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上越だより (てらこや新聞64号 下西さんのコーナーより)

ゑしんの里

6月30日、梅雨の晴れ間を見つけて、上越市板倉区米増(いたくらくよねます)にある「ゑしんの里記念館」に行ってきました。ここは、わたしが住んでいる「高田地区」からは車で20分ほど南に行ったところです。辺りは、畑地や水田が広がり、肥沃な穀倉地帯で ある高田平野の一角であることはまちがいありません。この日は、田んぼの様子を見に来たのでしょうか、トラクターに乗った老人を見かけただけで、ひばりのけたたましいさえずりが主役でした。

そして、こののどかな田園の風景の中に「北陸新幹線」の高架橋が連なっていて、新しい景観を呈していました。長野から飯山トンネルを抜けたところが、上越市 板倉区です。この一帯は2014(平成26)年に、北陸新幹線が部分開通(東京~金沢)するルートにあたっています。
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「ゑしんの里記念館」とは、親鸞の妻 「恵信尼」を顕彰する施設です。「上越便り6月号」で、親鸞聖人の流された場所ということで、親鸞のゆかりの場所を紹介しましたが、上越は、恵信尼のゆかりの土地でもあります。
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恵信は、1182(寿永元)年生まれ、1268(文永5)年に87歳で没したと伝えられています。しかし、生没年ばかりか、その存在も長い間「伝説上の人物」でした。恵信が「伝説上の人物」から「歴史上の人物」になったのは、1921(大正10)年、親鸞の娘「覚信」あての恵信の手紙が、西本願寺の宝物庫から、10通見つかってからだそうです。

「ゑしんの里記念館」のホームページでは、恵信のことを次のように紹介しています。

「親鸞の妻、恵信尼は晩年を板倉で暮らし、この地で亡くなりました。その生涯は流罪となった親鸞を支え、東国に移住してからは各地を転々とし、晩年は板倉に移り、飢饉のなか子供や孫たちまでも面倒をみるといった苦難の多いものでした。しかし恵信尼は、そうした苦難にも負けず、逞しく、ときにはユーモアをもって、当時としては稀な87歳を越える長寿を全うしました。……」

恵信については、まだまだわからない 部分がたくさんありますが、その中でもっとも興味ある事柄が、いつ、どこで親鸞と出会い、結婚したかということでしょう。

「ゑしんの里記念館」は、開館に際して、恵信の生涯の「伝記絵」を作成しました。彼女の生涯を六場面に分け、「絵」と「解説」とで表現されています。

この伝記絵では、恵信は京都生まれであり、京都の貴族「三好為教(みよしためのり)」の娘であり、上級貴族の「九条家」に女房として仕えていました。九条兼実(くじょうかねざね)は、親鸞の師「法然」に帰依しており、恵信と親鸞の出会いは、九条家かと暗示させています。

一方、六月に読んだ五木寛之著『親鸞』では、恵信は越後の生まれである事情で、京都の三好家の養女(紫野となのる)になり5歳で上洛します。そして、京都の九条家にて、幼いころから働いており、布教中の親鸞と出会います。ところが、紫野(恵信)は病を得、やむなく越後に帰り、死を覚悟して剃髪し、「恵信尼」となって療養しました。幸運にも病が癒え、再び京都に戻った恵信はかねて愛しく思っていた親鸞にも再会し、結婚。ところが、「法難」のため、京都に住めなくなった親鸞は、流罪の名目で妻の故郷・越後に住むことになりました。

なんと!作家の「想像の自由」が発揮された「恵信」像でしょう。

五木寛之以外にも、『親鸞』を描いた作家は何人かおります。わたしは、浄土真宗の信者でありませんし、親鸞の教えについてさほど関心はありませんが、親鸞と恵信の出会いが、いつ、どこなのか、という視点で、他の『親鸞』も読んでみたいと思いました。

「ゑしんの里記念館」は平成17年に建てられましたが、もともとこの地は、恵信尼が晩年を過ごした場所と考えられていました。恵信の10通の手紙に出る地名と符合すること、恵信が建てた五輪の石塔とみられるものが発掘されたことなどの理由から、1957(昭和32)年、この五輪の石塔を「恵信尼寿塔」と認定され、まつられることになったのです。
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伝説の地から掘り起こされた五輪塔はいまも、記念館の傍らにあります。
by terakoya21 | 2010-08-31 14:47 | 上越だより

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