寺子屋の日々 ~Days in Terakoya~(てらこや新聞131号 亀井のコーナーより)
2016年 04月 10日
~ 自らの人生を愛するということ ③~
「みんなと仲良く」だとか、「みんなでしよう!」などという言葉に、いつもなじめなくて、私は学校が嫌いだった。今でも、なじめない。子どもたちや子どもたちの周囲の大人から発せられる「みんな」という言葉に、どうしても疑いを持ってしまう。
「みんな仲良く」したところで、自分の大変なときに、最終的には自分でなんとかしなければならない。他の人がそばにいて心強いことはあっても、「みんな」がいてくれる必要もなければ、「みんな」がいると厄介なことの方が多い。
幼い頃からずっとそう思っていたし、今もそう思っている。
だからと言って、私は、友だちを大事にしないわけでも、友だちがいないわけでもない。おそらく、多くの私の友人も、多くの寺子屋の卒業生も、私はうっとうしいほどおせっかい焼きだと思っている人の方が多いと思う。
それは、両親がいつも「よそはよそ、うちはうち」であり、「みんなの言う「みんな」は、本当の「みんな」でない」ということを示してくれていたからだと思う。
私は、「みんな」を好きにはなれないし、「みんな」と一緒に何かをしようとするとき、いつもアウトサイダーである。
だからなのか、毎日、子どもたちと接して、彼らの話を聞いていると思わず
「みんなと仲よくする必要などない。嫌なら『いや』だと伝えた方がいい」と言ってしまうことがある。
そして、保護者の方々、同級生などの友人の話を聞いていて
「子どもたちに『みんな』からの逃げ場を作ってあげてほしい。『自分』からの逃げ場ではなく・・・」と言いたくなる。
子育ての目標も教育の目標も、子どもたちが、今ある社会で自立し、私たちが先人から引き継いだ社会を私たちがいなくなっても、営めるように彼らを育てること。
子どもたちには、今周りにいる「みんな」がいつもついていてくれるわけではない。そして、少なくとも私たち大人は、先にいなくなる。
それを忘れてはいけないと思う。
子どもたちの話を聞いていると、そして、子どもたちの問題対応能力を見ていると時々、息がつまりそうになる。それは、彼らと彼らの周囲にいる大人の人への、そして何か問題への対応が、とても刹那的だからかもしれない。
大人たちには、子どもたちに子どもたちでいられる時間をしっかりと与えてあげてほしいと思う。
それは、彼らの思い通りになることや時間を増やすという意味ではなく、長い目で見て、彼らの育ちに必要なことは、大人として嫌われても言う、する姿勢を多くの大人が見せることである。その姿勢が、子どもたちが子どもたちでいられる時間を作るのだと私は信じている。
自分たちが間違っても、大人がしっかりと正してくれる。そして、どんなに他の人と違っても、少々失敗しても、努力を続ける限り、いつでも戻る場所がある―それが、子どもたちが子どもである時間を作ることで、子どもたちが自分を大切にし、自分の人生を愛すことにつながっていくのだと私は思っている。
(Y.K)