今月も発行にこぎつけた「てらこや新聞」ですが、私はBall Parkの原稿を今回は書けませんでした。「トロント」の特集で、私が訪れたことのあるNBA、MLBのフランチャイズが存在する都市の特集が終わってしまったために、ピンとくる題材を探せぬまま時間が過ぎてしまったためです。すみません。今年中には、題材を考え再開したいと思っています。と、私がさぼっている間も、連載の皆さんは原稿をしっかり送って下さいました。ありがとうございます。そして、読者の方々から届くメッセージは、私たちの支えです。ありがとうございます。皆さん、これからもどうぞよろしくお願いします。
さて、一昨年から3年連続で5月は、私の大切な人の訃報が届く月になってしまいました。一昨年は、最後の伯父が、昨年は寺子屋の校舎を 建てて下さった会社の社長さんが、そして、今年、私が松阪で最も尊敬する方の1人が79歳で5月5日に亡くなられました。
私はその方と11年前、アメリカから帰国したばかりの頃働いていた県議会議員事務所で出会いました。松阪市の元助役で、当時は後援会の会長さんでしたが、「好絵ちゃん、好絵ちゃん」と気さくに話しかけ、いろいろと社会や人生についての話を聞かせて下さいました。また、大阪出身で、生粋の阪神ファン…私も阪神ファンなので、一緒に甲子園球場に連れて行っていただいたこともあります。40歳の年の差を感じさせないほど、様々な話をし、私たちを魅了する素敵な、ときにお茶目な方でした。
5月8日土曜日、仕事を少し抜け、お通夜に参列し、人格者だった会長さんの人柄を改めて思い知りました。お通夜に参列する方々の列が、いつまで経っても短くならず、砂糖に群がる蟻のように、次から次へと葬儀会場に人が集まってくるのです。そして、皆、口々に、「○○さんの人柄が知れるな」「本当にいい人やったもんな、○○さんは」とおっしゃっていました。それ以来、私は…このような方に出会い、彼から教わったものをどのように後に伝えていけばいいのだろうか…と考えさせられています。
そのお通夜の前日、松阪市の市議さんとお話をする機会がありました。そのとき既に私たちの元には訃報が届いていたので、「今の松阪市について、彼はなんと思っていたのだろうか」とその市議さんとも話をしたのですが、ここ数年、お体の調子が良くないとお聞きしていて、何度かお会いしたいと思いながら、なかなかお宅を訪問しなかったことが今となっては悔やまれます。
一方、この訃報と共に、私には今、しなければならないこと、したいことの輪郭が以前より鮮やかになり、再生してきたように思います。「アイディアいっぱいの好絵ちゃん、頑張って!」と私の大好きな字で書かれた年賀状を私は、真っ先に思い出しました。私の活躍を聞きつけて下さった次の年の年賀状にも激励の言葉が並んでいました。男性上位の田舎の政治家の事務所で、私の実力を信じ、励まし続けて下さったほとんど唯一の方でした。
そして、今の我が故郷、我が母国について思うのです。会長さんと私の父は、1歳違いの戦中派です。日本の今の豊かさを築きあげて来た人々です。この人々に感謝し、彼らの思いを汲もうと、この国のどれだけの人々がしているのかと…ときどきやるせなくなることが あります。戦争という暗い時代が、彼らにいろいろなものを強引に伝えることを憚らせた大きな理由だと私は思います。それでも、彼らはいろいろな方法で、私たちに語りかけて下さっています。それを、多くの人々が聞く余裕を持たないほど豊かになりすぎたことが、私はこの国の不幸の始まりだと感じます。
古いことや時代遅れであることも、しがらみも決して悪いことばかりではなく、そこから学び、工夫し、人間は文化を作り出してきたはずなのに…人生の先輩方の英知や、自分の力の及ばないところに存在するものや人に思いを馳せ、古きを学ぶ、謙虚な姿勢がだんだんと人々の姿から消えていく、そんな風に感じ、危機感を覚えます。そんな中、会長さんの葬儀に集まった老若男女の姿に、救われた気分にもなりました。
そして、まだまだ若輩者の私が取り組まなければならないことが目の前に横たわっていることを、改めて知らされたように思います。あちらで、会長さんに再会したとき叱られないように、しっかりアイディアを出し、取り組んでいきたいと思います。
(Y.K)