まえがき (てらこや新聞87号より)
2012年 06月 27日
先日午後からの講義が休講になったので、祖母を誘って映画を観に行った。
切符を買うのも久しぶりだとはにかむ祖母と、各駅停車の電車に揺られ向かったのは、大学の最寄駅から2駅のところにある私のお気に入りの映画館。(この映画館についてはまた次回以降に、たっぷり紙面を割いて書こうと思う(^^ )♪)
素敵な映画館でわたしたちが観た映画は、これまた素敵な『アーティスト』という作品。本年度アカデミー賞作品賞(最多5部門)受賞作なので、ご存知の方も多いことだろう。
この作品は白黒のサイレント映画で、俳優さんたちのセリフの音声が収録されていないため、観客は彼らの表情や仕草からストーリーを読み取る必要がある。登場人物が何に笑い、泣き、腹を立て、どんなことを話しているのかを、彼らの姿を目で追いながら想像する。この作業をわたしはとても心地よく感じ、また主人公たちがすぐそこにいるように(時に一心同体のように)感じながら、最後まで作品を楽しんだ。
そして、感じたこと。テレビをつければあらゆる番組で過剰とも思える量の字幕が流れ、たくさんの情報が目から耳から入ってくる 今日この頃。そんな時代の中でのサイレント映画は、単に物語を提供するだけのものではなくて、多くの現代人にとって刺激になりうるものではないのか。つまり、相手が何を伝えようとしているのかを理解しようとして相手の言動に集中することを、新鮮な体験として感じる人が少なくないのではないかと思うのだ。
しかし、本来相手を理解しようとして話を聞くことは、人と人とがコミュニケーションをとる上で最も基本的なことであり、最も大切なことであるはずなのだが。
この塾でも先生方のセンサーを刺激するような発言が毎日のように飛び交い、また先生方のお話や 問いかけに、頭上に「?」が浮かんでいるのが見えるかのような疑問顔の生徒や、「・・・」と無言で応じる(といってよいのか?)生徒によく出会う。言葉を使ってコミュニケーションをしているのに、意思の疎通がうまくいかない。(同じ言語で話しているはずなのだが(^^;)…)『アーティスト』を観ている最中も、「さっきの笑いどころ、寺子屋のみんなも一緒に笑えるだろうか・・・」などと、かなりおせっかいではあるが、そんなことを考えてしまった。
これから新しく出会う人たちに対しても、長い付き合いの友人や家族に対しても、相手の考えや感じ方を理解しようと努めて聴くことを私はおろそかにしたくない。寺子屋生のみなさんにも、ぜひそう心がけていただきたいと思う。
「聴くっていう字は耳+目心って書くんや。いいか、人の話を聴くときは、耳と目と心を使って聴け。」と、中学時代の先生が得意げに話していたのを思い出した。
(H.F)