てらこや日誌
2014年 11月 01日
畏怖の念を抱く
ということが、「学ぶ」ためには必要だと私は思います。
自分の能力が及ばないことが世の中にはたくさんあり
そういう物事に敬意を持つ―
今、子どもたちと接していると、
あまりにも「畏れる」ということを知らない人が多すぎることに気が付き、
こちらが恐ろしくなります。
(先日、中学2年生が授業に持って来ていた下敷きです(^_^;))
受験勉強でもそうです。
「落ちたらどうしよう」
という漠然とした不安はあるものの…
その不安が「恐れる」のではなく、「畏れる」ことから来ていれば
「努力あるのみ」
なのですが…「恐れ」から来ていると
「立ち止まる」
ことになってしまう。
そして、「立ち止まり」…「自分の不安」と「自分の立場」の主張と弁護ばかりをする―。
それには、周囲の人々の立場や思いへの配慮がない―
これは、子どもたちばかりではありません。
周囲の親御さんもそう。
「心配」をしながら…
その心配をしている自分の主張と弁護をする―
それには、多くの場合、結果が出て、それが不本意であったなら、
傷つくのは本人で…大人たちは落胆しても…
子どもたちほどに傷つくわけではないことへの思いやりがない―。
自分の目の前に、はっきりと現れるものへの恐れはあるけれど、見えないものや力への「畏れ」がない―。
大人たちの役割は・・・
一緒に不安がり、一緒に騒ぎ立てるのではなくて
もう少し冷静に、子どもたちを導くことです。
「見守る」ことは・・・大切なことですが…
それは「逃げ」とは、大きな違いなのに、紙一重です。
受験は子どもたちの人生の単なる1つの通過点に過ぎないけれど
大切な人生の岐路です。
親御さんたちが、しっかりと厳しい姿勢で臨まなければ
子どもたちも一緒に逃げようとします。
我が母は…
「親が自分の子に厳しいことを言い、厳しく接しなくて、どうやって彼らの周囲にいる人たちに同じ愛情を持って厳しいことを言ってくれることを期待できるというのか」
と言います。 この人は、今でこそ、わがままし放題、言い放題の面白いおばあちゃんであることが大半を占めていますが、それでも、今も、私にとっては、いざというときにはオソロシク厳しい母親です。
そして、私は、自分が受験生への働きかけをするとき自分が受験生だったときに父に言われた言葉を思い出します。
「『すべりどめ』などと言って人生に妥協するのなら、大学など行かなくていい」
センター入試を1か月後に控えた12月の半ば…
国立、私立それぞれの第一志望以外にどこを受けようかと考え、相談したときのことです。
結局・・・私は、勉強ができたから、人生の岐路で難なく前に進むことができたのではなく―
親をはじめ、周囲の年長者の方々の導きが、いつも「厳しく」そして、「優しい」導きだったからだと日々感じています。
私たちの商売は、嫌われてナンボの商売ですが…
信頼関係のある親子関係や、師弟関係…そして人間関係全般が
必ず…ときには「嫌われても伝えておかなければならないこと」が言える関係でなければならないと思います。
昨日の受験生への補習で、いつまでも甘えた態度であることに対する私の口からのはっきりとした厳しい苦言を聞いた受験生は、私の苦言に納得はしていたようですが…泣いていたので、
「体を温めて、今日は早く寝ること」
と伝えて、授業を終えました。
風邪などひかず、今日も元気に通塾してくれることを祈りながら…
今週最後の授業日です。
みなさん、どうぞよろしくお願いいたします。
11月開講講座! 今日締め切りです!
11月開講のクラスは…
セントヨゼフ女子学園中学校受験応援講座 現小学5年生対象です。
小学1年生 学習事始めクラス
小学2,3年生 英語クラス
(Y.K)