寺子屋の日々 ~Days in Terakoya~ (てらこや新聞112号 亀井のコーナーより)
2014年 08月 12日
~ ※2学びて思わざれば則ち罔(くら)し、思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し ~
ときどき、生徒たちが学校で憤った話を「先生、聞いてください!」といいながら、話始める。彼らの主張の半分以上が私も納得し、「それはおかしいね」なんて、一緒に憤れる内容なのだが、半数近くが「それは、君たちがあかんやろ」と言いたくなるものでもある。
そういうお話の中での生徒たちの憤りは・・・ほとんどが、まず若者の基準となるところが、大人から見ればおかしいということに気が付いていないところから来ている。だから、「大人」の1人である私が納得するはずはないのだけれど、私もその彼、彼女らから見ると理不尽なことを言うはずの「大人」であることが忘れられていることも多い(^_^;)
そして、そんなお話に見え隠れする「自分たちは正しい」という彼らの基準・・・学習にも現れる(+_+)。間違った解答に×を付けて返すと・・・
「先生、これどこが違うんですか」 とか
「あってますよ」と
堂々と主張する彼らの「自分が間違っているかもしれない」という不安を持っていないのではないかと、こちらが逆に不安になるような態度に・・・「学ぶ姿勢」のなさが学習の最大の妨げであることを思い知らされる。
もちろん、どんな先生だって間違うし、見間違うし、見落とす・・・けれど、英語を学び始めて数年の彼らと、英語を学び始めて30年以上、教え始めて20年以上が経つ私を比べれば、私が「英語の問題」に関して間違う確率は彼らが間違う確率よりは低いはずだ。
もちろん、私も間違う。けれど、中学生や高校生になった生徒たちが本当に学ぼうとしているとすれば、なぜ間違っていないと思うのかの根拠をしっかりと示して、質問をする姿勢が必要だと思う。少なくとも私は、学生時代、その先生との経験の差を埋めるために根拠となる辞書や参考書、何かの本などを調べ、その根拠をもって、先生に主張しに行ったものだ。
それが、私の英語への興味と実力をどんどんと強めていったのである。
そして、こちらが間違っているのではないかと不安になるほどの勢いで、「自分が正しい」と主張する割には、自分たちの間違いを指摘されたときの彼らの反応のあっけない変わり方に、反省のなさが表れ・・・「学ぶ内容」よりも「学ぶ姿勢」の大切さを痛感する。
一方、世の中の出来事にしても、政治家の態度も、政治への批判も…大人が、自分たちの以前の行動が今に至っているという反省もないことを映し出しているとしたら…地道に、子どもたちに語る努力を続け…責任のある行動とは、真摯な反省とともにあることを伝えたいと感じる。
学ぶ姿勢が―肘をついて勉強する姿にも、授業中我慢も隠すこともせずあくびをする姿にも、まっすぐ座っていられない態度にも―軽視されていると感じずにはいられない。私たちの仕事は、子どもたちの学びを手助けする仕事。あくまで「手助け」であり、私たちの努力だけで、子どもたち自身の努力なしでは、学べるものも学べない。子どもたちがまず努力しなければならないことは、「学ぶ姿勢」を自ら作ることだ。
そして、「学び」に大切なのは、「自らが知らないこと」が世の中にあることを認識すること。それは…明らかに人生を生きやすくすることでもあると…私は、40歳を越えて、今感じている。
※ 「天才は1パーセントの才能と99パーセントの努力からなる」という意味のことわざです。
※2論語のなかの「孔子」の名言で「教えてもらっても自分で考えなければ役に立たず、自分の考えばかりで学ばなければ危ない」という意味です。
(Y.K)