カテゴリ:旅日記( 56 )

旅日記 (てらこや新聞138-139号 海住さんのコーナーより)

第53回
アッシジ(イタリア・ペルージャ近郊)

街に着いてからそのことに気づいた。

中学生のころに観た名作映画「ブラザー・サンシスター・ムーン」(1972年公開)の主人公・聖フランチェスコが暮らした町だ。

イタリア中部ペルージャ近郊のアッシジ。駅に降りると、5キロぐらい向こうに見える丘が、その町だ。駅からバスに乗って、坂をぐるぐる回って、上って、上って。丘のてっぺんのところで下車すると、世界遺産のフランチェスコの教会があった。ただ悔やむが、そこには入らず、わたしはどこから写真を撮ればこの町を一番うまく表現できるかと思い、丘の上の町をさらに上から望むオリーブ畑に入ってカメラに夢中だった。

だが、ここまで来たなら、この教会に入っておくべきだったろう。

後悔の念を強くしたのは、この旅から2年後の1997年にイタリア中部を大地震が襲い、この教会も大きな被害を受けたというニュースを聞いたときだ。残念なことにガイドのない旅の間は、自分がどこに来ていて、この町が歴史的にどんなに重要な歩みをなしていて、目の前に見える教会や城がどんなに有名なところかも知らないうちに通り過ぎていることがざらにあった。すべての旅を終えて日本に帰り、後悔しても遅い。

それはそれとしても、アッシジの町はとても良いところだった。中世に、平坦地の真っただ中にここだけこんもりとした丘陵地に、教会を中心とした都市を築いた。高いところからたっぷりと眺望を楽しみ、オリーブ畑を歩いて写真を撮りまくり、石造りの家々が連なる町をらせん状に歩いて降りた。あとはまっすぐに駅まで延びる田舎道を5キロほど歩いて帰った。途中でオリーブを収穫している真っ最中の農家の一家に頼み、収穫の様子を写真に撮らせてもらった。

村上春樹であれば、ワインの農家を巡り、クルマのトランクにいっぱいワインの ボトルを詰め込んでくることだろう。わたしはカメラマンベストにカメラバッグ、愛用のキャノンを首に掛けて歩く、歩く。

夕方4時18分の列車に乗る。薄暗い車内より外のほうが明るい。車内はガラガラだったが、日本女性が一人で乗っていた。イタリア在住の方で、日本人観光客をガイドした帰りだということだった。「夏だと、このあたり、ヒマワリがとてもきれい  なんですよ」。建物がごちゃごちゃしない郊外の車窓風景はとてもなごむ。

乗客はわたしたち以外は、アメリカ人のグループだ。「あんたたちはアメリカ人?」と確認はしていないが、絶対にアメリカ人だ。姿を見なくても「音」でわかる。

同じ車両の随分離れたところから聞こえてくるしゃべり声と、その英語。ヨーロッパにはいろいろな言語があるが、イギリス人の英語を含め、ヨーロッパの響きがある。どことはなしに音がこんもりとして柔らかったりシックな響きがする。どれもヨーロッパ言語としてまわりに溶け込んでいるのだが、どうもアメリカ人の英語だけはきわだって聞こえてくる。声が大きいように思うし、音がカラカラと弾んでいる。ヨーロッパの音になじんでいないのだ。たぶん、アメリカ人はそのことに気づいていないだろう。

私はだんだん、ヨーロッパ人たちの、何語であろうが、あの「モゾモゾ」という感じに響いてくる言葉が意味もわからず好きになりかけていた。イギリス人の英語はヨーロッパ言語に聞こえるのだが、アメリカ人の英語はヨーロッパとは 異質なもののように思えた。言語も、着る物、食べ物の違いと同様、その土地、土地の風土なんだと思う。

いつのまにか、車内は、目の前に座っているガイドの女性の存在だけが確認できるくらいの明るさだった。もう夏じゃないのに、イタリアの列車はまだ夏時間なのかな。日はどっぷりと落ちている。
女性は比較的すぐに下車し、あとはアメリカ人のグループだけだった。声だけがやたらと響くワ、うるせい!

(1995年11月20日)
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by terakoya21 | 2016-12-04 08:30 | 旅日記

旅日記 (てらこや新聞137号 海住さんのコーナーより)

第52回
フィレンツェ(イタリア)

1995年8月31日付で退社した新聞社の社員手帳「’95読売手帳」は、退社翌日の9月1日に成田を飛び立ったあともメモ用に使い続けていた。11月19日(日曜日)のページには、「午前8時ナポリ発、午前10時5分ローマ経由 午前11時58分フィレンツェ着」と書いている。

イタリア南部の中心都市ナポリから、近世にルネサンス文化が花開いたフィレンツェまでは遠くないと記憶しているのに、実際は4時間近くも、特急列車に乗っていたわけだが、2時間おきという等間隔で主要都市があるのもバランスがよい。それに伴って都市のカラーも違ってくる。

西ヨーロッパならどこへでも一等車乗り放題の外国人専用の「ユーレール・パス」(3か月間有効)を買ってあるので、インターシティと呼ばれる超快適な特急を使っている。イタリアは、南から北に行くにつれ、お金持ちが増えてくるようだ。

ローマから北へ向かう車両に乗っている人は、服装や鞄、装身具などに随分お金がかかっているように見えた。特に中年以上のビジネスマン男性の、鮮明な青のシャツやネクタイの鮮やかな色彩が印象的だった。1995年の秋、ドイツやオーストリア、旧東欧で見てきたヨーロッパの人々の服装はダークな色合いが多かった中、イタリア人たちのファッ ションの色使いは大胆だった。しかし、11月も後半だというのに、暖かい太陽が降り注ぐこの国では人々にうまくマッチしている。

10月後半から11月初め、ポーランドやドイツでは身も凍るほどの寒さだったのに、ほんとうに快適で、秋という季節の彩りを感じることができた。イタリアで買った英字新聞「ヘラルド・トリビューン」紙には氷柱が垂れたウィーンの写真が載っていた。

これだけ気候が違えば、地中海性民族のイタリア人たちと、北のゲルマンの人々とではキャラが異なるのも当然だ。

犬が違う。ドイツやオーストリアではしつけの行き届いた大型犬が、まちなかを紐にもつながれず飼い主の前をおとなしく歩き、そのまま電車にも乗っている。片や、イタリアのローマやナポリあたりではバイクの排気音がビーンと石畳に響き排ガスのにおいが充満する。野良犬や野良のネコがひょこり顔を出す。無銭飲食の男にピザをふるまったナポリのピザ屋のあるじ、わたしにフォークとスプーンの使い方を教えるために厨房から飛び出してきた店のご主人。人の気質というものの差にあらわれる。

それにしても、フィレンツェ。このわたしに何を語る必要があるだろうか。

ヨーロッパにルネッサンスをもたらした芸術の街、そして、豊かな建築美、建造美。町中が美術館のようだ。町のシンボルでもある、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(ドゥオーモ)の屋根裏の通路を歩く見学コースはやはり体験したくなる。ドゥオーモの高いところから市街地を眺めても赤い瓦の続く街と、遠くに見える丘陵。気持ち良いよオ。秋、秋、最高の秋という季節を堪能している。

しかも、ちょっとした出逢いもあったというか・・・。大聖堂(ドゥオーモ)の屋根裏の通路で写真を撮っていた日本人の女性に声を掛けた。いっしょに観光名所を回り、少し、気分が開放感につつまれたせいか、まちの広場で売っている古着を買う贅沢をしてしまった。肩のところに旧・西ドイツの国旗のマークが小さくあしらわれた、厚手のふんわりと綿の入ったコットンの色あせたミリタリー・ジャケット。日本では決して買うことのないタイプのものであったが、羽織ってみた。あせたグリーンが似合った気がした。

しかし、その後、ベネチアのユースホステルの大部屋で、同じ部屋にいた白人女性が「なぜ、あの人はドイツ軍のジャケットを着ているか」と話しているのが気になった。こっそりドイツの国旗の部分を破ったのだが、オランダに入ったときはジャケットそのものをゴミ箱に捨てることにした。

第二次大戦中のヨーロッパ戦線でドイツが犯した戦争というものの残虐性を思い、こんなジャケットは着ていられないと思ったからだ。イギリス人にそのことを話すと、「ドイツの国旗は、戦後制定されたものだから関係ないよ。捨てることはなかったんじゃない?」と、笑っていた。

確かに、ミリタリーを採り入れたファッションは世の中に数多い。別に気にするほどのことではなかったかもしれない。持参していた黄色のパーカーを着ることにした。その後、アメリカに行ってわかったことだが、東海岸にはヨーロッパ系の色が多いが、西海岸には黄色や赤、青といった原色系が目立った。もっとも、西海岸は暑いので冬でもパーカーなど要らなかったが・・・。
(1995年11月19日)
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by terakoya21 | 2016-09-25 08:30 | 旅日記

旅日記 (てらこや新聞136号 海住さんのコーナーより)

51

ポンペイ(イタリア)

ヨーロッパをめぐるのに4か月間と、たっぷりと時間のある旅だった。それがかえって、あっちに行こうか、あそこはやめておこうかなどと現地であれこれ取捨選択をすることにけっこうムダなエネルギーと時間を使ってしまうことがあった。


羅針盤のない一人旅で知らない国に入るときは、まずはその国の首都から入り、ちょっとはその国の“仕組み”に慣れておいてから興味のある地方に出向く。この旅のイタリアでは、ドイツのケルンから夜行でローマに入り、その南のナポリへと向かった。


最近、イタリアからエーゲ海クルーズを楽しむツアーに参加した70代の夫婦は、「旅行会社の人は、『ナポリでは街に出ません』と言うんですよ」と話していた。団体旅行のお客さんを連れて歩くには、ナポリはひったくりや強奪などの被害に遭う危険が大きいということなのだろうか。わたしが旅した20年前と今とでナポリの治安に変化があったのかどうかは知らないが、大手代理店の団体旅行にはナポリはあまりオススメできる都市ではないということだ。その代わり、ナポリを経由しないと行くことのできない南イタリアの魅力ある観光名所は数多い。位置感覚的には、半島の先っちょの小さな町や島々にいくためのゲートウエイのような都市がナポリだ。伊勢志摩に当てはめれば、志摩半島に対する鳥羽みたいな位置にあるのかもしれない。食べるという享楽においてもパスタやピザの発祥はナポリで、ほんまもののある路地裏をうろつくにはある程度の危険は覚悟しないといけないみたいなヤバさがある街なのかもしれないな、ナポリというところは。


ヨーロッパの旧市街の石畳の道を、真っ赤なボディに「Look JTB」と書かれたエアコンの効いた大型観光バスが走り抜ける。日本人団体客専用バスが、重い荷物を背中に担いで黙々と歩くわたしのヨコでエンジン音を吹かす。そうしたツアーの行き先は、豪華クルーズでカプリ島の「青の洞窟」を訪ね、海の幸を堪能するリゾートだろう。


観光バスでぐるりと行ってしまうような旅の場合はナポリがどんなであろうと無関係に通り過ぎればよい。けれど、わたしの場合、この先、宿が取れるのかどうかわからない小さな町に行きたいときは、いったんは最寄りの玄関都市にステイし、そこで土地の勘のようなものを身につけ、ガイドブックではわからない現地情報をゲットしてローカル線やバスルートのダイヤを知って、日帰りで済むのか、その先で宿をとったほうが有利なのかどうかを判断する。ヨーロッパでも少しへき地のようなところに来れば、この先「どうにかなるサ」ではなく、慎重に情報を確認する。とはいえ、多くは適当な自分の勘に任せることが多く、それなりにドジを踏んでしまい、半日棒に振ることもある。しかし、まだ30代半ばだったそのころはすべてを経験として蓄積できた。駅を乗り過ごし、一つ向こうの駅から歩いて戻るような失敗をしてもそれを取り返せるエネルギーがあった。


数ある失敗の一つにすぎないが、ポンペイに着いたときはもう午後4時を過ぎていた。火山の噴火で積もった火山灰に町がすっぽりと埋もれた紀元79年のローマ人の都市の遺跡は、せっかくここまで来たのに日没の1時間前には閉鎖になるということで、入るのをあきらめてしまった。遺跡の外から発掘された街路をちらっと見たが、のちにポンペイ遺跡の価値を知るにつけ、悔やむことが多い。埋もれたときのままに見つかった遺跡からは当時の人々の暮らしぶりが生き生きとしのばれるもので、ワインのある居間の食卓や人々の交流の場である居酒屋、街区や道路がある。いったい文明って何なんだ? 日本ではまだ卑弥呼が生まれるよりも前の時代に。


1時間やそこらあれば見ることができるのではないかという錯覚はわたしたちが知っている博物館などで勝手に身につけてしまった勘違い。丸一日でもかけてでも見る気概が必要なのかもしれない。いま思うのは、翌朝早くナポリを出て、たっぷり1日かけてポンペイという街を見て、古代を感じれば良かった。ただ、実際には遺跡の中に入っていないからどんなふうだったかは知らない。肖像画やワインの壺や食器など出土品はナポリの美術館に収蔵されているそうだ。


遺跡は見ることができなかったが、ローカル列車の車窓からぼんやりと眺めた南イタリアの海岸線の平和な風景を楽しむことはできた。松阪にあったイタリア料理店「カピタノ」さんは、このポンペイよりさらに半島を進んだところにある宿泊付きのレストラン「カピタノ」で修業をされて松阪で同じ名の店を出し、ピザを焼く窯もナポリから取り寄せたものだと聞いた。あとでふり返ると、高速鉄道で主要都市を中心にめぐるヨーロッパではなく、ローカル列車と路線バスで南イタリアの半島めぐりや、イタリア中部のトスカーナ地方の村々をもっとしておきたかった。ほんの断片に触れただけの旅だった。


そんな後悔は、その土地を去ってからわいてくる。そのせいもあって、スペイン最南端のアンダルシア地方では小さな都市と小さな都市をつなぐバスで田舎を回ることができたのは良い思い出だ。

(1995年11月18日)



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by terakoya21 | 2016-08-13 08:30 | 旅日記

旅日記 (てらこや新聞135号 海住さんのコーナーより)

第50回
ナポリ(2)(イタリア)
ナポリ人有情

街の中心に近い場所で、開けっぴろげの大衆食堂を見つけた。まだ時間が早かったせいか、がらんと広い店内はガラガラ。長方形の加工板に鉄の脚の付いたテーブルがいくつか置いてある。ナポリタンというわけではないが、スパゲティを注文した。

食べ始めると、厨房から、右手にフォーク、左手にスプーンを持った親父さんがわたしのほうにすっ飛んできた。

「いいか、こうやって食べるんだ」。

スパゲティの食べ方を教えに来てくれたのだ。

わたしは、もともとフォークで麺をくるくると巻くのが苦手。20代のころはイタリア料理の店には行ったりしなかった。ましてやデートでそのような店に行くことも避けてきた。けれど30代になると、あんまりスタイルのことには気に掛けず、おいしいものは食べたいという気持ちを優先するようにはなっていた。それに、ここは、ミラノやフィレンツェの気取った店ではなく、ナポリの大衆食堂だと油断していた。

ところがなんとこの街には下町の親父さんがいた。

日本人が外国人に箸の使い方を教えるように、左手のスプーンの上で右手のフォークを使ってくるくると麺を巻くよう手ほどきをしてくれた。これを本場仕込みというのかもしれない。以来、スパゲティを食べ、麺が巻きにくいとき、あの親父のワンポイント・レッスンを思い出す。

屋根はテントのような店でピザを食べたときのことだ。

客は、先に、ダブダブのトレンチコートを来たボサボサ頭のおじさんがひとり。若い店員とのやりとりがどうもヘンだ。店員は怒っている。どうやら、無銭飲食らしい。店員の兄ちゃんは、「ポリツァイ」(警察)、「ポリツァイ」と言い、店の電話のダイヤルを回した。おじさんはすっかり観念し、うなだれている。

わたしが注文したピザが焼き上がると、店の親父が出てきて、静かな口調で説教を始めた。警察が来るまでの時間稼ぎと思われた。

店の親父は、頃合いを見て、「さあ、立って。行けよ」。やはり静かに促す。座ったまま、親父を見上げるダブダブトレンチのオジサン。立ち上がったオジサンの後ろには、兄ちゃん店員が立っている。兄ちゃんは、トレンチコートの左右両方のポケットに紙袋に包んだ熱々のピザを2つねじ込んだ。驚いて振り返るオジサンにはニッコリ微笑んでいる兄ちゃんが目に映った。

警察に通報したフリをして、実は電話などしていなかったのだ。

一つ離れたテーブルで一部始終を見ていて心温まった。いいものを見せてもらった。

たっぷりとナポリを堪能した。

さて、あすは、紀元79年のヴェスヴィオ火山の噴火によって発生した火砕流で一瞬にして埋もれた都市ポンペイ遺跡へ出掛けるとしよう。ナポリからローカル列車で海岸線を走れば1時間もかからず到着するはずだ。

(1995年11月17〜18日)

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by terakoya21 | 2016-07-15 08:05 | 旅日記

旅日記 (てらこや新聞134号 海住さんのコーナーより)

第49回
ナポリ(イタリア)①

「ナポリを見てから死ね」。いやだ。こんなところで死にたくはない。

「ナポリを見てから死ね」。こんな“格言”があるそうだ。ナポリには人生の享楽がぎっしりと詰まっている。そんなナポリを知らずに終える一生なんてあまりにつまらないでないかという意味のようだ。そんなナポリに出掛けようと、ローマから南へと向かう特急列車に乗り込んだ。

しかし、ガイドブックを読むと、おいしい話ばかりではなさそうだ。スリ、ひったくりの手合いには特にご用心。いかにも裕福そうな北イタリアと違い、イタリア中央に位置するローマよりも南にあるナポリは貧しい。ローマでは被害にこそ遭わなかったが、ニセ警察官に狙われた。もっと用心するに越したことはない。

車内でパスポートや航空券などの貴重品はカメラマンベストの内側にしまい、しっかりとチャック。財布には小銭と、万一のときに差し出す1米ドル紙幣だけ残し、あとは靴底のスポンジの下に隠し、鞄のチャックには南京錠で鍵をした。わたしの所持品の中で最も高価で人目を引く、キャノンもひとまずカメラバッグごと、「ブラックホール」(何でも入るというパタゴニア社製の黒一色の怪しい大きな鞄の商品名)にしまった。あとは気持ちを引き締め、すたすたとスキを見せずに歩くことだ。万全の態勢で駅から街へと出た。

防犯上、街なかでは地図を開かなくても済むよう、泊まりたいホテルの位置を記したメモを手の中にしのばせた。が、なんということはない。ひなびた田舎町っぽい。古い建物ばかりで、手入れは行きとどいていないが・・・・。

これなら大丈夫そうだ。「地球の歩き方」は、大げさに書きすぎるなあ。殺風景な建物の下の歩道をテクテクと歩いた。人々はのんびりとしている。その街が危ないかどうかは歩いてみれば雰囲気でわかる。

気持ちの緊張を解いた、ちょうどそのときだ。この旅最大の身の危険に見舞われたのは。

ガガガガガー。なにが起きたのだろう。一瞬わけがわからなかった。ものすごい音とともに、頭の上の古い建て物の外壁の石が落ちてきたのだ。軒先でバウンドして、1メートル前方に落ちて砕け散った。長さ30センチはあるコンクリートブロックのような外壁だ。頭に当たったらその場で死んでいた。あまりの 恐怖に立ちすくんだのが幸いした。そのまま前に向かって歩いていたら、いまごろわたしはこの原稿を書いていなかっただろう。

周囲の建物から人々が、わたしの回りというより、砕けて散った石の回りに集まった。わたし以外に歩行者はいなかったからけが人とか犠牲者はいない。群がった人々がザワザワと話し、なにやら、わたしのほうを見る。

「オイ、死にそうだったんだぞ。大丈夫か?のひと言はないのかよ」。と、心の中で思う。

しかし、それどころか、目線は冷たい。

「(この石を割ったのは)こいつか?」という調子でわたしを指指す男がいた。別の男が「いや違う。こいつがやったんじゃない。上から落ちてきたんだ」と言ってくれたようで、頭上を指で指している。やれやれ。ヘンに犯人扱いされなくてよかった。僕は死ぬところだったのだぞ。

それにしても、こんなところで死んでいたら・・・。それこそ、物盗りのえじきだったろうか。果たして身元は確認してくれるだろうか。警察官はなんだこのアジア人はという扱いだろうか。地球上のたった1人きりという危うい立場を思い知らされた。まさしく、ロンリー・プラネットな気分だ。

貴重品を盗られないよう万全の態勢をとったはずだが、頭の上から石が降ってくるなどとは想像はしていなかった。

ナポリを堪能もせず、死んでたまるか。砕け散った破片に当たることもなく、そして、歩道の器物を壊した犯人にされなかったことを良しとしておこう。

ともかく、なんともなかったのは良い。早くホテルに入り、荷物から開放されたい。体が汗ばんでいるので、熱いシャワーを浴び、さっぱりしたTシャツに着替えたい。

ホテルは日本円にして1800円ぐらいの部屋だが、床の大理石が心地よく、ひんやりと心地よい。
ひと心地ついたら、身軽になって街を歩くぞ。まずは、ナポリ一おいしいピザ屋と、世界的ガイドブック「ロンリープラネット」が推奨しているところへ行こう。それに、ビールだ、ビールだ!
(1995年11月17日)
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by terakoya21 | 2016-06-05 08:30 | 旅日記

旅日記 番外編 (てらこや新聞132-133号 海住さんのコーナーより)

番外(その一)

古い棚を整理していたら、いまから20年余前の1995年、この旅を続けている最中につけていた日記や手紙の下書きが出てきました。

その中から使えそうなものだけ、紹介しましょう。

これは、チェコの首都プラハから、内五曲町のレストラン「西洋肉料理 岡」(当時はビーハイブ)様に宛てた手紙の下書きです。

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10月20日 プラハにて 

きょうは実に久しぶりに感動的(ハイ!)な気分を味わっています。

何もかもがとにかく高いオーストリアから、チェコのプラハに入りました。列車で5時間の旅(すばらしいチェコの風景と、通過駅の周辺やすさんだプラットホームの様子を眺めながら)でした。パン1つとソーセージ、コーヒーで約700円の国から、ビーフステーキ(150グラム)とライス、トマトサラダ、ビール(アルコール度10%)を合わせて133・60チェコ・コルナ(約467円)で済む国への移動でした。

プラハの街を夕方6時ごろから歩いてみましたが、ほとんど真っ暗で、実に静かです。たまに開いているところは「スナック・バー」(日本の高級レストラン風にテーブルが配置されているが、ほとんどの客は食べ物はなしで、ビールだけ飲んでいる)か、ケーキ屋さん。ケーキ屋さんのプライスは実においしそうなチョコレートケーキが8チェコ・コルナ(約28円)という感じで、ああいい国に来たなあと思いました。結局、ビーフステーキなどの食事は、宿泊先のホテル(一泊1200円・朝食付き)で食べたのですが、これが実においしかったです。

もう長いこと食べていなかったライス、パサパサご飯ですが、くさみがまったくなくおいしい。ステーキには日本のハンバーグのように上に目玉焼きが載っていました。そして、トマトサラダは、オニオンとのドレッシングがさっぱりとおいしい。オーストリアのサラダは高くてうさんくさい味でした。

そして、ビール。1本45円(アルコール度10%で500ミリリットル)。さすが世界の本場。
15日間のオーストリア滞在中は、ほとんどプレーンのピザが700円、いわゆるミートソースのスパゲティが600〜800円、中華料理店のラーメンまがいスープ(まずい)が850円、チーズバーガーとコーヒーで600円という高さ。それで終盤はスーパーマーケットに行って果物やトマト、パン、アイスクリーム、ヨーグルトを買って食事にしていました。ウィーンでは毎日5000円、1万円が羽をつけて飛んで行きます。まるで、東京にいる感覚。

ヨーロッパ入り後、これまでオランダとオーストリアの2か国で過ごしてきただけですが、正直、飽きてしまいました。最初はアムステルダムの美しい  町並み、オーストリアの郊外の美しい山々は湖が心地よかったですが、なにか絵はがきを見ているだけのようで、10日間もいると歩くのがしんどくなりました。

ところが、ここプラハには、ベトナムで味わった感動(高揚感)があるような気がします。

国際列車(ウィーン発、ベルリン行きで、プラハ下車)の車窓から見たチェコの駅のプラットホームにうつろにたたずむ人々、落書きだらけの貨車、暗く重くのしかかる雲、時折のぞく日差しが照らす大地(畑、森林、白樺並木、水の美しい川)を見ていると、「ああ、来た。いい写真が撮れそうだ」という気分になります。

さあ、あすはプラハの町並みをチェック。落ち着いたら、1914年6月にサラエボでセルビア人青年に暗殺され、第一次世界大戦の引き金となったオーストリア皇太子が住んでいたコノピシェ城(プラハ南西約30キロ)、15世紀に宗教改革者フスが処刑され、ボヘミア全土に宗教改革がわきおこることになるきっけをつくった町で、第二次世界大戦の被害を受けず、中世そのままの町並みが残されているというターブル(プラハの南約100キロ)、ピルゼンビール発祥の地・プルゼン、ベートーベン、モーツァルト、トルストイ、ゲーテが頻繁に通ったという温泉の街、カルロヴイ・ヴァリにて温泉保養をしよう。プラハから2、3時間で行けそうです。

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1996年2月29日に半年間の旅を終えて帰国、関空から夜8時すぎに松阪に到着すると、家に帰るより先に、リュックを担いだまま、ビーハイブ(現在の西洋肉料理 岡)さんに向かいました。わたしがげっそりと痩せている(出発前の体重は74㎏でしたが、帰国時は66㎏に)ことに驚かれた、今は亡きご主人(現シェフのお父さん)が、黒毛和牛の分厚いステーキをご馳走してくださったという思い出ともからんだ手紙です。
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by terakoya21 | 2016-05-13 15:30 | 旅日記

旅日記(てらこや新聞132-133号 海住さんのコーナーより)

第48回
ローマで3日間寝込んだのち晴れ(イタリア)

ケルンでミラノ行きの夜行を待つ間から、もうくたくただった。そのうえ硬座の列車で夜を明かさなければならなかった。次の日の 午後、ローマに着いたときはすっかり疲れ果てていた。ローマの中心、テルミナ駅から歩いて数分の、うらぶれた町中のぼろい建物の5階にあるホテルのフロントで部屋のカギを受け取ると、そのままベッドに入った。ただの疲れであれば寝れば元気になるが、夕方になって目が覚めても、ふわっとしている。食事をとろうとするが、喉が痛くて食べ物が通らない。

旅行保険が使える病院に行きたいと思ったが、一番近い病院でパリだ。そこ以外はいったん全額立替払いをしなければならない。いざというときに役立たない保険だ。薬を飲んで寝るしかないのか。しかし、2日たっても、3日たっても良くなるどころか、食事がとれないのでますます重症化しているように感じられた。

小さな部屋の、小さなベッドしかない安ホテル。元気ならなんとも思わないが、一人、監獄にいるような気がしてきた。

とにかく、食べなければいけない。でなければ、このまま衰弱してしまう。

1階の薄暗い玄関から外に出ると、暑い太陽がまぶしく街を照らしていた。冬用のパーカーは重い。石畳の路上には男が死んだようにうつ伏せで倒れている。本当に死んでいるのかもしれない、やっぱり寝ているだけなのか。

大衆食堂の入口でメニューのスープに目がとまった。

スープなら喉を通るかもしれない。野菜の具だくさんの温かい スープが出てきた。おいしい。どんどん喉を通る。とたんにじわっと元気が沸いてきた。こんな急速充電を実感するのは初めてだ。

「医、食、同源」と聞いたことがあるが、こういうことを言うのか。

部屋に戻って少し休んだが、もうすっかり体調が元に戻った気が した。ローマの街に出よう。ここまで来たのだから。

けたましい排気音と排ガスのにおいを残し走り去っていくミニバイクに、野良猫・・・・。そんな喧噪のにおいを嗅ぎ、騒音を楽しみながら、Bar(バール)のスタンドで、濃いエスプレッソを立ち飲みする。エスプレッソには砂糖を入れてかき混ぜずに飲み、最後に甘みを楽しむのがイタリア流だと聞いたことがあったのでそうした。1杯60円ぐらいだ。

犬にまでしっかりしつけが行き届き、大型犬も紐無しで人と一緒に町歩きをし、おとなしく近郊  区間の電車に乗っている行儀正しい国ドイツなど整然とした北方のヨーロッパの国にはちょっと厭きてしまった。それよりも、においも騒音もおおらかに街の空気そのものに漂っているローマは、どこかアジア的だ。かっちりとしたゲルマンではなくおおらかなラテンということだろうか。心がうきたってくる。

ホテルの玄関に近い路上に寝ていたおっちゃん、少し体位が移動していたから生きているし・・・。寒くないからいいね。

歩くぞ!町歩きをしていたら、ふいに姿を見せたのがオードリー・ヘップバーンの「ローマの休日」に登場したスペイン階段。バチカン。そして、闘牛場・・・。地下鉄に乗ったり歩いたり、いったいどの順番で行ったかはローマのようにいい加減に忘れた。

古代ローマの遺跡群が目を引く都市の輪郭がゆったりとした公園のようなエリアにある歩道を歩いていると、背後から「Hey」と声を掛けてくる男の声が聞こえた。振り返ると、歩道沿いに止めたクルマの助手席から若いのが顔を出している。

「I’m, policeman. Come here!」。

手招きしている。

出た。これか、「ウワサ」(ガイドブックに載っている!)のニセ警察官は!

迷わず、無視して歩く。まだ叫んでいるが、追い掛けてはこなかったところを見ると、やっぱり、ニセ者だ。近づいていけば、所持品検査と称して、財布やカメラ、パスポート等を奪われかねない。

こういう手合いが登場するのもローマらしい。泥棒は、これからもいろいろなところで狙われることになるし、泥棒と格闘して防戦したという日本人男子とも出くわす。かわいそうだったのは、フィレンツェで知り合った一人旅の日本人女性だ。満員のローマの地下鉄車内で、泥棒さんチームに回りをぐるっと取り囲まれ、身動きできないまま、財布のありかを求めて身体検査を受けたという恐怖体験をしたという。

わたしは、結局一度も被害には遭わなかったが、これからスペインのマドリッドやバルセロナの観光名所周辺で頻繁に狙われることになる。被害に 遭いそうになるときというのは、けっこう、泥棒さんたちが標的を待ち受けているところに知らずしてこちらから入り込んで行ってしまうのだろうな。まるで泥棒広場にふらふらと観光客が舞い込んでいくのだから、狙われるのが当然のようでもある。
(1995年11月13日〜17日)
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by terakoya21 | 2016-05-11 08:30 | 旅日記

旅日記(てらこや新聞131号 海住さんのコーナーより)

第47回
へんなオジサン、困った若者、ティーンエイジャー・ギャング(ドイツ)

ヨーロッパで美しいのはアルプスの山々や湖沼、羊が放牧されている田園風景、教会や修道院などの歴史的建造物や町並み、それに人々の微笑みや親切。けれど、不快というか戸惑う経験はまれにあった。

木枯らしが冷たかったベルリンの街角。銀行のまわりにティーン・エイジャーたちがたむろしていた。入口でキャッシュ・カードをシュッと差し込まないとドアは開かないが、開けると同時に少年たちがなだれ込んできた。暖房の効いているキャッシュコーナーで暖をとりたいだけのようだったが、セキュリティ上、戸惑った。

ベルリンの街の一杯飲み屋みたいなカウンターで向かい合わせになった、ちょっとヘンなオジサンが、わたしに向かって、いわゆる、「ハイル ヒトラー」(指導者、万歳!)のようなポーズで右手を挙げてきた。

「おい、おい、よしてくれ」。ドイツ人と日本人だからと、そんなことでは握手できんよ。相手に悪気はなさそうなのだけれど、これには曖昧な笑顔を見せられない。

イギリスでは、きちっとしたスーツ姿の30代ぐらいの男二人が正面から歩いてきて、わたしの目の前で背中を向けたかと思うと、「せい、の」という感じで、“ケツまくり”をしてお尻をわたしに突き出してきた。

これは、たんなる、酔った勢いのアホさ加減を示すゲームのようで、人種的な嫌がらせでもセクシュアルなことででもなさそうだった。そのノリは、かれらの明るい笑顔からわかったので、こちらも笑ってやりすごした。

一度だけ、明らかに人種的な侮蔑を受けたことがあった。

ケルンの駅周辺。次の行き先であったローマへ向かう夜行列車に乗るまでめちゃくちゃ時間があったので、昼間からぶらぶらと何度か同じところを行き 来してしまった。道路に座り込んでいる若者の3人組。大声で話している様子はたんなる酔っぱらいではなさそうで、嫌な感じ。薬物による影響でないだろうか。

わたしがその前を通ったときのことだ。

目線の定まらない真ん中の男が、「キー、キー」と猿のような鳴き声をあげて、手で猿の真似をした。

アホなことをするなあ、それとも、わたしをからかっているのかと思った。が、もう一度通ったとき、同じことをしてきたので明らかな意図を感じたのでにらみ返した。

わたしを「モンキー」扱いしたのだと確信した。人が人を侮蔑するとき、弱い者はより弱い者に攻撃の刃を向ける。黄色人種であるがゆえか東洋人であるがゆえかはわからないが、不当な目に遭うと悔しい。

しかし、基本はどこにあっても、コミュニケーションは生まれる。だから、この旅日記の連載は成り立つ。まだ続く旅の先で起きたことを紹介するとネタ切れになってしまうが、こんなこともあった。

パリのユースホステルの部屋(ベッドがたくさんあってだれが相部屋になるかわからない)でのこと。韓国人の青年が風邪気味だけど薬がないというので、一服渡した。

次の朝、二段ベッドの上で寝ていると、その韓国人と中国人の間の英語による会話が聞こえてきた。

「風邪はどうだ?」

「薬を飲んだから、よくなった気がする。その日本人がくれたんだ」。

ドイツの小さな町の薬局で買った薬が役立った。旅のあいだ、ほとんどこちらが人の好意や親切に感謝をすることが多いが、たまには人から感謝される立場に回るのもうれしい。

話をもとに戻すと、ドイツの旅はあまり芳しくはなかった。通りいっぺん、なぞっただけに終わった。国が大きいし、寒い季節に入った。

暖かいところへ逃れるため、ミラノ経由でローマに行こうと夜行列車に乗る予定だが、ケルンを出るのは午後9時5分だ。

ケルンでしたいことはもうなかったけれど、朝から晩まで長すぎる時間つぶしをしなければならなかった。その間に先に触れた不愉快な出来事もあった。列車に乗るまでに疲れてしまった。暗くなってからは駅のコンコースで待った。

ミラノへ着いても、ローマ行きへの乗り換えが翌日の午前11時38分。めっちゃ疲れそう。

ようやく乗った列車。しかし、この便にはゆったりとふわっとした一等席車両(3か月間、一等席車両乗り放題のユーレール・パスを持っていた)はなく、リクライニングのない硬いシートの二等席車両だ。二人掛けの席も狭く、足もとに荷物を置かなければならない。

隣に白人の若者が乗った。一晩隣同士でご一緒する。夜中、国境を越えるのだろう。大きなシェパード犬を連れた検査官が歩いてきた。

麻薬犬だろう。隣の若者から何かを感じ取った反応をしたらしく、かれは取り調べに連行されたまま戻ることはなかった。

(1995年11月10日〜13日)
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by terakoya21 | 2016-04-25 17:22 | 旅日記

旅日記 (てらこや新聞130号 海住さんのコーナーより)

第46回
デュッセルドルフ〜ボン〜ケルン(ドイツ)

ドイツ西部の都市ケルンでは、当地在住の日本人ジャーナリスト、ミカ・タナカさんと会うことになっていた。ミカさんは愛知県犬山市の出身で、朝日新聞発行の週刊誌「アエラ」などに記事を書いていた。わたしは、この旅に出る前日まで読売新聞記者で、犬山市などの自治体をカバーしていた関係で、犬山市の職員の方から「ドイツに姪がいるので是非会ってきてほしい」と紹介をいただいた。現地で電話を入れ、11月11日(土曜日)の午後1時に、ケルン駅の花屋さんの前で待ち合わせをした。

実はその前日には宿泊地のデュッセルドルフに着き、ケルンにも足を延ばしていた。デュッセルドルフは、大企業の日本人駐在員家族がたくさん暮らしていて、日本人が快適な日常生活を送る上で必要な買い物や飲食など都市生活にはとても利便が高い。ここにくれば、ケルンへ行くにも、旧西独の首都ボンへ行くのも、都心から近距離鉄道に乗ればすぐに行くことができる。一日でケルンやボンの街を歩き回った。東京や大阪のターミナル駅のようにごった返さないのもいい。海外でありながら、自分のまちのように都市圏の鉄道を使いこなせている実感があった。

ところが、その油断から、思わぬ大失敗をやらかしてしまった。

ミカさんとの待ち合わせのため、デュッセルドルフからケルンに向かう列車に乗ったつもりだったが、乗ったのはケルンとは反対方向に向かう列車だった。そのことに気づいたのは、一駅、二駅・・・過ぎたあと。携帯電話もない時代なので連絡はつけられない。ケルンの駅に着いたときには約束の時間からゆうに1時間半は回っていた。

もう帰ってしまっているかもしれない。待っていてくれるか。待ち合わせ場所には一人の日本人女性がいた。

あー、良かった。

電車に乗り間違えたことを説明しお詫びすると、「せっかく、こんな待ち合わせをしてお会いできなかったら、とても残念なので、お会いすることができて、ほんとうに良かったです」と、心からホッとしていただいた様子だった。

ケルンの駅は、デュッセルドルフやボンと比べなんだか騒々しく、これはなんだろうというのが気になった。顔に色を塗った人たちが「オーレー、オレオレ・・・」と歌っている。サッカーの試合らしい。聞けば、土曜日であることに加え、まつりと、プロサッカーの1FCケルンのシーズン最終戦と重なったことによる騒々しさだという。
ミカさんは、ケルンの大聖堂を案内していただく予定のようだったが、前の日に見てしまっていた。それよりも、わたしは、中学生のころ、サッカーを始め、当時、1FCケルンのスター選手だったオベラートというプレーヤーのファンだったのでサッカーのほうが気になった。そのことを話すと、観戦に行きましょうかということになった。

あんなにあこがれたヨーロッパサッカーにいけるなんて、これはうれしい。子どものころ、テレビでドイツのサッカーを観ていると、太い重低音の歓声がスタジアムでうなり上がるのが好きであり、不思議だった。実際にスタジアムで観戦してみて、その音量の原因がわかった気がした。すぐうしろにいた小学校低学年ぐらいの少年の声が、すでに野太く響いていたのだ。「これか、あの音は」と納得することができた。

エコな国ドイツでは、いまから20年前のこの時点で資源のリユース・リサイクルがどの分野でも進んでいたと見え、サッカースタジアムでも事情は同じだった。場内で販売しているビールのプラスチックのコップにもデポジット(確か60円ぐらい)が含まれており、空コップを返せば返金される仕組みとなっていた。食品スーパーへ行っても、惣菜は量り売りだし、飲み物の入った瓶も何度も使い回されているうちに傷が入り、白い傷だらけの瓶入りのコカコーラやファンタが売られていた。

この国に住み着いてしまえば、随分、いろいろと発見はありそうだが、通りすがりの旅人にはごく断片的なことしかわからない。この翌日、ドイツを去ることになるが、結局、ヨーロッパのこの大国のことを何一つつかめないままに終わってしまった気がする。

(1995年11月10日〜12日)
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by terakoya21 | 2016-02-08 21:37 | 旅日記

旅日記(てらこや新聞129号 海住さんのコーナーより)

第45回
バッハラッハ(ドイツ)

「バッハラッハ」。ドイツ人の発音は、日本人には「バハハ」と聞こえるというその町の名前の由来は、酒の神さま「バッカス」という。ワインを造る葡萄畑に囲まれ、春や夏なら、白い壁をクロスする木組みのある家々の街並みと、家の軒を飾る花の赤と緑と青空のコントラストが鮮やかなことだろう。が、わたしがこの町に降りたのは、早くも初冬の気配を感じる11月に入ってからだ。雪の舞うドイツ北部と比べたらましだが、どんよりとした曇り空のもとでは、メルヘンタッチの街並みも、目の前の高い丘にそびえるお城と、丘の下に城壁があったであろう中世の城下町の陰うつさだけを感じてしまう。

この小さな城下町へは、フランクフルトからライン河づたいにケルンへ向かう途中に立ち寄ってみようと思った。夏場なら街のレストランのオープンテラスのテーブルでワインやビールを楽しむ観光客の姿でにぎわっているだろうが、この時期に開いているのは薬局ぐらいだった。

この日の宿は、駅前から続く坂道の上の丘にある。この街のどこからでも見上げる場所にある12世紀に建てられた古城だ。このお城が、ユースホステルとなっている。

古城ホテルと言えば高級ホテルという印象を受けるが、ユースホステルとして使われているから価格はお手頃である。朝と夕食付きで1500円ぐらいだったはずだ。夏ならきっと満員となりそうなロケーションだ。が、11月ともなれば訪れる人は少ないようで、予約無しで泊まることができた。お城(部屋)の小窓からはライン河を見おろせる。季節はずれとはいえ古城に宿泊できるとはなんとも贅沢だ。

夕食は、お城の中のダイニングでいただける。フロアも壁も、そんなに高くない天井もすべて石。ほどよい広さだが、いるのは50代~60代の夫婦一組だけ。「こんな広いところでさみしいから、こちらでいっしょに食事をしませんか」と誘っていただいた。そのあと、体の細い若い女性が、離れたテーブルに一人席についた。「よかったら、あなたもこちらへ」という言葉で4人が同じテーブルに座った。

一人旅でいつも一人でとる安上がりの食事が中心だったが、この日ばかりは、お城の中で、この街の特産のブドウで造られた白ワインでちょっぴり豊かで、ぬくもりある人との語らいで久しぶりに笑顔になれる夕食となった。

テーブルに誘ってくれたご夫婦はオーストラリアからの旅行者。若い女性は、出身地を聞かれると、「U.S」とだけ答えた。母国の名を「アメリカ」という人もいれば、「ユーナイテッド・ステーツ」という人もいるだろうが、そっけなく「U.S」というあたりが都会的な乾きを感じる響きがあった。

「で、どこ?」とオーストラリア人ご夫婦。
「ニューヨーク」
「ニューヨーク・ステート、オア、ニューヨーク・シティ?」
「ニューヨーク・シティ」
「OH, NEW YORK CITY !」。オーストラリア人夫婦とわたしが口をそろえて声を弾ませると、若い彼女もはにかんだような笑顔を見せた。

一人旅のアメリカ人を見るのは多くはなかった。ニューヨークから一人で旅してくる若い女性は初めてだった。それも季節外れのこんな田舎の古城で。広いお城の宿の今宵のお客はこの4人だけだった。

なんだか不思議だった、この山の上の古城(孤城)にいるのは、従業員をのぞけば一つのテーブルを囲っている4人だけ。急に家族になったかのような温かさに包まれた。

若く美しい女性と出会ったわたしたち3人は、まるで映画の中の女優さんと出会ったかのような驚きに声を合わせていた。BGMも、他のテーブルから聞こえてくる会話や笑い声もざわめきもない。外は、お城に吹き付ける風で寒いだろう。だが、中は暖かい雰囲気になった。広い地球の中の、都会の喧噪から取り残されたような、ドイツの片田舎にある山の上の古いお城の中で妙な連帯感をもって世界に輝く大都会からの旅人との出会いに、まるで珍しいものでも見たかのように盛り上がった。

部屋はそれぞれ離れたところにあった。部屋は、どこかしらさびしくて幽閉される気分もなきにもあらずだったが、色合いが暖色系で清潔感ある部屋で問題なしの夜だった。朝、部屋の小窓からのぞくと、落葉寸前の紅葉した葉っぱがわずかに残った木の枝の下に大河ライン河が流れて いた。

わたしは、この城山にどうやって登ったかや、ふもとの城下町で何をしたのかは、薬を買いに行ったこと以外覚えていないのに、当時の手帳によれば、どういうわけかこのホテルに2泊もしている。

2日目の夜は、ニューヨーカーはおらず、わたしと、オーストラリア人のご夫婦の3人だけだった。このお城で一人にならないうちに、都会に戻ろう。

次は、日本人駐在員の多い大都市デュッセルドルフに泊まり、そこから近郊列車で行き来できるケルンや、旧西独の首都ボンを歩くことにしている。
(1995年11月8日〜10日)
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by terakoya21 | 2016-01-10 11:08 | 旅日記

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