寺子屋の日々 ~Days in Terakoya~ (てらこや新聞126号 亀井のコーナーより)
2015年 09月 23日
~ 人は、自分の願うものを信じる ~
松阪では、また選挙が近づいてきている。私は、多くの人の期待を裏切るのだろうけれど、フェミニストではない。そして、「女性候補」―女性であることを主張する候補―にはめったなことがない限り、投票はしないと公言している。そして、今までの20年あまりにわたる有権者経験において、「女性」に投票したことはない。
それは、「女性」であることを強調し、主張される人たちは、大概、同じ女性でも、私の意見や立場を代表している人がいないからである。私は、結婚も、出産も経験をしていないし、経験する可能性は年々少なくなっている。けれども、「女性」なのだ。多くの女性候補や女性議員がおっしゃるように、「結婚」や「出産」をして、男性とは違う目線― 「女性」の目線を持てるのであれば、私は、「男性」に限りなく近い。そして、実際に「男性」の方が、私の意見や立場を理解してくれると感じることが年々増えている。
私には、「女性であること」、「シングルマザー」であることが強調されるなら、「男性候補」や「シングルファ―ザー」が大きな声で名乗りを上げない世の中はおかしくてたまらない。そして、私は、どちらも大きく主張されなくても当たり前になることが本当に、お互いを認め合える世の中だと思う。一人ひとりが、自分の役割を自分の意思で果たせる世の中が、本当の意味で「対等」なのだと思うのだ。
一方で、寺子屋を設立したとき、竹川さんと誓ったことがある。
自分たちが、どんなライフステージあっても、そのステージに合った状態で働ける環境を作ろう。
寺子屋は、産休から始まり3年までは休むことを可能にすることにしている。子どもたちの成長におけるこの3年間は、大切だと思うからだ。一方、竹川さんは、出産から2年で職場復帰をしているけれど、週2回、数時間ずつの勤務。社会保障がつくわけではないけれど、母子の精神的な健康と成長を考えて、私と2人で話し合い、ご家族のご協力を得ての復帰である。
女性は、確かに男性より、自分の意思とは反して人生の選択をしなければいけない回数が多いのかもしれない。けれど、「女性」だからより「女性」を理解しているわけでもなければ、「男性」だから「女性」を理解できないわけでもない。それは、逆もしかりであると思う。
Men willingly believe what they wish.
人は、自分の願うことを喜んで信じる。
ジュリアス・シーザーの言葉だ。だから、話し合い、協力し合うことが必要なのだと思うことが増えている。
同時に、人々がその話し合い、協力し合うための「言葉」を失いつつあることに危機感を抱いている。
(Y.K)