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宇治だより(てらこや新聞147-149号 下西さんのコーナーより)

新支局の宇治支局長・下西さんが寄稿してくださいました。ありがとうございます!!

2017年6月 宇治だより①
「宇治橋の巻」

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4月から、京都府宇治市の住人になりました。宇治市といえば、宇治茶、そして宇治川、宇治橋、宇治茶、 平等院、萬福寺、「源氏物語」の宇治十帖の舞台などを思い出されます。私が転居した地区は宇治川の左岸に当たり、昔は丘陵地帯だっ

たのかと思われる地域です。今はすっかり住宅地化が進みましたが、100年前は茶畑が広がっていたのかもしれません(今も住宅街の一角に取り残されたように茶畑があります)。鳥になって上空からこの地区を見ると、いくつもの棚田に見えるのではないかしら……うねうねとした坂が多く、坂に交わる道路は 曲線・扇型になっております。

4月15日、宇治市生涯学習センターにて行われた 宇治市民大学に参加し、「宇治橋、宇治の歴史の架け橋」の講演を聞きました。講師は放生院の住職、黒木英雄さん。放生院は宇治橋の東岸(右岸)橋詰にあり、橋寺とも呼ばれるお寺です。この講演をきっかけに、宇治橋かいわいの昨今を調べてみました。

宇治川は、広辞苑では「琵琶湖に発し、上流を瀬田川、宇治に入って宇治川、京都市伏見区淀付近に至って木津川・桂川と合流して、淀川と称する」川とのこと、淀川中流部の通称にすぎないのです。

宇治橋が架けられたのは、実に古く、大化の改新のころ、(一説には646(大化2)年)と言われています。

7世紀の日本は、「みやこ」がまだ落ち着かない時代で、大和地方(飛鳥)あるいは近江地方(大津)にさまよっていました。8世紀に入り(710年)、奈良に平城京が造られ、日本の首都が落ち着いたのかな、という 印象です。

そして地理的にみると、宇治は大和の北限であり、宇治川は近江と大和をつなぐ大切な水運の役割を担っていたようです。(たとえば大和の都建設のための多量の材木は近江の山から切り出され宇治川によって運ばれたとか。)

そんな宇治橋の歴史を証明するものとして、「宇治橋断碑(だんぴ)」(重要文化財・日本三古筆の一つ)があります。断碑とは、「碑文が刻まれた石碑の割れたもの」の意です。宇治橋がいつ(大化2年)、だれ(道登)によって 架けられたか、その経緯(宇治川の激流に難渋していたが、架橋によって人畜が救われた云々)が漢詩  (96文字)の形で石碑に刻まれました。それが長い年月の荒波、あるいは洪水により、一度は姿を消します。が、1791(寛政3)年、放生院(ほうじょういん)の境内にて石碑の  三分の一ほどが発掘されました。鎌倉時代の資料にこの碑文の記録があったため、断片から、元の石碑が復元されて「宇治橋断碑」として現在に至っています。


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大和と近江の境、あるいは大和と京都(山城国)との境であるがゆえに、宇治橋は古代より多くの戦場になっております。特に有名なものは、『平家物語』にある「橋合戦」(1180年)と「宇治川の先陣争い」   (1184年)でしょうか。「橋合戦」の主役である源頼政の終焉の地は、「扇の芝」として、平等院の境内に残っています。頼政は以仁王を奉じましたが、平家の大軍の前に自害しました。

源義仲軍を打つべく源頼朝の家来、梶原景季と佐々木高綱とが先陣争いを演じた場所もおそらく現在の宇治橋付近でしょう。観光客が抹茶アイスをほおばりながら、そぞろ歩きをするのどかな現在の光景からは想像することができません。

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現在の橋は1996年に竣工されたものですが、橋の歴史にも、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康とビッグネームが並びます。

織田信長は、1579(天生7)年に最後の足利将軍(義昭)を宇治川合戦で倒した後、この宇治橋を大掛かりに修復しました。ところが、豊臣秀吉は1594(文禄3)年、宇治川の付け替えを含む大規模な土木工事を行い、奈良への道(大和大路)を変えてしまいました。つまり、宇治川が流れ込む巨椋池に、小倉堤を新設し大和新道(旧国道24号線)とすることで、奈良への新しいルートを作り、宇治橋を壊しました。宇治橋はこれまでの交通の要衝の役割を失ったわけです。一方、徳川家康は1599(慶長4)年、秀吉が壊した宇治橋を再び架けなおしました。

宇治橋辺りには、平安時代から、平等院鳳凰堂が地図上のランドマークのような存在で鎮座しています (1052年創建)。文学の金字塔?『源氏物語』の宇治十帖の舞台になったのも宇治橋周辺です。宇治橋が戦場となったこともありました。

現代の読み物でも、宇治橋周辺が舞台となっているものがあります。武田綾乃著『響け!ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部へようこそ』(宝島文庫)は、アニメ「響け!ユーフォニアム」の原作で、アニメに描かれた風景が宇治の街を模しているので、アニメの「聖地」として若者にも人気の場所になっています。宇治市商工観光課によって「『響け!ユーフォニアム』宇治探訪マップ」が作成されています。

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アニメに登場する吹奏楽部の高校生たちが通学で使う電車が、京阪電鉄です。宇治川右岸に沿って走る路線の終点、京阪宇治駅の近くに「莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子(のみこ)の墓」があります。厳重に囲われた古墳のようです。

4月中旬に訪れたとき、こんもりとした森は、野鳥の住処のようで、ウグイスが甲高くさえずり、ツバメがせわしなく飛び交い、サギが悠然と飛び、あたかも鳥たちが「墓守」のよう。彼は応神天皇の皇子であり、皇太子になったものの、次期天皇は弟の仁徳天皇(大鷦鷯(おおさざきの)皇子(みこ))に譲ったことになっています。昔々のお話ですが(5世紀)。いえいえ、仁徳天皇は幼名の「鷦鷯」はミソサザイであり、陵墓の百舌鳥(もず)(みみ)原中(はらなかの)(みささぎ)の「百舌鳥」がモズと鳥つながりであるとは、いまも二人のバトルは続いている?、などと妄想してしまいました。

この古墳と現在の宇治川堤とに挟まれた場所に、「宇治川太閤堤跡」があります。2007年に発掘・発見され、国史跡に指定されています。秀吉の河川改修を裏付ける遺構として、宇治市はこの一帯を「宇治川太閤堤跡歴史公園」として整備する計画を立て、オープン時期を2019年としていました。しかし、市民の理解が得られす、事業計画の見直しが求められていると地元紙が報じていました。

歴史の重みと現実の切実さ、観光と日常を、どのような兼ね合いで平衡を保つかは、古都京都であっても難問題なのです。



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by terakoya21 | 2017-10-16 08:30 | 新聞147-149号

Bonjour! (てらこや新聞147-149号 谷のコーナーより)


Seasonal Sessions

寺子屋では、季節講習のほとんどが普段の授業では補いきれないところや時間をかけることが難しいところの強化を目的に開講される。八月上旬を過ぎる頃、学校の夏休みと同様、夏期講習は折り返し地点を迎える。

普段とは異なる曜日の異なる時間帯に行われる授業は、担当講師や生徒の顔ぶれも異なり、正規授業とは違った雰囲気になる。学校授業の進度に気を取られないという気の持ちようも関係しているのかもしれない。

世間では、顔を合わせる回数が増えれば増えるほど相手との距離が縮まると言われている。寺子屋でも季節講習を通して講師と生徒の双方がペースを掴み、生徒同士の新たな交流が始まったりすることはよくある。おとなしいタイプだった生徒が自分からいろいろな話をするようになり、互いの名前すらあやふやだった生徒同士が楽しそうに筆記用具の貸し借りをするようになる。

振り返ってみれば、寺子屋を去った後も続くような人間関係の始まりは季節講習であることが多い。もちろん、みんながみんな、望ましい方へ進むとは限らない。それらは計画にはない副産物のようなものだ。そして、この講習の成果が結果として現れるのはもう少し先のことだが、本来の目的を見失うことなく、夏期講習を終えたいと思う。


















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by terakoya21 | 2017-10-15 08:30 | 新聞147-149号

寺子屋の日々 ~ Days in Terakoya ~ (てらこや新聞147-149号 亀井のコーナーより)

~ No one Learns as Much… ~

~ 教えることは学ぶこと ~

毎年、夏休みは忙しないのだけれど、今年の夏は格別だ。仕事量がいつもの夏の3倍くらいあるのではないかと思うほど、その上に考えさせられること満載だ。

私は、勉強が好きな学生だった。そして、私の周囲にいる人たちが、勉強は「好き」ではなくても、「学ぶこと」に前向きな人ばかりだった。

私は、勉強も含め「学ぶ」ことが好きである。

そして、目の前のある事象をじっくりと考えるのが習慣になっている。

だけど、多くの人がそうではないのかもしれないと18年足らずの期間、この仕事をしながら気づき始めている。

このところ「面倒である」というのと「わからない」が 同じだと思っている生徒に遭遇することがある。そして、大人たちは、勉強は教え方次第で「楽しく」なり、子どもたちは勉強 好きになると思っているようである。

それは、大人たちが間違いや困難から学ぶ経験が少なくて、その大切さを子どもたちに伝えられないからではないかと思う。

この仕事を始めてすぐ、大人たちが「楽しく学ぶ」、「学ぶ楽しさを教える」なんてことが、学ぶ苦しさやつらさを伝えずにできると本気で信じているようであることに衝撃を受けた。そして、このところ、その弊害を子どもたちの言動に感じることが増えている。

勉強をしない理由が

「嫌いだ」から、「面倒だ」から、「いやだった」から、または「忙しかった」から、「ほかにすることがあった」からと言って、大人に通用すると思っていること。そして、「好き」・「嫌い」で進路が決められると思っている節まであると首を傾げずにいられない―。

そりゃ、「好きこそものの上手なれ」というけれど「下手の横好き」ともいうのである(笑)。

「好きなこと」は趣味のまま置いておくほうがいいもの、そして「嫌い」でもしなければいけないことがある。そんなことを知らずに上手にできないのに、不得意なのに、「好き」だと思い込んでいる方向に進んで、失敗して立ち直れないで引きこもってしまう若者も少なくはないのだ。

子育ても、教育も、私たち大人がいなくなったあと、子どもたちが次の社会を担う人として自立するために行うもの。子どもたちの将来は、今、私たちが嫌われても言っておくこと、しておくことにかかっている―。

日に日にその思いを強くする。

そして、この夏、数学が苦手だという中学1年生君がある日夏期講習と正規授業の長丁場を終え、私に伝えてくれた言葉にやはり、子どもたちは、学びが「つらいもの」であっても、「いやなもの」であっても自ら「楽しみ」を見出し、意欲を持つことがあり、その意欲は必ず彼らに残っていくものであることを改めて教えられた。

「あぁ、疲れた。でも、先生、楽しかったよ。また来るわ。」

そして、私は改めて思う―

“No one learns as much about a subject as one who is forced to teach it.”

「人に教えることほど、勉強になることはない。」ピーター・ドラッガーの言葉だが、わが父が口を酸っぱくして言っていたTeachingis learning. (教えることは学ぶこと)と同様、本当のことだと。

Y.K



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by terakoya21 | 2017-09-26 08:30 | 新聞147-149号

まえがき (てらこや新聞147-149号より)

“No onelearns as much about a subject as one who is forced to teach it.”
教えることは学ぶこと ~


Teaching is learning. 教えることは学ぶこと―父が口を酸っぱくして私に伝えた言葉です。ピーター・ドラッガーも上のような表現で同じようなことを言っています。

子育ても教育も、親世代がいなくなっても、子どもたちが自立して生活していけるように子どもたちに伝えるべきことを伝えること。そして、その過程で子どもたちから与えられるものを感じられる大人に囲まれていたら、子どもたちは、きっと学ぶことから遠ざかろうとはしないもの。

子どもたちが勉強が嫌いなのも、勤勉でないのも周囲の大人の態度の反映です。 忘れないでいたいと思います。 Y.K


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by terakoya21 | 2017-09-25 08:30 | 新聞147-149号

あとがき (てらこや新聞145-146号より)

「てらこや新聞」145-146号の発行です。連続する合併号で申し訳ありません。そんな中、忘れず原稿を送ってくださる連載のみなさんに感謝いたします。ありがとうございます。そして、これからもどうぞよろしくお願いいたします。

先日、生徒が「私、カエルと話せるの」と言い出し、いろいろと話が盛り上がりました。

ブログにも書いたのですが、私はこのような子どもたちの話を信じています。今となっては自分でも本当かどうかがわからないけれど、自分にも幼い頃同じような体験があり、このようなお話は、子どもたちが「子ども」である証拠であると安心するお話だからです。

大人から見て、もしくは、ほかの子どもから見ても、「真実」かどうかはわからないけれど、当の本人にとっては「真実」であること―それを素直に「真実」だと信じられる心があること―それが子どもが子どもであり、純粋な心を持っているという証の 1つだと私は思うのです。

一方で、そんな子どものお話を、必要以上に一笑に付すことが、大人だけではなく、子どもたちにまで増えているように思います。「現実的」なのかもしれないけれど、「夢がない」というのか、世の中の事象を全て自分が理解できる、もしくは自分がいつも正しいかのように思っている子どもや大人が増えていることを反映しているように思えてなりません。

世の中には、私たちの想像や理解の及ばないことが多くあること、子どもたちが大人になる過程で、身をもって学んでいくことを私たちは今、忘れてはいないでしょうか。

子どもが子どもである時間は短いのです。 そして、その短い時間の充実がのちのちの彼らの人生に与える影響は大きいと私は思います。

子どもたちが、子どもである時間― その間に大人たちが彼らに伝えるべきこと、与えるべきものは多く、また貴重です。

子どもたちの可能性は無限大―だけれど、その「無限」にはだんだん条件がついていき、自分の「限界」を知るようになっていきます。「無限の可能性」を本当の意味で信じ、また同時にその「限界」についてもきちんと話をしてくれる大人が周囲にいるなら、 子どもたち自身が大人になる過程でその限界があるから頑張れることに気付き、自ら可能性を広げていけると私は信じています。

そして、私自身、そのために、今、私ができることは何なのか、いつも考える大人でありたいと願っています。

伝えたいことはたくさんあるのに、言葉が 見つからず、気付いたら、一文字も打つことのできないままPCとにらめっこする日が増えています。そんな自分の状況と反比例するように、生徒数が増え、思いが伝わっていると感じさせてくれる若者が増えています。

ただ、ただ目の前にあることに、懸命に取り組むことの大切さを若者たちに教えられる日々です。これからも、苦しみながらも言葉で綴ることも続けながら、努力をしたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。 (Y.K)



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by terakoya21 | 2017-08-15 08:30 | 新聞145-146号

Bonjour! (てらこや新聞145-146号 谷のコーナーより)

Checkingthe Schedule

寺子屋では2、3か月毎に、カレンダー式の予定表でお休みを通知すると同時に、学校や家庭の予定を教えてもらうようにお願いしている。その際、小学5年生以上の生徒には、お家の方に手伝ってもらいながらでもいいので自分自身で予定を書き込んでくるように声掛けしている。

長期休暇や行事などの情報は、授業内容や進行具合を決めるために欠かせない。そんな重要な情報だからこそ、生徒本人から伝えてもらうことが大切だと考えている。いつ、どこで、何があるかを知っているかどうか、それらと自分との関りを自覚しているかどうかが、学習への取り組み方に繋がっているように感じるからだ。

以前は、欠席の予定があればその都度知らせてもらったり、学校行事については、授業前後の 確認で済んでいた。中学生以上になると自転車で通塾の生徒が多数派だった頃は、またクラス単位での振替えや補習を組むことができた。しかし、だんだんと学校によって行事の開催時期が大幅にずれたり、習い事や家庭の都合でお休みの連絡をもらうことも増え、個別にスムーズな対応できるようにと、4年前か予定表を使い始めた。

提出される予定表には、習い事の稽古や試合の日などがびっしりと 書き込まれているものもあれば、同じ学校の同じ学年のはずなのにテスト日程が異なるものもあったりする。それはそれで、生徒同士の交流の材料になり、寺子屋の外での様子を知る手掛かりとなる。提出の仕方や書き方にふと成長を感じるときもあり、予定表の果たす役割は年々大きくなっている。






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by terakoya21 | 2017-08-14 08:30 | 新聞145-146号

Howdy? (てらこや新聞145-146号 竹川のコーナーより)

~ 気持ちの問題…? ~

以前にも書いたことがあるけれど、私は小学生の時、手芸部に所属していた。

幼稚園のPTA活動の一環で、6月下旬に手作りマルシェという行事がある予定で、そこで売る小物などを手作りするお手伝いを請け負った。

昔取った杵柄で、サクサクッと手作り品の作成が進むかと思いきや、なかなか重い腰が上がらず… とうとう6月になってしまい、作品の締め切りまであと少しとなってしまった。

「今日は少なくとも、布を裁つところまではしよう」と決め布を裁つと、それだけで「今日の作業はやりきった(作品の完成までの工程を考えると、ほんの少しの前進にしか過ぎないけれど…)」という感慨深さに浸ってしまい、しばらくその安心感(全く安心できるほど進めていないのに…)が居座って、なかなか次の工程に進めない。

昔はあんなに大好きだったのに、どうしてこんなに遅々として進まないのか…寄る年波に勝てないということか、細かい作業をするのが億劫でもあるのは否めない。

けれど、気分は盛り上がる…。この作業が終わったら(終わる見込みも立っていないのに…)次はこんなのを作ってみようかと手芸本をパラパラめくってみては、楽しい気分に浸っている(そんなことをしている暇があったら、早く作業をした方が良いのに…)。

先日、幼稚園の保護者の親睦を深める会というのがあって、筆ペン講座をしたのだが、友人が使っている書道の道具を久々に見たら、これまた小学校卒業まで続けていた習字を思い出し、「あぁ、書道も良いなぁ。筆ペンではなくて、ちゃんと墨汁を使う書道をもう一度してみたいなぁ」と思った。

けれど…よくよく考えてみると、きっとこれもまた、もう実家にはきっとない書道道具一式を揃えた時点で満足してしまいそうな気がする。

それは、レシピ本を見て「これなら作れそう」と思ってはみるものの、レシピ本を見ただけで作った気になっているのと、たいして変わりはない。

あっという間に時間は過ぎて、この原稿も遅れ遅れの提出になっている…。「しなければ」という気持ちと「(根拠の全くない)まだ大丈夫」という気持ちのせめぎ合いで、このところ勝者は常に後者である。

「あぁ、早く作業に取りかからねば…」と思うことが多くなってきた今日この頃…。とりあえず、まずは  小物作りをなんとか仕上げたい…(^_^;

(K.T.)



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by terakoya21 | 2017-08-13 08:30 | 新聞145-146号

Bonjour! (てらこや新聞145-146号 谷のコーナーより)

Being on Hold

優柔不断な私には「保留中」のものがたくさんある。「たくさん」の中には、目に見えるものも見えないものもある。客観的にみれば、そのせいでいつも同じようなことに悩んだり迷ったりしているし、本当に必要かどうか疑わしいものが鞄の中や部屋の一部を長らく占拠している。それらは、無意識に目を伏せて決心や仕分を先延ばしてきた結果なのかもしれない。

なかでも、他人が関係しているものは、即断即決からますます遠ざかりがちだ。先延ばしというと聞こえがあまりよくないが、様子を見ていたり、別の視点から考えていたり、言葉を選んでいたりする場合もある。……といえば、少しはましに聞こえるだろうか。そのせいで相手に迷惑や心配はかけまいと思う一方で、こうして言い訳をいくらでも思いつくあたりが自分でもやっかいだなと思う。

年始には「心身ともに健康で過ごす」と「身辺を整理する」を今年の目標に掲げた。ここ数年ずっと同じ目標を掲げ直し続けている気がする。いろいろと抱え込んだり引きずっているものに向き合って、目標達成も来年まで保留しないようにしたい。



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by terakoya21 | 2017-08-06 08:30 | 新聞145-146号

中国案内(てらこや新聞145-146号 吉田さんのコーナーより)

どこかのサイトで見た記事に、日本語と英語の2ヶ国語を話せる人に1度は日本語で、2度目は英語で同じ内容の質問をしてその答えに差が出るのかどうかを実験し、話す言語によって考え方が変わるのかどうかを検証するという様な内容のものがあった。

結果は、日本語と英語では質問に対する答えは異なっていて、話す言語によって考え方にも影響が出ている可能性があるということになった。

数年前に知り合った中国語のプロの通訳の方が自分の性格を変えたくて中国語を勉強しはじめたと言っていたのを思い出した。

私の場合は中国語を学んで性格を変えたいとまでは思った覚えはないが、今の自分ではない中国語の話せる自分になりたかったのは確かだ。語学を学ぶことによって新しい知識や文化を学べるのはもちろんのこと、新しい言語を学び話すことで新しい自分にも出会えるのかもしれない。



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by terakoya21 | 2017-07-31 08:30 | 新聞145-146号

旅日記(てらこや新聞145-146号 海住さんのコーナーより)

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ベニス・ミラノ(イタリア)からアムステルダム(オランダ)へ

1月の阪神大震災、3月の地下鉄サリン事件が続き、日本の「安定」をぐらつかせる契機となった   1995年も晩秋を迎えている。秋の入り口のほうではチェコのユースのロビーのテレビで、ユニフォームの袖に「がんばろうkobe」のロゴを入れたイチローらオリックスの戦士たちがリーグ優勝に歓喜する姿を見た。頑張れば復活することができる。まだまだ日本は大丈夫であるとだれもが信じていた。

当時、独身で30代半ばだったわたしは、かねてよりの海外への夢を実現させるのはこの時期しかないと、読売新聞記者の「安定」と「夢」を等価交換できる余裕を保つことができていた。30歳にして夏冬それぞれに90万円ずつあったボーナスを米ドル預金にし、世界どこでもキャッシングできるようにして多額現金を持ち歩かずに、自由な旅ができた。この旅を終えたら、松阪に帰ると決め、成田を   出て3か月がたとうとしていた。

11月になっても豊熟の秋に彩られたイタリアだったが、さすがに11月も下旬に入れば、ここベニスのサン・マルコ広場の午後のたっぷりな日差しも長い影を感じるようになった。が、キラキラと日差しを照らす海面高い海に面した広場の陽だまりは心地よく、広場とサン・マルコ寺院との間の回廊の日陰ではホームレスが一人、ベンチにゆったりと腰かけたまま快適な午睡の中にあった。ホームレスという暗さは感じず、その様子が、あまりに絵になる美しさを感じた。

大変失礼ながら、本人に断りもなく、こっそりとカメラのシャッターを切り続けた。困ったのは、わたしを真似して写真を撮る観光客の人だかりが出来たことだった。しかし、わたしが狙った構図は、寺院の回廊のシルエットと陽だまりとの対比、そして、その陽だまりの恵みを満喫する睡眠だった。世界的に見れば、ジャーナリストの多くが不安定なフリーランスという中にあって、たいへん恵まれた「スタッフ・ライター」という記者の地位を捨てこの旅に出た私自身がその後出くわすであろう未知の怖さを描いたわけではなかったが、それを感じた一枚だったのかもしれない。百聞は一見にしかず、ここに、その写真をご披露させていただくことにする。

わたしのベニスの旅は、鉄道の駅とサン・マルコ広場を歩いて往復したぐらいで、この一枚の写真がすべてであった気がする。無銭飲食のホームレスのおじさんにお土産のピザさえコートのポケットにねじ込んであげた屋台のおやじの底抜けの人情を見た貧しい南のナポリの下町から、裕福な北イタリアの都会ミラノに近づきつつある。それに伴って旅は面白くなくなる。ベニスのあとはお昼にミラノに着くが、ほんの少し街を歩いただけでいいところも見つける努力もせずに、ベニスの2倍近い値段のする宿泊所に引き返し、翌朝6時には起きて、イタリアを出国することにした。

寒いところは嫌だから、鉄道で南仏を経て、スペインに向かおうと、フランスのニース行きの国際列車に乗った。もちろん、高級リゾートのニースに宿泊する“用意”は持っていないので車窓の風景だけパスをし、漁師の名物料理ブイヤーベースを当てにして港町マルセイユで下車しようと考えていた。  ところが、なんとも運の悪いことにフランス国内の鉄道は突如全面ストに入ってしまった。「鉄道のストぐらいすぐに終わるさ」と、かつての日本の国鉄のストぐらいに考えていた自分が甘かった。ストの収束まで1か月ぐらいかかるらしい。さすがは革命を起こし、一時はプロレタリアート独裁の政権を樹立したフランスだ。国境に近いジェノバで折り返し、スイスを経てベルギーのブリュッセルに向かうことにした。

しかし、フランスのストの影響で国際列車の車両のやりくりが大変なのだろう。乗り換えに次ぐ乗り換えと、動いているのか止まっているのかさえわからないようなノロノロ運転と行き先変更のアナウンスの連続。そのたびに別の列車に乗り換える。ヨーロッパの鉄道は大混乱だった。

こんなときも世界のバックパッカーたちは、フランス国内を格安バスで通り抜けるという話を聞いたが、わたしはこの年の年末まで有効のヨーロッパの鉄道乗り放題チケットである「ユーレール・パス」を持参しているのでゆっくりと身を委ねることにする。

どうやらスイスに向かっているようだ。車窓は雪一色に覆われた山々で、谷も深い。客車は窓が大きく、おしゃれなものに替っていた。夏の観光シーズンには大勢のリゾート客の歓声が聞かれることだろう。乗り換えを待つ間、一度はスイスの空気を吸っておきたいと外に出たが、雪ばかりでその風景の良さなどわからない。しかも、物価がべらぼうに高い。イタリアの通貨リラの桁がいくつもゼロが削り取られていく感触だ。スイスのチョコレート一箱が、イタリアの宿一泊分のような気がして、すぐにこの国は発つことにした。よって、わたしのスイス滞在はほんの20分足らずとなった。

ミラノを午前7時10分発のニース行きの列車に乗り、一応の目的地に着いたのは翌朝9時40分だった。26時間半も列車に乗っていたことになる。この旅でヨーロッパに着いたとき、記念すべき第一歩を記したアムステルダムに到着した。疲れているときは知らない街であくせくと宿を探すより、頭に街の輪郭が入っているところのほうがよい。東京駅の丸の内口とデザインが似たアムステルダム中央駅を背に、小さな懐かしいホテルに向かって歩いた。さっぱりとした空気感漂うアムステルダムの街は疲れた身に心地よい。

(1995年11月23日~27日)


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by terakoya21 | 2017-07-30 08:30 | 新聞145-146号

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