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寺子屋の日々 ~Days in Terakoya~ (てらこや新聞120-121号 亀井のコーナーより)

~ A School As a Harbor to Return ~
~ 母港としての学び舎 ~


3月の末にはるばる九州から、卒業と進学の報告に顔を出してくれた卒業生が・・・

「人生の早い時期に、『人に教えること』を経験しておくことは大切なことだと思う。」

と言っていた。

彼は、アルバイトで自分の生活費を稼ぎながら 大学に通い、4月からは大学院へ進学する。そんな「バイト生活」の中で、学んだことらしい。

「人に教えること」の難しさを知っていれば、自分が教わる側に回ったとき、うまくできなくて、叱られたり、文句を言われたりしても、「教える人」への感謝や思いやりが持てるはずだと彼は続けた。

その通りだと思う。まさにTeaching is Learning. (教えることは学ぶこと)だ。教える側も、教わる側のその態度を見て、自分が「教わる側」だったときの苦労に思いを馳せたり、育ててくれた人に感謝ができる。

私が、お金をもらって「教える」という仕事をし始めて、今年で24年になる。そして、「寺子屋かめい」を始めて、15年が経った。その間、教育評論家か、進学塾経営者か、予備校の先生か、カウンセラーかなんだか知らないけれど、「教育の専門家」と言われる人々の「教育論」に何度も首を傾げてきた。そして、強い主張を続ける「先生」と呼ばれる方々の言動にも違和感を抱かずにはいられなかった。

この15年間、教育に携わり、熱心になればなるほど、自信はなくなっていく。その懸念は、消し難いけれど、同時に、卒業生たちがときどき立ち寄ってくれることで、私は継続の力を実感し、仕事を持続する力を与えられる。

「先生」と呼ばれる立場は、その人から「学ぶことができる」と思ってくれる人が存在する限り、存在すると、何かの本で読んだ。そう、私たちは生徒次第であり、「先生」たちも人間だから限界があり、その限界を広げてくれているのは、生徒たちなのだ。

自分のすることすべてに自信がある人などこの世にはいないと思う。もし、そんな人がいるとすれば、その人は、決定的に想像力が欠如しているか、自分が「無知」であることに気がつかない人に違いない。また、不安や懸念を持たない人は、自分以外の他を認めない人でもあるだろう。

これだけたくさんの子どもたちがいて、人がいれば、すべての人に「これだ!!!」という教育法などあるわけがない。教える側と、教わる側の相互の協力があり、理解があり、ベストではなくても、ベターを探る・・・それは世の中のほとんどのことに当てはまる過程だと思う。

2014年度の日々の生徒たちとその周囲の大人たちとの交流は、時代の流れとともに、子どもたちには受難の時代だな・・・と感じることが多かった 一方で、いろいろな人たちと出会い、話を聞き、誰かの意見1つに心酔するのではなく、自分なりに消化をする努力をし、生活に生かしている20代の青年たちとの再会を楽しめる1年だったようにも思う。

そんなとき「母港としての母校※」という言葉に  出会った。学び舎はそこにいつまでも変わらず存在し、卒業生たちが、気が向けば立ち寄り、自分の今の位置を確認する―そんな場であるという意味だと本で読んだ。

我が寺子屋も、そんな学び舎でありたいと願っている。

寺子屋かめい15周年、そして、「てらこや新聞」も発行から10年が経った。これからも、謙虚に変わらぬ努力をしたいと思う。

(Y.K)
※『ぼくの住まい論』 内田樹著 新潮文庫
by terakoya21 | 2015-04-22 17:57 | 寺子屋の日々

英語塾の寺子屋かめいの元気を発信します


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