景を想像するべくもありません。実際の合戦場も展望台から目星を付けることができました。

山中にある(さか)(とけ)神社(じんじゃ)の脇を通って天王山山頂です。ここは山崎城跡でもあり、秀吉が大坂城に移るまでの短期間、本拠としていました。

山頂と言っても展望がきくわけではなく、城跡と言っても山城研究家ではないので城の縄張りを思い描けるではありません。が、天王山山頂の標識の前に立つと、歴史の舞台に来れた!という感慨がこみ上げてきました。

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平日だったので、登山中に出会った人は十名くらい。歴史的な地を踏破する目標を持った人、トレーニングのために日常的に登っている人、さまざまなハイキング模様でした。

ハイキングコースの途中には、「秀吉の道」と題する陶板絵図六枚が、点在しておりました。原画は日本画家・岩井弘により、解説文は堺屋太一によるものでした。「本能寺の変」「中国大返し」「頼みの諸将来たらず」「天下分け目の天王山」「明智光秀の最期」「秀吉の天下人への道はここからはじまった」というテーマで、戦国時代絵巻が繰り広げられていました。

ここに来るまで、山崎の合戦は天王山の山中で行われたと思い込んでいました。山道を歩きながら、6月の暑さの中、鎧兜のいくさ支度では歩くだけでも大変…と思っていましたが、それは大間違いで、天王山は秀吉が陣地を構えた場所で、実際の合戦は、平野部で行われた…ということを、堺屋太一さんの文章で知りました。

光秀の敗走について、小和田哲男さんは著書『明智光秀と本能寺の変』(PHP文庫)で、次のように述べています。



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光秀が、勝竜寺城を脱出したあと、つぎにどのような手を考えていたのかはよくわからない。ただ、このとき、(しょう)竜寺(りゅうじ)(じょう)を出て、下鳥羽に至り、さらに大亀谷を経て山科(やましな)小栗栖(おくりす)に至っているので、近江方面をめざしていたことが考えられる。(略)小栗栖の竹藪を通過中、落ち武者狩りをしていた農民のくり出した竹槍で光秀が殺されたとき、側には、近親の溝尾庄兵衛ら五,六人しかいなかったといわれている…

7月27日、明智光秀の最期を遂げた場所といわれる「明智(あけち)(やぶ)」(京都市伏見区)に行ってきました。本経寺の裏側にあたり、細道に連なっている民家が途切れた場所から、もっと細い小道を「明智藪」の標識に導かれて歩きました。ほの暗い小道に藪蚊を手で払いながら歩くと、「明智藪」の駒札(説明書き)がありました。ここは、四百年以上も前に、本当に光秀がこの道を通ったのかもしれないと、思い浮かべることができるそうな不穏な場所でした。(ここの住人には失礼かもしれませんが。)


京都市東山区梅宮町 (三条通白川橋下ル東側)に明智光秀の塚(首塚)があります。地下鉄東西線東山駅で降り、白川に沿って南に(知恩院の方へ)5分くらい歩くと、半間ほどの小さい(ほこら)が見つかりました。祠には「光秀公」と書いた扁額がかかり、ちっぽけな五重の石塔があり、戒名が刻まれた石柱もありました。8月10日に訪ねたので、ちょうど数輪の桔梗が咲いていました。白川沿いの小道は柳の木が枝葉を風になびかせ、気持ち良い散策道になっていました。塚の近くに「(もち)(とら)」というお菓子屋さんがあって、「光秀饅頭」を売っていました。光秀の桔梗の家紋の焼き印を押したまんじゅうは、白みそあんと粒あん、両方ともおいしかった!


塚については、いつ建ったのか、だれが建てたのか、どうしてこの場所なのかは判然としません。駒札には、最期を遂げた光秀に、「家来が、光秀の首を落とし、知恩院の近くまできたが、夜が明けたため、この地に首を埋めたと伝えられている」と書かれていました。

「天王山に登りたい」から始まった散策は、図らずも光秀のその後をたどることになりました。信長を倒した反逆人・明智光秀は、江戸時代に入って密かにではありますが、きちんと弔われていました。


by terakoya21 | 2018-02-25 08:30

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