人気ブログランキング | 話題のタグを見る

寺子屋の日々 Days in Terakoya (てらこや新聞52号 亀井先生のコーナーより)

~ 不登校のすすめ ~

教育関係の仕事をしていると「不登校」、「保健室登校」、「引きこもり」、「ニート」などという言葉が特に気になる。そして、何が原因なのだろうかと考えることが多い。

一方で、私も…その予備軍であったのかもしれないと思うことがある。

私立の中学校を自ら選び、大学院まで出て、勉強が好きだった私が何を言っているのかと思われるかもしれないが、小学校から高校まで私は学校を休みがちだったし、学校が大嫌いで、毎日、授業が終わるといかにして1分でも1秒でも早く家に帰るかを考えていた。

そんな私が、どうやって大学院まで勉強を続けられたかを考えてみると、学校は自分のために「行くもの」だと厳しく教えられていたからだと思う。一方で、「休んではいけない」ものでもなかったからだ。私の母は、かなり厳しい人だ。遊び、楽しい時間を過ごした日曜日の翌日、月曜日に「学校へ行きたくない」など、熱があろうが、頭痛がしようが、お腹が痛かろうが言える雰囲気はなかった。週末は、学生にとっても、社会人にとっても、次の1週間を過ごすためにリフレッシュをする時間…と私は教えられていたので、それを忘れて、次の1週間に影響を与えるほど疲れる週末を過ごしたら、そのまま1週間、学校へ疲れたまま行く覚悟をしなければならなかった。そして、学校嫌いだった私も、母の反対にもかかわらず出かけた日曜日の翌日には、39度の熱を出しても、這ってでも学校に行こうとする意地を持っていた。しかし、そんな母も普段は、私が漠然と「調子が悪い」といえば、病院へ行ってからの登校を勧めたり、学校へ「朝から不調を訴えていますので、何かあったら、早退させて下さい。」というようなメモを持たせて登校させたり、津にある私の学校まで迎えに来てくれるときもあった。

先日、ときどき、ふと学校に行きたくなくなる高校生の話を聞いて、思い当たった。私も、いつも学校に行きたくはなかったし、喜んで学校へ向かったことなどなかったことに…。そして、私も、体調が悪くなると1週間から10日は体調が戻らず学校へ行けないくらい学校が嫌だった。が…一方で、体に現れない限り、学校には行ったし、ただ行きたくないから休むなどということや、教室のドアの前で立ちすくんでしまうことも、夜、何故だかわからないのに、涙が出ることもなかった。みんな一緒にという言動が、私にはどうしてもなじめなかった。そして、みんな一緒なら、何でも許されてしまうような雰囲気が私には耐えられなかった。その中に入っていけない自分にふと気がつくことが多くあった。

そんな私でも、今の子どもたちの不登校は、解せないものがある。そして、「学校へ行く意味は何か」を今、大人には問い直してほしい。

私が不登校にならずに学校に通い続けられたのは、周囲の大人に的確に学校へ行く意味を教えてもらっていたからだと思う。

義務教育においては、どの子にとっても一様に学校は「行くもの」なのである。勉強は「するもの」なのである。皆出席(かいしゅっせき)できるかどうか、成績が良いか悪いか、勉強ができるかどうかはまた別の話だ。学校は、自分のために行くものなのである。だれのためでもなく、自分のために…。

社会性を身につけ、学力を養う…そして、なにより心も体も鍛えるために、学校は行くものなのである。けれど…休んでもいい。どうしても行けないときは、気にせず休めばいい。いつも張り詰めた糸はいつか擦り切れてしまう。切れるまではいかなくても、張りすぎた糸は、緩めたときに緩みすぎ、元に戻らないことがある。私の両親は、そして、周囲の大人たちは、それをはっきりと言わずとも、行動でしっかりと教えてくれていた。

だから、今の子どもたちの不登校や引きこもりの多くに、大人の考え違いがあるように思えてならない。大人たちのつじつまが合わない言動に、振り回されることに疲れきった子どもたちの心の叫びの現われなのではないかと思うのだ。

何度も言うが、私は、両親に、学校へ行くために週末は休息をとるように言われ、休息をとらなかった次の1週間は、調子が悪くてもとりあってはもらえなかった。また、学校の宿題や準備が できていることがいろいろな学校外での活動や家での遊びの条件だったし、先生には、1週間前に出された宿題を忘れた理由に、前日熱があったという言い訳は、とりあってももらえなかった。

だから、大人が率先して学校を休んでリゾートに行かせたり、休みに遊んで疲れたからと言って、学校を休ませたりしながら、「勉強しろ」、「学校へ行け」、「高校、大学へ行け」と言われる現代っ子たちの心の苦しみも…

学校は、「皆が行く」から「行くもの」なのではなく、自分のために行くものなのに、学校も、塾も…「皆が行く」から「行くもの」だと無言で圧力をかけられている子どもたちの心の闇も・・・学校嫌いだった私には、痛いほどわかる気がする。そして、それらは、大人たちのちょっとした配慮から改善されていくもののように思えてならない。

ちなみに、先日話を聞いた高校生は、私の学校嫌いと同じ匂いがした。彼女は、きっと、「自分のために」学校へ行くことも、進路を選ぶこともしっかりできているのだと思う。ただ、他の人にすんなりできることができない自分に…そして、他人が気にしないことを気にしてしまう自分に、戸惑っているのだと思った。その戸惑いは、いつか大切な自分の個性であることに気がつくと思う。それに気づいたとき、「嬉しい」と思う保証はないけれど、少なくとも、今目の前にあるできることをしっかりとこなしていけば、そんな自分を大切に思える日が必ず来ることを、また、その個性を生かせる場面が成長とともに増えることを人生の20年先輩である私が保証したいと思う。

(Y.K)
by terakoya21 | 2009-07-31 16:36 | 寺子屋の日々

英語塾の寺子屋かめいの元気を発信します


by terakoya21