榊原文書と榊原温泉お正月の初詣を兼ねて、「射山(いやま)神社」(津市榊原町)に行ってきました。帰省先の松阪の実家から、車で40分ほどの榊原温泉郷の中に、この神社はあります。1月5日は、とても寒い日で、乾いた風に吹かれ、気温以上に寒さを感じながら参拝しました。雪国の湿った空気になれた身には、乾燥した寒風は、肌に刺さります。

榊原温泉郷に向かっていくと、北西方面に見える布引山地には風車が林立していました。背後に2000m級の山がある上越市の風景と異なり、布引山地は700mから800mの山々が10㎞くらい衝立のように連なっています。このあたり(青山高原)は風の道があるとかで、二つの風車施設(久居榊原風力発電施設・青山高原ウインドファーム)があり、設置されている風車は20基を越え、新しい風景を作っています。
「射山神社」は式内社(平安時代の延喜式(えんぎしき)に記載された神社)ですが、そのわりにこぢんまりしていました。神社の「縁起」によると、温泉大明神として射山(貝石山)をご神体とし山中に社がありましたが、天正16(1588)年に現在の地に移されたとのこと。不思議なことに、新しい神社の近くにも温泉が出るようになったとか。境内の看板には、次のようなことが書かれていました。
榊原温泉の湧出については太古であったことだけで、だれにもわからないでしょう。ただ1500年前には神宮の湯垢離(ゆごり)に使われ、伊勢の地に入ったところで身を清めて神宮に向かわれていたようです。奈良の都から東に向かうと伊賀に入り、現在 風車が立ち並ぶ笠取山を越えたところが伊勢で、榊原のいちばん西の集落はカリキド(仮木戸=入り口)といいます。神宮の「湯垢離」を榊原温泉「ななくりの湯」を使ったことで都人たちにその名が知れわたり、「ななくり」を題材にした和歌が 数多く詠われ、清少納言『枕草子』では、「湯はななくりの湯、有馬の湯、玉造の湯」と讃えています。
一志なる ななくりの湯も 君が為 恋しやまずと 聞けばものうし(源経信)榊原温泉が恋の病をいやす「恋のパワースポット」ということで、境内にはハート型の絵馬がたくさん飾られていました。
なぜこの神社を訪ねたか、それは榊原藩の藩祖「榊原康政」の父祖の地であるからです。
平成22年7月から「榊原文書」藩政日記の解読ボランティアを始めて、1年半ほど経ちました。1グループ4人で、『くずし字辞典』を繰りながら、以前の記事を振り返りながら、またインターネットで江戸時代の事象を調べながら、翻刻(活字化)を進めています。初心者の私はまだまだ、たどたどしい読みですが、おもしろさが募ってきました。こんな状態を「はまる」というのでしょうか。公的な日記ではありますが、江戸時代の年中行事や藩士の生活(当時の上越の様子も)の一部がわかります。殿様同士の交友関係や殿様と家来の関係が伺えます。将軍様と殿様たちの関わり合い……など、生の資料は、飾り気のない内容であっても、興味深いことが大いにあります。
昨年から、宝暦(ほうれき)2(1752)年の『高田御用留(たかだごようどめ)』(読了)と『江戸日記』(10月まで読了)を読んでいます。「御用留」とは、殿様が不在の場所での藩の記録のことです。宝暦2年は、殿様は江戸にいて、高田は留守宅でした。

宝暦2年は、9代将軍徳川家(いえ)重(しげ)の時代(吉宗(よしむね)は前年に亡くなっている)、高田藩は9代藩主榊原政(まさ)永(なが)(当時16歳)が治めていました。
藩主政永は、昨年来、体調不良により江戸城への登城を控えておりましたが、『江戸日記』に よると、5月7日に「
今朝明(あ)け7(ななつ)時(どき)御出駕、御病気御全快遊ばされ、御出勤……」とあり、全快し登城しています。
『高田御用留』では、5月11日に項に「
殿様御病気御快然、去ル7日被遊(あそばされ) 御出勤(ごしゅっきん)之旨……」と書かれています。江戸から高田への連絡は5日ほどかかっていることになります。400㎞から500㎞の道のりを。
ところが、8月末殿様(政永)の弟(豊三郎)が、病気で亡くなりました。『高田御用留』9月2日の項に「
豊三郎様御儀、御病気御養生不被(かなわ)為(させ)叶(られず)、去月27日被遊(あさばされ)御遠行旨、今明け7時申来(もうしきたり)、……新島伊右衛門儀、道中4日切りにて……到着……」とあります。
『江戸日記』では8月27日の項に
「……豊三郎様御容体御指重(おさしおも)被成(なられ)候付(そうろうにつき)……」とあり、居合わせた役人や近習の人たちは、御大中(おんたいちゅう)老(ろう)詰所(つめしょ)に様子をうかがいに来ます。そして、8月28日に豊三郎様死去の記事とともに、幕府に喪に服する旨の届けを出しています。
江戸~高田の往来は通常はどのくらいかかるのか、高田の町人が藩士に 伴われて江戸へ向かう例では、『高田御用留』の8月25日に高田を出発したとあり、『江戸日記』9月4日に到着と書かれています。9日から10日が、普通の旅程だったのでしょうか。
『榊原家史料目録・研究』(上越市立博物館)の「榊原家略系図」によると、藩主政永の兄弟は7名ですが、4名も早世しています。その中には、政永 (幼名・富次郎)の1歳年上の兄(幼名・小平太・政(まさ)純(すみ))も含まれます。たった7歳で九代藩主になった政永は、10歳で急死してしまいます。跡継ぎのないまま当主が死亡すると、「お家取り潰し」になることが多いのですが、1歳違いの弟(富次郎)を身代わりに据えることに成功(もちろん幕府も黙認)、藩お取り潰しの危機を回避したそうです。
『高田御用留』『江戸日記』は、藩の公式記録でありますが、また、榊原家の人々の記録でもあります。殿様の病気が治ったとか、お姫様の縁組みが調ったとか、殿様の子供が生まれたとか。そして、その内容に一喜一憂させられています。
榊原温泉郷は、伊勢神宮の祭祀に使われる上質の「榊枝」がとれたことから榊原の地名になり、またこの一帯に住んだ豪族・仁木氏が榊原氏を名乗るようになったとのことです。