カテゴリ:上越だより( 96 )

上越だより 最終回(てらこや新聞143-144号 下西さんのコーナーより)

「高田公園の四季」

2月4日(土)高田公園内にある小林古径邸の敷地内にて、「小林古径邸キャンドルナイト」が開かれました。高田城二の丸跡にある古径邸(アトリエ・庭園を含む)に、雪で行灯や灯籠を作って、古径邸に雪の夜の風情を楽しもうという趣向でした。

日本画の巨匠・小林古径(1883~1957)は上越市出身。『新潟の美術』(毎日新聞社)の冒頭に次のように評されています。

……古径芸術における、その独自の厳しい線描、清澄な色調、強靭な造形性、それでいて馥郁と漂う詩情は、まことに近代日本画の一つの頂点……


c0115560_11454746.jpg
古径邸は吉田五十八(1894~1974)の設計、宮大工の岡村仁三が棟梁を務めて施工されたもので、木造二階建て数寄屋造りです。大田区南馬込にあった住宅は、平成5年に解体されましたが、平成7年その部材を上越市が買い取り、平成10年移築・復元され、平成13年完成しました。そして、その価値が認められ、平成17年に国の登録有形文化財に登録されました。

キャンドルナイトは、16時から19時まで開催されました。今年は、小雪でしかも当日は、春のような陽気で、準備が大変(有難迷惑?)だったと思いますが、雪行燈に導かれた経路を辿る庭園は趣深く、普段は見られない風情でした。建物の中に節分のしつらいがあり、季節に合った絵が飾ってありました。もっとも気に入ったのは、雪見障子ごしの雪景色。切り取られた風景は不思議な、深い青の世界で、これぞ雪見障子という体験ができました。薄暮から宵にかけての時間の微妙な推移を感じることができました。来訪者の多くがカメラを片手に珍しい光景を切り取っていました。珍しく晴天になった夜空には、月齢8の半月と金星も見ることができました。

古径邸復元にともなって、従来の上越市立総合博物館内に、「小林古径記念美術館」(平成16年から)が併設されていました。が、今後数年で、この併設状態が解消されます。上越市立総合博物館は改修され 「上越市立歴史博物館」になり(平成30年7月リニューアルオープン)、古径邸敷地内に新たに「小林古径記念美術館」が新設される予定です(平成32年オープン予定)。

c0115560_11462371.jpg

高田公園は、高田城(徳川家康の六男・忠輝の居城)の跡地に作られた約50haの広さの公園です。明治40年に旧陸軍が入城し、一部の堀を埋めるなど作り変えたその形が、現在の公園の土台になっています。

高田公園にはいろいろな施設があり、様々な目的で親しまれています。

城址ですから、お堀や土塁のほかにも、天守閣にかわる建物である「三重櫓」が復元されていて(平成5年)、内部にはお城関係の展示もあります。

子どもたちが遊べる芝生の広場もあり、滑り台・ターザンロープ・ロープネットジャングルジムなどの遊具もあります。

自然科学としての面では、野鳥がすみかにし、お堀では、水鳥・白鳥もやってきますので、探鳥会もできるます。植栽も豊富で、季節の花が楽しめます。

博物館(美術館)や、ブロンズプロムナードがあり、芸術系のニーズにも応えています。高田図書館があり、小川未明文学館も併設されていますから、文学や教育面でもカバーしています。

陸上競技場や野球場・テニスコートもあり、外堀に沿って遊歩道が整備され、スポーツの面でも高田公園の施設は充実しております。

「お城稲荷」「忠霊塔」という祈りの場もあります。

私は、高田公園のすぐ近くに、四半世紀ほども住んでおりました。が、この3月、夫の定年退職を機に、ここを離れることになりました。四季を通じて高田公園を見て、公園でのイベントにも参加してきました。高田公園の四季の、私のお気に入りを紹介しましょう。

春はもちろん桜。公園内には4000本もの桜があるそうで、ライトアップされた夜桜はとみに有名ですが、 昼間の桜もお堀(水)と桜、遠景の雪山と桜の取り合わせは、高田ならではのものです。私のお気に入りの  スポットは、松と桜が混在したお堀沿いの道です。舗装もしていない、自動車も通らない、花見の喧騒も届かない狭い道ですが、野鳥の声を聴きながら緑とピンクのアーチをくぐるとき、春が来たことを実感します。

夏は蓮。お堀が盛り上がるように咲くハスの群生は東洋一といわれています(外堀の19ha)。明治4年から植えられたというハスは当初は食用でしたが、現在はもっぱら観賞用で種類も本数も豊富です。観桜会ほど派手ではありませんが、7月下旬から8月中旬まで開催される「上越はすまつり」は遠方からの愛好家を増やしています。


近年、突然変異の珍しい咲き方のハス「双頭蓮」(一本の茎から花が二つ)「並てい蓮」(一輪のハスの花の中に二つの花托をつける)を見ることができました。

秋は紅葉。公園通りにはイチョウが数本あります。春の芽吹きのころ、薄緑の小さい葉っぱが出てくるのを見るのも楽しみですが、イチョウ色はやはり「をかし!(すばらしい)」。イチョウに交じってカエデが、アクセントカラーを添えます。また、桜の葉っぱの色の変化が、秋の深まりを知らせます。お堀の水面にモミジが映り込むのも「あはれなり(いい感じ)」。

冬は六花、つまり雪。雪は美しいけれど厳しく、冷たいけど懐かしさを運んでくれます。一晩に50cm以上積もると、暮らしに不便というほかありませんが、積雪から守るために施された「雪囲い」は、雪がないと「わろし(風情がそがれます)」。

高田公園は、いろいろなイベント会場にもなります。昨年・一昨年の秋には、クラシックカーのレース、  「ラ・フェスタ・ミッレミリア」の中継地点となりました。通常は車両立ち入り禁止区域にクラシックカーが続々入ってくる光景は壮観でした。堺正章や近藤真彦など有名人も参加していたので、次々登城する車両(多くがオープンカー)に興奮し、「三重櫓」とクラシックカーの取り合わせにミスマッチの極致?をみました。

c0115560_11472789.jpg

現在、高田公園では、今年7月中旬完工、9月から供用開始に向けて、「厚生産業館(仮称)」の建設が進められています。鉄筋コンクリート造り、三階建て(延べ床面積4997㎡)で、中には多目的ホール、公民館、こども施設などが設置されます。

前述の上越市立博物館が「上越市立歴史博物館」になり、時代に応じた系統立てた展示を目指すことになります。そして、その目玉になるのが、謙信愛刀で国宝の「太刀無銘一文字」です。刀の刃文から「山鳥毛」(山鳥の産毛を並べたような模様)という号がつけられています。購入代金3億2000万円に市民の賛否が飛び交っております。

高田公園は、これから数年にかけて施設の改修が 続き、大きく変わろうとしています。



[PR]
by terakoya21 | 2017-05-05 08:30 | 上越だより

上越だより(てらこや新聞140号 下西さんのコーナーより)

「佐渡の旅」

10月8日午前8時30分ころ、両津から相川に向けて、国仲平野を走行中のバスの窓から、二羽のトキを見ました。バスの座席からなにげなく右を向いたとき、その視線の先に飛び立とうとするトキの翼が見えました。全体にアイボリーで、羽の根元のオレンジがかったまさに「朱鷺色」の翼が、開いた状態で目に飛び込んできました。

c0115560_19590749.jpg
私の姉の長年の望みだった佐渡旅行に、お供して出かけたのは、10月7・8日でした。佐渡汽船の「高速カーフェリーあかね」に乗り組み、直江津港を9時30分に出発しました。台風一過の晴天に恵まれましたが、海上はうねりがあり、1時間40分の船旅はけっこう揺れるものでした。

佐渡の小木港に上陸し、定期観光バスに身を任せて気ままな観光を楽しみました。

c0115560_20000974.jpg

1日目は、小木港にて「たらい船」に乗り、江戸時代の日本海航路でにぎわった「宿根木」の集落を散策し、女優・吉永小百合のポスターに採用されて名所となった「三角家」のまえでポーズをとり、復元された千石船(白山丸)も見ました。真野にある酒屋を経由して、海中公園・全国渚百選に選定された「尖閣湾揚島遊園」にて、断崖絶壁が続く海岸線を臨みました(グラスボートで海中をのぞけるはずだったのが、波が荒く欠航に)。

2日目は、いよいよ佐渡旅行の本命である相川へ向かいました。まず、平成12年復元された「佐渡奉行所」を見学しました。佐渡の奉行所内には、金銀山を管理するだけではなく、精製するための工場(勝場(せりば))があり、ガイダンス施設で、勝場の工程を見ることができました。そしていざ金山へ。「史跡佐渡金山((㈱)ゴールデン佐渡)」にて、江戸時代の坑道跡である「宋太夫坑(そうだゆうこう)」に入りました。ここでは、「佐渡金山絵巻」に描写されている採掘の様子が人形(ロボット)を使って再現された人気の場所です。相川から大佐渡スカイライン(あいにくの霧の中)を経由して、新穂長畝にある「トキの森公園(トキふれあいプラザ・資料展示館)」へ行きました。ここでは、飼育中のトキを見ることができます。最後に、五重塔のある日蓮宗妙宣寺を訪れ(日蓮は佐渡に流罪となった)、小木港に戻り、定期観光バスの旅は終わりました。(その後、16時30分発直江津港行きカーフェリーに乗船)

c0115560_20024310.jpg
我々の佐渡旅行で熱望したことは、「野生のトキを見ること」と「金山を見ること」です。そして、この二つは、現在の佐渡観光の目玉でもあります。

トキは、分類上「ペリカン目トキ科トキ属」ですが、大英博物館のグレイによって、学名を「ニッポニア・ニッポン」と名付けられました(1871年)。その標本はシーボルトが持ち帰ったものだとか。トキは、学名こそニッポイア・ニッポンですが、日本固有種ではなく東北  アジアに広く分布していて、2000年には、日本のトキと中国のトキは同一種であると、DNA分析によって説明されました。日本の野生のトキが絶滅し、中国から贈られたトキによる人工繁殖が始まって、現在の状況があります。

1968年に捕獲され、保護されていた日本生れのトキ「キン」が2003年に死にましたが、それに先だって、1999年には中国からオスの「友友(ヨウヨウ)」メスの「洋洋(ヤンヤン)」が日本に贈られ、人工繁殖に成功しオスの「優優(ユウユウ)」が誕生しました。様々な困難や試行錯誤を経て、2007年には、トキ保護センターでのトキ飼育数が100羽を超えました。そして、いよいよ2008年には10羽が「放鳥」のはこびになりました。

2016年、野生下でのひな誕生は5年連続で確認され、国内で飼育中(分散飼育で長岡市・石川県・東京都にも)のトキは173羽(10月26日現在)、放鳥トキが214羽(佐渡島内・10月24日現在)と発表されています。

「トキを増やし、野生化させる」ためには、生物学的・ 生殖学的な問題ばかりか、環境問題も重要になります。エサがあり、外敵からもある程度守られ、健康に過ごせる空間が必要になってきます。当然莫大な予算を伴ってきます。2003年には、佐渡トキ保護センターにて20羽が飼育されていたのみでしたが、国(自然環境センター)は環境再生ビジョンとして「2015年ごろまでに小佐渡東部にトキ60羽の定着を目指す」という目標を設定しました。

この目標を目指し、佐渡の人々はそれぞれの立場での努力が始まりました。ドジョウなどの餌場を確保するため、例えば、小学校ではビオトープを作り、農家は冬場でもたんぼに水を張り、また農薬を減らし、トキのえさになる虫や小動物が住める環境作りに当たりました。繁殖から放鳥に向けて国費14億円をかけて新穂正明寺に「野生復帰ステーション」(非公開施設)も作られました。

飼育に直接かかわる人々の緊張感はそれ以上だったでしょう。『50とよばれたトキ -飼育員たちとの日々』(小野智美著・羽鳥書店)からいろんなことを教えられました。トキにも個性があり放鳥に向かない個体もあること、ペアリングの相性があること、野生に戻す計画のためヒナには名前を付けず番号で識別することなどなど。

佐渡では、夢を運んでくれるトキを大切に育む取り組みが続いています。

c0115560_20030874.jpg

佐渡の金山は、1601(慶長1)年から1989(平成1)年まで400年の歴史があり、幕府直轄から、国営、民営と経営者が変わり、坑道も採掘方法も変遷しました。私たちが見学した江戸時代の坑道跡である「宋太夫坑」の近くにも、「道遊坑」「無名異坑」「大切山坑」などがあります。また、坑道だけではなく、鉱石から金銀を取り出すための施設として、選鉱場・搗鉱場(とうこうば)やレンガ造りの火力発電所など、日本の近代化に貢献した産業遺産が廃墟のようではありますが残されています。

金山は、今なお江戸時代の罪人や無宿人の苦役の場であったというイメージのままです。偏ったイメージを払拭しなければ、新潟県が目指している「世界文化遺産登録」は叶わないのかもしれません。一貫性のある「金山」の歴史的民俗的ストーリーが示してほしいなあと思いました。

c0115560_20034418.jpg


[PR]
by terakoya21 | 2016-12-29 08:30 | 上越だより

上越だより (てらこや新聞138-139号 下西さんのコーナーより)

「クラッシック音楽の楽しみ」

9月11日(日)、長岡市千秋が原にある長岡リリックホールに行ってきました。ホール開館記念20周年記念として、NHKFM放送の「きらクラ」という番組の公開収録に出かけたのでした。「きらクラ」は、気楽にクラッシック音楽を楽しもうという趣旨の番組です。日曜日の午後、放送されます(月曜の朝の再放送)。公開収録観覧者は、応募はがきの抽選で決まりました。そうです、見事当選したわけです。

c0115560_16672.jpg


この番組は、気楽にクラシック音楽に親しむために、コンテンツがいくつか用意されています。例えば「きらクラDON!」(イントロクイズ)、「BGM選手権」(詩や文章の朗読にBGMをつける)、「勝手に名付け親」(曲に表題をつける)などなど、ネーミングが愉快です。

レギュラー出演者(進行係のことを最近はMCというらしい)は、タレントのふかわりょう、チェリストの遠藤真理、ゲスト出演者にピアニストの上原彩子、コントラバス奏者の池松宏、ハープ奏者の篠崎和子の面々でした。

通常の番組では、リスナーのメールやお便りを読みながら、MCが感想を述べたり意見を言い合ったり、MCの体験談を織り込みながら、コンテンツをすすめるわけですが、公開収録では、観客と交流しながら番組を進めていきます。ふかわりょうさんは、さすがしゃべりのプロ。番組の進行の仕方、さばき方が見事でした。もちろん、ディレクターやアシスタントが黒子のようにMCに寄り添い、番組を取り仕切る様子も見ることができました。

では、プログラムを紹介しましょう。

●上原彩子(ピアノ)
♪前奏曲 嬰ハ短調 「鐘」 ラフマニノフ作曲
♪「チェロ・ソナタ」から第2楽章  ショスタコーヴィチ作曲 *チェロ:遠藤真理
♪花のワルツ  チャイコフスキー作曲/上原彩子編曲

●池松宏(コントラバス) 篠崎和子(ハープ)
♪エストレリータ(小さな星) ポンセ作曲
♪チャルダーシュ  モンティ作曲
♪「チェロとコントラバスのための二重奏」から第3楽章  ロッシーニ作曲 *チェロ:遠藤真理
♪カヴァティーナ  マイヤーズ作曲

c0115560_1665424.jpg


公開収録ですから当然、生演奏が聞けました。生の迫力とは、空気の振動が伝わるからでしょうか、音源が見えるからでしょうか。

また、演奏者の人となりがわかるおしゃべりの時間も楽しいものでした。談笑して、すぐ後に演奏する集中力はみごとなものです。

上原彩子さんは、3人の子どものお母さんで、同じく2人の娘さんのお母さんである遠藤真理さんとは子育て談義も始まりました。「鐘」(ラフマニノフ作曲)のおごそかな演奏、「花のワルツ」(チャイコフスキー作曲)のはなやかな演奏とは違う、別の表情を見ることができました。

上原さんと遠藤さんは小柄でしたが、池松さんは長身でルックスもすてきでした。池松宏さんの紹介には、学歴・職歴のほかに、ニュージーランド交響楽団首席コントラバス奏者として、ニュージーランド滞在中に、「ナショナル・フライフィッシング・ペア大会で優勝」まで記されていました。この行からも、池松さんの人柄がうかがい知れます。実際に演奏を聴いて、真剣ではあるが、遊び心あふれた演奏でした。「チャルダーシュ」の演奏では、題意の居酒屋どおり、千鳥足やろれつが回らない酔っぱらいを彷彿とさせるパフォーマンスで、とても楽しいものでした。また、コントラバスの音色が豊かであることを知らしめ、しかもメロディーを軽快に奏されるのは、初耳だったかもしれません。

c0115560_1672032.jpg


信濃川の左岸には、「ハイブ長岡(産業交流館)」「長岡リリックホール」「新潟県立近代美術館」「千秋が原ふるさとの森」と公共の施設が集まっています(上越市より60km 余り)。「長岡リリックホール」と「新潟県立近代美術館」は道路を隔てて隣にありますが、空中廊下でつながっております。長岡も雪国ゆえ、冬の悪天を避ける配慮がなされています。ちょうど美術館では「ボストン美術館 ヴェネツィア展」が開かれており、この廊下を渡って訪れました。

ホールの前庭には、「米百俵」の群像が立っておりました。山本有三が戯曲化した「米百俵」の一場面です。幕末に幕府側に就いた長岡藩は非常に窮乏していましたが、他藩からの百俵の支援米を食べずに、未来のため教育費に回すことにしました。この提案をした小林虎三郎のエピソードは小泉純一郎首相によって紹介されたことがあります。

c0115560_1674744.jpg


25年くらい前の夏のある日、指揮者の小澤征爾さんが上越に来たことがありました。桐朋音楽大学の学生さんと、夏休み合宿ツアーの一環でした。通常の音楽ホール以外で、通常クラシック音楽に親しんでいない人にも聞いてもらいたいという趣旨で、「光源寺」(上越市国府 1丁目)でミニコンサートが開かれました。「光源寺」はという真宗大谷派の古刹で、親鸞聖人やその弟子のゆかりの寺です。

シークレットコンサートでした。口コミでコンサート開催を知りました。小澤さんのほかに、盟友であるチェリストのロストロポーヴィチさんと、MCに元NHKアナウンサ・頼近美津子さんがいっしょでした。曲名は忘れましたが、満員の本堂での小澤さんの指揮とロストロポーヴィチさんのチェロを演奏する姿は、映像のよう頭に保存されています。あの時の興奮と幸せ感は忘れられません。きわめて近い距離で、すなわち同じ板の上で、同じ空気を吸って、音楽に浸りました。

「きらクラ」公開収録は、遠藤さん・上原さん共演での「子犬のワルツ」(ショパン作曲)で始まり、「上を向いて歩こう」(中村八大作曲/上柴はじめ編曲)でフィナーレを迎えました。出演者全員が演奏に加わり、観客は口笛で参加することができました。ミーハーなクラシック音楽ファンにとって、夢のような一日となりました。
[PR]
by terakoya21 | 2016-11-14 16:09 | 上越だより

上越だより (てらこや新聞137号 下西さんのコーナーより)

「森のようちえん てくてく」
3月中旬、東京に住む長男夫婦の間に長男が誕生しました。私にとって、初孫です。かわいいもので、彼が泣いても笑っても、たいそういとおしいものです。

そして、孫の姿を見ていると、自分たちが迷いながら子育てしていたころを思い出します。初めての出産、初めての授乳にはじまり、息子の泣いた、笑った、寝返りした、熱を出した、歩いた……。初めて尽くしの育児の日々は、うれしいことはもちろんですが、失敗も多々ありました。あの頃は一生懸命生きていたなあという実感があります。

c0115560_20312786.jpg
孫ができてから、私自身の乳幼児の見方が変わっていたように思います。上越市内でユニークな保育をしている「森のようちえん てくてく」を見学に行きました。

6月10日(金曜日)、「NPO法人 緑とくらしの学校」(上越市滝寺 251)のフィールドである「てくてくの森」に出かけてきました。9時半から約2時間、午前中の活動を見学させていただいきました。雨上がりの森の空気は心地よく、頭上の木々から木漏れ日とともに、葉っぱから滴る水滴がキラキラ光っていました。

20名くらいの子供たちと先生3人、保護者のサポーター1人が森の広場にいました。みんな長袖・長ズボン・長靴に帽子といういでたちで、つまり日よけ・虫よけの装備をして、森のようちえんは始まっておりました。

森の中(かつて栗林だったとか)に走り回れる空間ができており、隅に道具置き場と思われる小屋があります。広場の中心には円形のかやぶき小屋があります。かやぶき小屋には、絵本を座って読んでいる一団、大人に読んでもらっている一団がいました。ツリーハウスもあります。物語に出ていそうなすてきなツリーハウスは人気の場所で、子ども達は入れ替わりたちかわり、登ったり下りたりしていました。

c0115560_20315892.jpg
テーブルがいくつかあります。一つは、木工ができるように、木切れや釘、のこぎり、かなづち、万力が用意されています。薄い板切れを万力に挟んでのこぎりでゴシュゴシュ、切った二枚に釘を打つトントン。挑戦しているのは男の子がほとんどでしたが、うまいものです。別のテーブルには、お絵かきができるように、あるいは食事の準備ができるように用意されています。

遊具はないのかな?いえいえ、自然と同化していますが、よく見ると二本の木の枝にロープを渡したターザンロープがあり、丸太でやぐらを組んで、ブランコも作ってあります。

荷物を運ぶ一輪車も遊具と化し、荷台を外し、椅子をはめると一人用のタクシー?になっていました。運転手一人、お客が一人で代わり番こ、右往左往。丸太を薄く切った木切れの「お皿」で、おままごとも始まっています。

広場のすぐ近くの茂みに入って、キイチゴを摘む一団がいます。茂みの近くでは、「かいかいの木(漆の木)」に気を付けて、と男の子に教えられました。クマが出るかもしれないから一人で入っちゃダメとも。

昼食近くになると、昼食づくりの準備を皆でします。まな板と包丁のあるテーブルでは、食材を切る一団。サラダを作るようです。コンロの周りでは、マッチで火をおこし、炊事のためのかまどの準備をしています。お味噌汁を作るようです。この日の活動は、3歳児から5歳児まで一緒でしたが、年長さんがリーダーシップを取り、年少の子ども達は後についてチャレンジする光景がほほえましかった……。子ども達に「エミさん」と呼ばれていた小菅江美さんは、とてもタフでした。お母さんからなかなか離れられない子どもに寄り添ったり、遊具の取り合いになった二人の言い分を聞いたり、ハサミやクレヨンの片づけが悪いと注意を促したり。

c0115560_20324642.jpg
1950年中頃、デンマークの一人の母親エラ・フラタウ氏によって「森のようちえん」活動は始まりました。「子どもたちに幼いころから自然と触れあう機会をあたえ、自然の中で、のびのびと遊ばせたい」という願いが込められています。その後、デンマークはもちろん、ヨーロッパ各地、特にドイツに多く普及しました。

日本でも、2005年の「森のようちえん全国フォーラム」を経て、2008年「森のようちえん全国ネットワーク」が発足しました。当初は24団体でしたが、設立発起人の一人に上越在住の小菅江美さんがいました。小菅江美さんは「NPO法人 緑とくらしの学校」・「森のようちえん てくてく」を主催する、この活動のまさにパイオニアです。

c0115560_2033619.jpg
小菅江美さんは、この全国ネットワークが組織される以前、2004年に単身デンマークに渡り、森の幼稚園で研修を積み、上越に「森のようちえん」を開くことを決意します。不定期の「森の子育て広場」から毎日通える「森のようちえん」へ向けて、参加者・協力者も一人から始まりました。現在の場所(てくてくの森)で毎日開いているようちえんとして入園式を開けたのは、2007年のことです。現在は、子育て支援事業のほかに自然体験支援事業(小学生以上の日帰り・宿泊型の自然体験プログラム)そして、くらしの提案事業(無農薬米作りや保存食作りなど)の事業が行われています。

全国規模で展開し始めた「森のようちえん」は、ほとんどがNPO活動であり、認可外保育を行っています。(ゆえに「ようちえん」の表記はひらがなだとか)それゆえ、自由で自主的な取り組みができるメリットがありますが、費用負担や開かれた場所ゆえのリスクなどの問題点もあるでしょう。
鳥取県や長野県では、行政が補助事業として認証制度(運営費を補助する・保育士の養成)なども始まっているそうです。三重県の大台町の「大杉谷自然学校(NPO法人」では町おこしに繋げようという動きもあるようです。上越でも、小菅さんが積み重ねた経験を、豊富かつ貴重なメソッドを、広く多くの人につなげていってもらいたいと思いました。

息子夫婦の育児は、「自宅内の子育て」から公園、保育園、幼稚園、学校と漸次広い社会に出ていくのだと思いますが、どんな選択をし、どんな決断をしていくのか楽しみです。
[PR]
by terakoya21 | 2016-09-22 08:30 | 上越だより

上越だより (てらこや新聞135号 下西さんのコーナーより)

「薫風の空を飛ぶ、翼」
松阪の皆さま、お変わりありませんか。

そちらはもう梅雨入りして湿っぽい空気に包まれているのでしょうか。体調を崩していらっしゃいませんか。新潟・上越は比較的(松阪に比べて)梅雨の時期は短く、梅雨明け直前の集中豪雨の懸念はありますが、梅雨といっても関西地方ほど深刻ではありません。今年は6月10日現在でもまだ梅雨入りしておらず、今年の冬の小雪と相まって、水不足が心配されております。(もたもた原稿を書いているうちに、当地も13日に梅雨入りしました)

さて、今月はうっとうしい気分を一新する話題を。

皆さんは、パラグライダーをご存知ですか。ご覧になったことはありますか。細長い楕円形のパラシュートを翼として開いたまま風を受けて飛び立ち、上昇気流をとらえ滑空するスポーツです。

c0115560_15132549.jpg


パラグライダー機の構造を説明すると、この細長い楕円形のパラシュートは「キャノピー」といい、横幅9m~13mで、ナイロンやポリエステルなど裂けにくい合成繊維でできています。体格によって適合するサイズがあります。キャノピーは、人が乗る座席「ハーネス」に、「ライン」というコードで、繋がれております。ラインの全長は300mから500mにもなります。ハーネスの手元には、操縦するための装置「ライザー」「ブレークコード」があり、スピードや方向をコントロールすることができます。翼であるキャノピーと座席に当たるハーネスとの距離は、最短で7mくらいでしょうか。

パラグライダーは、動力なしに自然の力を借りて滑空するわけですが、効率よくしかも安全に飛ぶためには、航空工学の知識や気象学をもとに、「風をよみ、風をつかむ」能力が必要になってきます。

さあ基礎知識の学習ができたところで、テイクオフ。地面にキャノピーを広げ、キャノピーにつながるコードなどを広げます、入念に。キャノピーの空気の取り入れ口(エアインテーク)から空気を取り込みます。地面のキャノピーが風をはらんで浮き上がってきたら、ハーネスを装着したライダーは斜面を走り、さらに風をとらえて浮き上がる……

上越市吉川区の尾(お)神(かみ)岳(だけ)スカイスポーツエリアは、このパラグライダーのメッカです。「パノラマハウス」があるパラグライダー基地(標高650m)には、各種の大会も行われます。「パラグライダースクール」では、インストラクターがおり、体験コース・ライセンスコースなど難度に応じた指導を受けることもできます。「スカイトピア遊ランド」は、宿泊施設としても活用されています。

尾神岳は日本海に面していて、海から10km内陸に入った上越市の北東に位置している。尾神岳からの展望は雄大で、正面に頚城平野、日本海、左手に妙高連山、右手に米山、佐渡を望み特に日本海に沈む夕日は圧巻だ。尾神岳は『星の王子様』に出てくる、ウワバミがゾウを飲み込んだような、台形の格好をした山で、南北に稜線が長いため、リッジもサーマルも楽しめる。
(イカロス出版『日本全国フライトエリアガイド』より)

c0115560_15135735.jpg
フランスの作家サン・テグジュペリの『星の王子様』では、冒頭の一節で、大人は「帽子」としか見えない「絵」を子供は「ウワバミがゾウを飲み込んだ絵」だと言い当てる…というストーリーがありますが、尾神岳の山容を表すのに言いえて妙だと思いました。(飛行機乗りだったサン・テグジュペリが、この山を見たらきっと飛びたいと思うんじゃないかな?)

つまり、海に面した西側は、斜面を這い上がる暖気上昇気流「サーマル」が起こりやすい場所で、しかも急斜面なので、地形による上昇気流「リッジ」も起こりやすい場所なのです。

6月4・5日に、上越市吉川区にてパラグライダーの「新潟県知事杯争奪尾神岳スカイグランプリ」がありました。昭和61(1986)年から始まったパラグライダー大会は、今年で30回の記念大会で、国内トップ選手を交えて72人が参加しました(日本ハング・パラグライディング連盟公認ジャパンリーグ対象大会)。今回の競技は、何ヵ所かのチェックポイントを順に通過して着地する速さと正確さを競うものです。チェックポイント通過の判断は、GPSで行います。ちなみに、4日のレースで1位の選手の成績は、距離約30kmで飛行時間1時間15分(時速21km)でした。
4日に、私もパラグライダー基地に行って、パラグライダーが離陸する瞬間を見ることができました。大会で、選手が次々と飛び立つテイクオフの時刻に間に合わなかったのが残念でしたが、2人のライダーの飛び立つ場面を見ることができました。

c0115560_15143298.jpg
尾神岳の標高は757mですが、奇しくも松阪の名山、伊勢三山の一つ「堀坂山(ほっさかさん)」の標高も同じ757mです。私の出身中学(西部中学校 すでに廃校となる)の校歌にもその名前が読み込まれていました。中学生のときには、遠足で登ったこともありますが、足の裏にマメができて、痛さとともに記憶がよみがえります。あの頃は、山の緑がきれいだの、空気がおいしいだの思いもよらず、山頂からの見晴らし、例えば伊勢湾が、地図通り見えることに感激していたように思います。
古来多くの山は信仰の対象でした。「堀坂山」も富士信仰のゆかりの場所と言われています。尾神岳については、定かではありませんが、山の名「オガミ」が「拝む」に通じているかもと、独自に解釈しております。山麓で見つけた石仏群にそんなことを思いつきました。

パラグライダー基地のある「パノラマハウス」からの眺望はすばらしいものでした。遠くに海岸線と日本海、足元にきらきら光るのは田植えを終えた田んぼです。緑に染まった森は、ヤマツツジの朱色やヤマボウシの白が彩っています。パラグライディング日和の微風を頬に感じながら、ウグイスやホトトギス・シジュウカラの声にも癒されました。10歳若ければ、私も飛んだかもしれませんね。

では、この辺で。カラ梅雨・猛暑が予想されるこの夏、お互いに無事に乗り切りましょう。

隆子 拝

6月16日
[PR]
by terakoya21 | 2016-07-24 08:30 | 上越だより

上越だより (てらこや新聞134号 下西さんのコーナーより)

*てらこや新聞134号は2016年5月15日に発行されました。

「上越・妙高の旅」

松阪のみなさん、お変わりありませんか。

ここ上越では、観桜会で始まった春の盛り上がりは、いったん静まりましたが、桜に続いて、足元にはパンジー・菜の花・チューリップ、灌木の満天星つつじ・つつじ、頭を上げると八重の桜に交じって藤がみごろになってきました。戸外に出るのが楽しみな今日この頃です。

c0115560_12402543.jpg
4月12日・13日に、学生時代の友人4名が高田に遊びに来てくれました。かれこれ40年来の付き合いです。そこで地元に住む私がツアー・コンダクターになって、ミニ同窓会の計画を立案することになりました。

この時期は、高田公園のお花見、特に夜桜を見てもらいたいと考えました。また、温泉にも入りたいということで、赤倉温泉に宿を取りました。友人の一人が歴史通だったので、春日山、林泉寺もはずせません。「高田の雁木」を社会科の教科書で習った世代ですので、雁木も見てもらいたい。岩の原ワインも紹介したいし、前島密の記念館もいいな、と思いましたが、車の運転に自信がなかったので、なるべく公共交通機関を使っての旅にすることにしました。

4月12日、北陸新幹線上越妙高駅に、東京方面から、ナオミさんとトモコさんが12時35分に到着し、金沢方面から、マキコさんとシチコさんが12時58分に到着しました。さあ、上越の旅の始まりです。

上越妙高駅西口には、予約しておいた中型タクシーが待っておりました。ちょっと窮屈でしたが、タクシーに乗り込んで、約1時間の「上越妙高駅」から「春日山駅」までの「歴史に触れるコース」スタートです(但し、電車では10分ほどの距離)。

①スキー発祥の地である金谷山駐車場まで行き、「レルヒ少佐の像」にあいさつをし、上越市街や日本海を遠望。

②上杉謙信の居城があった春日山の登り口でもある春日山神社に参拝。この神社は児童文学の父・小川 未明のゆかりの地でもあります。「謙信の銅像」を写真に収める。

③林泉寺へ。総門・山門の向こうに本堂があり、宝物館がありますが、時間の都合で、門前で集合写真。

④春日山城史跡広場・春日山城ものがたり館。発掘された土塁や堀の一部を見て、山城の大きさを実感。

⑤春日山駅着。タクシーはここまで。1時間20分の利用だったのに、1時間料金にまけてくれました。
c0115560_1241710.jpg

⑥ここからえちごトキめき鉄道妙高はねうまライン(略称 トキ鉄)に乗って、妙高高原駅へ。新幹線が開業するまでは信越線だった路線で、途中の「二本木駅」では、スイッチバックを体験。これもおすすめのポイント。

⑦妙高高原駅で下車。宿の送迎車に乗り換え、無事温泉宿に到着。5時からちょっと早めの夕食。高田の夜桜を見に行くためのバスが6時過ぎにでます。赤倉温泉の宿泊客を集め、ライトアップした高田公園に向かう。約1時間の夜桜を楽しんだ後、再び赤倉へ。宿で温泉につかり、第1日目は終了。

2日目は、宿のある赤倉温泉から妙高高原駅に向かう途中、池の平「いもり池」にて、秀峰「妙高山」と対峙し、咲き始めた水芭蕉を見ました。妙高高原駅からトキ鉄に乗って、再び高田に。高田駅周辺の雁木通りや町屋を散策し、寺町界隈を案内し、高田駅にて、修学旅行?は解散になりました。眠っている時間以外は 喋り通しの2日間、厳密にいうと24時間ぽっきり。

私達が宿泊した赤倉温泉は、「硫酸塩泉」「炭酸水素塩泉」の混ざった湯で肌にやさしい「中性」の美人湯?でした。この赤倉は妙高市にあります。上越市の南隣で、市名の由来になった「妙高山」(2445m)の麓の地域です。妙高戸隠連山国立公園に指定されており、観光の面では、冬季のスキー、登山やトレッキング、関・燕・赤倉・池の平などの温泉、ゴルフやリゾートとして、四季を通じて親しまれています。

c0115560_12423966.jpg
赤倉温泉は、江戸時代文化13(1816)年に開湯した温泉で、高田藩営の温泉でした。したがって今年は、開湯200年にあたります。

この一帯は高田藩領でしたが、源泉である地獄谷は「宝蔵院」という幕府にゆかりのある寺院の領地でした。源泉の地権者と、温泉を引きたい地元民との要望の折り合いをつけることが難しかったようです。時間をかけた交渉の末、時機を得て、藩と民の資金で、藩が温泉を引く工事に着手しました。高田藩(藩主 榊原政令)でも、新田開発と殖産興業の目論見があったわけです。

温泉場にする土地を決め、源泉から太い竹をつないで湯を引き(全長約5㎞)、共同浴場を作りました。次の年には、殿様用の御殿をはじめ、温泉宿11軒に商店4軒や農家4軒もでき、原野に新しい街ができたことをうかがわせます。(『赤倉温泉沿革史』渡辺慶一著による)

c0115560_1243841.jpg
赤倉温泉にゆかりのある文化人の一人に、明治の美術界の巨匠・岡倉天心(1862~1913)がいます。天心は、明治39(1906)年避暑の目的で赤倉に訪れ、6000坪もの土地を購入し、明治40年に別荘を建て、避暑に毎年訪れておりました。大正2年8月、東京から病気の転地療養のため赤倉の山荘に訪れましたが回復に至らず、9月2日に赤倉で51年の生涯を終えました。

天心が娘にあてた手紙には、赤倉をほめて次のように伝えています。

家の背には妙高山、神名山、黒姫山、伊須那山」の山々が緑の屏風のように巡っていて(「高岳翠屏に廻し」)、「遠くは佐渡の島を見渡し、前には米山等の連山に臨」むことができます。「家には玉の如き温泉、瀑布の如く流れ出し、庭には山川流れており、天下の絶勝」です。

天心の山荘跡は、現在天心公園になっており、かわいい「六角堂」が建っております。法隆寺の夢殿を模したといわれています。

c0115560_1243319.jpg
4人の友人を案内することで、私も「旅人の目」で住んでいる街を見ることができ、新鮮な体験になりました。上越の人のおもてなしの心を知る機会にもなりました。

新緑の季節、みどりのしたたる高原にいらっしゃいませんか。とれたての海の幸山の幸を食べにいらっしゃいませんか。

隆子 拝
4月20日 
[PR]
by terakoya21 | 2016-06-20 08:30 | 上越だより

上越だより (てらこや新聞132-133号 下西さんのこーなーより)

「謙信の勝負飯」

松阪のみなさま、お変わりありませんか。

気温の高低差が激しい早春の候、体調管理が大変でしたが、私は風邪もひかず乗り切りました。早々と雪が消えたのは、何よりでしたが、雪景色が来年まで見られないのは寂しくもあります。

今回は、食いしん坊さんにお楽しみの話題を。

上越には「謙信の勝負飯」というメニューがあります。2010年10月に上越コンベンション協会が認定した 上越ブランドのメニューで、現在11軒の飲食店が、提供しております。

その条件は3つ。
①飯に湯をかけて食べる事。つまり丼物で、ご飯の上にいろいろの惣菜がトッピングされていて、必ずお湯か出し汁をかけて食べる事。
②上越産米を使うこと。
③食べた後、梅干を食べて身を清める事。

お店によって、そのトッピングの内容が変わってくるわけです。

c0115560_2019585.jpg
上杉謙信は戦国武将の中でも負け戦をしなかったそうで、勝率9割7分(69戦43勝24分2敗)の強さにあやかって、「謙信の勝負飯」とネーミングしたメニューが誕生しました。先日、初めてその「謙信の勝負飯」を食べる機会が巡ってきました。

北陸新幹線が開通して1年になります。節目の時期に、当地ではさまざまなイベントが企画されております。

3月12・13日に「上越妙高駅」開業1周年記念のイベントが同駅東口イベント広場にて開催されました。「国際ご当地グルメグランプリ選抜特別大会in上越」という長い名前のイベントです(上越コンベンション協会主催)。

北は北海道室蘭の鳥から揚げ「ザンギ」、南は沖縄「宮古島ホルモン」が参加し、上越市の名物「するてん」「ホワイト焼きそば」「メギスのじゃこ天」は勿論のこと、県下でも有名なグルメ「柏崎鯛茶漬け」「糸魚川ブラック焼きそば」をはじめ、姉妹都市や北陸新幹線の沿線都市などの縁で、28種類のご当地グルメと、2種類の海外グルメ(タイ汁麺・パキスタンのオジュリ丼)の屋台が「上越妙高駅」東口イベント広場に集結しました。食べたいメニュー(300円~500円)を選び、1品ずつに投票券に当たるメダルを受け取ります。メダルをお気に入りのメニューに投票して、点数を競い、順位を決めます。

「謙信の勝負飯」はこのグルメ合戦に出陣しました。品和亭(上越市 吉川区)の勝負飯「甘からとり湯漬」は、ご飯のトッピングの目玉が、甘辛く味付られた鳥唐揚げでした。他にオータムボエム、ゼンマイの煮物、オニゴショウで調味された南蛮味噌、梅干に、かつお出し汁がかけられました(500円)。
c0115560_2019335.jpg

オータムボエム、そしてオニゴショウをご存知でしょうか。両方とも、「上越野菜」に認定されています(市の振興協議会による)。オータムボエムは、またの名をアスパラ菜といい、新潟で冬から春に出回る菜っ葉の一種です。「三重のナバナ」もちょっと苦味があっておいしいですが、オータムボエムはより歯ごたえがあり、甘みがあり、とてもおいしい野菜です。アスパラの味に似ているのでアスパラ菜といい、オータムボエムとは種苗メーカー「サカタのタネ」のネーミングだそうです。野菜らしからぬ名前で、みなに親しまれています。オニゴショウは、ピーマン型の唐辛子で、上越伝統野菜として認定された11種類の中の一つです。

私は取材のため、2日間に試したメニューは、「謙信の勝負飯」の他に「サザエの炊き込みご飯」(新潟出雲崎町)・「宮古島ホルモン」・「静岡おでん」・「サバサンド」(新潟柏崎市)・「やひこ娘イカメンチ」(新潟弥彦村)・「タイ汁麺」でした。前評判の高いメニューには長い行列ができて おり、または早々と売り切れておりました。それにしても、今回は取材費が高くつきました(自腹ですから)。

さて、グルメグランプリの結果、1位は「柏崎鯛茶漬け」、2位は「越後もちぶた串焼き」(新潟市)、3位は我らが勝負飯「甘からとり湯漬」でした。「謙信の勝負飯」は、一品の中にいろいろな味わいが盛り込まれていました。おいしかったのはいうまでもありませんが、身びいきというか、その  存在を内外の人に知ってもらいたいという思いから、私も「謙信の勝負飯」に3票も投票いたしました。

c0115560_2020899.jpg
屋外のグルメグランプリと並行して、東口おもてなしドーム(屋内)ではステージイベントが行われ、吉本興業のタレントさん(中川家)を始めとして、地元の商店街のアイドルグループ「がんぎっこ」のお嬢さんたちや甲冑姿の「上杉おもてなし武将隊」も登場しました。イベントの来場者は、63000人になったようで、薄曇りの肌寒い天気でしたが、新幹線駅周辺は沸騰していました。

北陸新幹線が開通して1年が経ちました。東京まで2時間、金沢や軽井沢まで1時間という利便性は否定できません。しかし、JR在来線の廃止(第三セクターによる運営)によって人の流れが変わり、さびれていく地域が出てくる未来図が見えているのも現実です。

高田公園では、「第91回 高田城 百万人観桜会」の準備が始まりました。松阪ではもうつぼみがふくらみ始めましたでしょうか。

では、この辺で。ごきげんよう。さようなら。
[PR]
by terakoya21 | 2016-05-15 20:21 | 上越だより

上越だより (てらこや新聞131号 下西さんのコーナーより)

*てらこや新聞131号は、2016年2月15日に発行されたものです。

「雁木のある風景」

拝啓 立春は過ぎましたが、遅れてやってきた冬?のため、まだ雪の日が続いております。でも、日あしに変化が見え始め、雪が降ってもあまり積らず消えてくれます。冬の我慢ももうすこしという時候になってまいりました。今年は、上越地域でも暖冬で、例年になく小雪でした(今のところ。最深60㎝)。楽な冬でしたが、日本海側の気候ゆえ、曇りや降雨の日が多いのは例年と変わりありません。天の気に逆らえませんから、「雪がこの程度でうれしいね。」が今年の冬のあいさつになりました。

たいへんご無沙汰いたしましたが、皆様お元気ですか。ちょっとお休みのつもりが、筆不精の本性ゆえ長い休暇になってしまいました。もはや「冬眠」の言い訳もできず、PCに向かっております。

今回は雪国のならではの話題を紹介しようと思います。

c0115560_2035391.jpg
2月6日、「あわゆき道中」というイベントが、上越市本町にある市所有の町屋「町屋交流館 高田小町」を中心に行われました。これは、「越後 高田あわゆき組」と「高田(たかだ)瞽女(ごぜ)の文化を保存・発信する会」(NPO法人)が共同で企画したものです。

「越後高田あわゆき組」主催の催し物は、当地の冬の防寒着である「角巻(かくまき)」(女性用)や「とんび」(男性用)を羽織って、雁木の下を歩こうという趣向です。

私は、桃色の「角巻」を借りることにしました(レンタル料500円)。ぼってりしたマント状で、襟の部分にボアがついていました。「あわゆき」と書いた幟(のぼり)のもと、15名ほどの御一行様は、雁(がん)木(ぎ)のある通りの「街歩き」をしました。折からの小雨が雪に変わるあいにくの天気でしたが、雁木の部分は濡れずに済みました。

c0115560_20371093.jpg
上越市のホームページでは、「雁木とは、家の前に出した庇(ひさし)の呼び名。雁木通りは、道路沿いの家々が 庇を延ばして冬の積雪時の通路を確保する雪国の暮らしの知恵です。江戸時代前期から整備され……」と紹介されています。庇の下は町屋の私有地ですが、だれも公道のように通ることができます。私有地なので多少段差もありますが…。

平成21(2009)年に行われた「高田市街地歴史的建造物現況調査」の結果では、総延長約16㎞を確認されています。この長さは全国一を誇ります。この調査をまとめた『町屋読本 ――高田の雁木町屋のはなし――』を読んで、一般に雁木と呼んでいるものは、単に家屋の軒から庇を長く張り出した通路の形態だけでなく、町屋の内部にも特徴的な構造を持っていることを知りました。

平均的には間口約4.5m・奥行約50mという長細い敷地。建物が道路寄りに建てられ、裏側に庭や畑が作られ、表側は各戸が窮屈につながって見えますが、裏側では、垣根もない広い空間(庭や畑)ができていること。長い奥行の空間が、生活の場と仕事の場を提供していること。

この日の「街歩き」の途中で、歴史的建造物として公開されている町屋の一つ「旧 今井染物屋」(大町)に立ち寄りました。約150年前の建物で、雁木に面した表側は、黒い格子の外観です。建物に入ると「チャノマ」と呼ばれる部屋は吹き抜けになって、天窓から採光できるようになっています。土間が、奥に長く伸び、家業の反物を染めたり干したりできるような仕事場になっておりました。また、作業場には内蔵もあります。

c0115560_20373841.jpg
今井家の雁木は、道路に面した通路の上の部分、二階部分が居室になっており、造り込み式と呼ばれております。この部屋は住み込み従業員の部屋になっていたそうです。

もう一つのイベントは、「高田瞽女の門付け 再現」です。「瞽女」とは、盲目の女旅芸人のことで、親方の家に住み込みで生活しながら芸を身につけ、生活の糧を得ていました。主に三味線と唄の芸で、瞽女(ごぜ)宿(やど)と呼ばれる家の座敷や、戸別の軒先がパフォーマンスの場所でした。瞽女さんが外出するときは、わずかに視力のある瞽女さんが先導役になり、盲目の人は前の人の肩につかまって一列になって歩きます。瞽女宿には、地主や庄屋といった土地の有力者の家がその役を担ったそうです。

この日は、角巻を羽織った旅装束の4人の瞽女さん役が登場しました。三味線と瞽女唄を継承した月岡 祐紀子さんが先頭で、公募で選ばれた3人とともに、門付けが再現されました。雁木を歩く瞽女さんの姿は やはり「絵になる」光景なので、カメラマンもいっぱい付き従っていました。私もそのひとりですが。

戦後40年ころまで活動していた「高田瞽女」の姿を、子どもころの思い出と共に記憶している人も、まだおります。そして、その瞽女さんの姿は、斉藤真一さん(1922~1994)の絵画や「越後瞽女日記」を通しても見ることができます。

斉藤真一さんが描いた瞽女さんの絵画や資料を、北海道在住の池田敏章さんは私財をなげうって収集しましたが、160点ものコレクションを、高田瞽女ゆかりの上越市に寄贈してくださいました(平成23年)。

c0115560_20381375.jpg
また、「高田瞽女」を後世に伝えるべく、「高田(たかだ)瞽女(ごぜ)の文化を保存・発信する会」が平成23年に発足し、国登録有形文化財の町屋「麻屋(あさや)高野(たかの)」(東本町1)を改装して「瞽女ミュージアム」が平成27年11月に開館しました。上越市に寄贈された池田コレクションも、その一部がここで展示されることになります。

このように、瞽女さんに多くの人々が魅かれ、多くの人々が記憶に留めようとするのはなぜなのでしょうか。盲目というハンデキャップを持ちながら、芸を磨き、自分の身を律し、自立した女性たちに対する称賛でしょうか。過去のものに対する敬意でしょうか。失われたものに対するノスタルジーでしょうか。瞽女さんに、民衆の文化の結晶を見たからでしょうか。

そうそう、この日のイベントの拠点となった「町屋交流館 高田小町」は明治時代の総合問屋「旧 小妻屋」の建物を上越市が再生・活用したものです。ギャラリー・和室・多目的ホールを備えた施設で、外観は雁木通りに連続していますが、室内は町屋の持つ重厚さもあれば、モダンで清潔感もあります。リフォームを担当したのは、上越市在住の建築家・関(せき)由(ゆ)有(う)子(こ)さんで、彼女は、「あわゆき組」の中心メンバーでもあります。

この日のイベントは、雪の越後の、いにしえからの文化を堪能する一日になりました。長くなりましたが、近況を報告させていただきました。

それではこの辺で。みなさまのご健康とご活躍を祈念しております。      かしこ

[PR]
by terakoya21 | 2016-04-22 20:39 | 上越だより

上越だより (てらこや新聞127号 下西さんのコーナーより)

「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」

新潟県十日町市・津南一帯は、「越後つまり」と呼ばれており、「妻有」と書かれています。上越市に隣接する地域で、新潟県の中央部で、一部分は長野県とも境を接しております。上越と同じか、それ以上の豪雪地帯です。多くが農地や山林で、信濃川をはじめとする河川流域は、河岸段丘の地形をつくり、あるいは谷が入り組み、峡谷には柱状節理の絶壁もあるダイナミックな土地です。

c0115560_16574313.jpg東京23区を越える面積(762㎡)の「越後妻有」では2000年から、上越市出身のアートディレクターである北川フラムさんを総合ディレクターとして「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」(3年毎)が開かれています。第6回大地の芸術祭は今年の7月26日から9月15日まで開かれました。

猛暑も納まった9月5日、アート探訪に出かけてきました。上越市から一番近い会場が「農舞台・松代中央  エリア」なので、そちらに向かいました。ここは、北越急行(通称ほくほく線)の松代駅のすぐ近くです。
第1回目(2000年)に作られたイリヤ&エミリア・カバコフの「棚田」は健在でした≪福島さんが耕作する棚田に、農作業をする人々の姿をかたどった彫刻が置かれている≫。棚田はちょうど実りの季節、刈取り寸前の風景になっていました。

第2回目(2003年)に作られた草間彌生の「花咲ける妻有」もますます存在感を増していました≪水玉模様の巨大な花のオブジジェ、赤・黄・緑・青・黒の原色が使われている≫。こんな場所にあるはずのない、あるべきでない構造物が、なぜか田舎の風景に受け入れられていると感じました。あるいは、ビッグネームにひかれて許容してしまったのかもしれませんが、これを見て心弾む心境になったのは事実です。

c0115560_16585214.jpg
まつだい雪国農耕文化センター「農舞台」≪オランダの建築集団MVRDVによる設計2003年≫は、アート作品の他、情報や食事の提供もしていました。センター入り口は、6個の巨大なカエルがお出迎え。ごみ箱かな?いいえ刈り終えた草をたい肥にするマシーンでした≪ゲロンパ大集合 大西治・大西雅子作 2009年≫。

子どものために、遊具も作られており、和やかな空間がありました。滑り台≪イエロースライダー 橘宣行作 2004年≫≪スキマをすすむ ゼロゼロエスエス作 2004年≫、メトロノームのような形のブランコ≪サウンドパーク 岩井亜希子×大場陽子作 2009年≫。

c0115560_16592820.jpg
十日町市の山間の地域である鉢地区にあった真田小学校が、在校生が3人となり、廃校となりました   (2005年)が、童話作家田島征三さんと地域の人たちの手で、この小学校の建物が「絵本と木の実の美術館」に生まれ変わりました(2009年)。生まれ変わったといっても、学校はほとんどそのまま。閉校前に黒板に書かれた文字もそのままなら、在学中の子ども達が描いた版画やモザイク画も飾ってありますし、教室を表示するルームプレートもそのまま。変わったといえば教室に、彩色された流木や乾燥した草や木の実などで作ったアートがぶら下がっていることだけです。おもちゃ箱をひっくり返したような、の比喩がぴったりのにぎやかさです。子ども心を忘れかけた私にはちょっとびっくりな空間でしたが、子どもや若い大人には大うけでした。

c0115560_16593736.jpg
田島さんは、この美術館をつくると同時に『学校はカラッポにならない』(絵本の杜)という絵本も出しました。ちょうど、この美術館の趣旨説明のような絵本です。絵本を立体化したような美術館、「空間絵本」というキャッチフレーズに納得です。第6回の芸術祭にむけて、「こころ そらとぶ のへや」≪友愛学園+田島征三+ 絵本と木の実の美術館≫がリニューアル展示されていました。

私が卒業した阿坂小学校も木造でした(今は建て替えられています)。1学年45人のクラスメートは、ほとんど幼なじみでした。旧真田小学校の講堂に入ると、秋の学芸会の記憶がよみがえってきました。木の階段や廊下も、木目が浮き出てテカテカしていました。学校とは、不思議な場所、タイムトンネルのような場所です。

c0115560_1701630.jpg大地の芸術祭は13日に終了しましたが、好天に恵まれた9月20日、星峠の棚田を見に行きました≪大地の芸術 体感拠点 峠の棚田≫。棚田の総面積30haは、1枚の田んぼの面積は30aから5a足らずのものまであり、約200枚が階段状に広がっています。風景は見事なものですが、ここで耕作する人々の苦労を思わずにはいられません。ちょうどシルバーウィークとあって、棚田ビューポイントには、20台ほどの県外ナンバーの車が並んでいました。神奈川や千葉、群馬、京都からのお客もいました。

北川フラムさんの著書『ひらく美術 地域と人間のつながりを取り戻す』(ちくま新書)で紹介されていたことですが、この棚田を作った「峠」集落のルーツは、「約440年前、信長に追われた三河・尾張・伊勢の一向宗の門徒たちが北陸転戦に破れ、命からがら逃れて来たのが山深い豪雪のこの地だった」「その出自を秘して目立たぬように生活してきた」とのことです。自然の風景に見えて、これも、人が丹精した造形物なのです。長い時間と住民の思いの結晶と考えると、単に美しいでは言い表せない哀感が迫ってきます。

世界のアーティストを巻き込み、土地の人々を巻き込み、来場者を巻き込む大きな動きになっています。 目に見え触れるアートばかりではなく、演劇や音楽も連動して楽しめるようです。

また、回を重ねるごとに作品が累積し、参加する村落が増え、来場者が増えています。東京に住む私の娘もその一人ですが、リピーターも多いようです。夏休みに「故郷に帰る」感覚の人も増えているのかもしれま せん。

この芸術祭の基本理念は「人間は自然に内包される」ですが、広域に点在するアートを求めて、山奥の集落までも、動き回らなければなりません。そのデメリットを、北川さんは『ひらく美術』で「美術情報を得るというよりは、作品に導かれての巡礼のようなもの」弁明しています。実に言い得て妙です。美術館では味わえない経験がそこにあります。
[PR]
by terakoya21 | 2015-11-08 08:30 | 上越だより

上越だより (てらこや新聞126号 下西さんのコーナーより)

「ある越後びとのお伊勢参り」

上越市清里区荒牧に上越市の「公文書センター」があります。上越市誌編纂の過程で収集された資料や、個人から寄贈された家の文書・記録などが、収集・整理・保存されています。現在約17万点の資料がカード化・データ化されて、また、現物やマイクロフィルムでの閲覧も可能になっています。

私が「公文書センター」に出入りするきっかけになったのは、古文書ボランティア参加のためです。上越地域には、膨大な古文書や古記録が残されており、 未整理の文献もたくさんあります。「古文書ボランティア」が企画され、実施されています。蔵出しの資料のほこりを払い、ラべリング(年号・題名・差出人・受取人などを書き出す)をします。そこには、武士階級以外のリアルな日常があります。 この地の先人の生活の一端を知ることができます。膨大な資料数を前にして、ボランティアの力は微々たるものです。が、月2回のボランティアに出かけては、筆文字に親しみ、「読みの精度」を磨く努力をしています。

c0115560_9532014.jpg
「公文書センター」に眠っていた「山田家文書」の中の一つ「道中日記」を解読する機会をいただきました。この道中日記は、安政3(1856)年1月14日(新暦では、2月23日ごろ)から3月10日(新暦4月20日ころ)まで56日間の旅行の記録です。筆者の田中治郎右衛門は、庄屋で地主・山林地主であったようです。そして、この旅には、二人の同行者もいたようです。

見かけは「お伊勢参り」ですが、京都・大坂や奈良の名所旧跡巡りをしており、京都には10泊もしています。真冬の北国街道を歩くわけなので、天気の不順な日もあり、当然雪にも降られています。雪ばかりでなく、大雨のため、予定変更もあったようです。

道中日記には、日時・天気・旅程・宿泊場所が書かれ、その日の出金も書かれていますが、所感や感想などがほとんど書かれていません。丹念に読んでいると、旅の様子を想像することができます。いえ、勝手に類推することができるといった方がよいでしょうか。

c0115560_9552275.jpg
では、旅に出ましょう。大鹿新田の自宅(現在の妙高市大鹿)を出発し、高田(現在私が住む)を経由し北国街道を西に進みます。海が山の近くに迫る、難所の多い道を能生(のう)・糸魚川(いといがわ)・親(おや)不知(しらず)を抜け、越中(富山県)に入ります。その間9日。能生から糸魚川・青海は6里足らずの道のりですが、2日間も費やしています。吹雪で難渋した模様で、2尺(約60㎝)ほど積もるという記載があります。宿泊する宿名もはっきりと書かれてないので、緊急に泊まる場所を決めたのかもしれない。

越後を出国するため、「市振(いちぶり)」の関所を通り、越中に入るために「泊(とま)り」の関所を通らなければなりません。「市振」の関は、松尾芭蕉の「奥の細道」にも登場し、「一家(ひとつや)に 遊女もねたり 萩と月」を作った場所です。同じ宿に泊まり合わせた新潟の遊女が伊勢参りの同道を頼んだという逸話が書かれた所です。

越中に入り、魚津・富山・高岡をすぎて、加賀(石川県)の国に入ります。その間4日。金沢では案内人を雇って金沢見物をし、小松・吉崎にも出向いた後、越前の国(福井県)に入ります。その間3日。金津・福井・鯖江・武生・今庄・板取(関所あり)椿峠を越え、近江(滋賀県)に入ります。その間4日。

c0115560_9554434.jpg
柳ケ瀬には近江に入る関所があります。山中の柳ケ瀬から山路を下ると、琵琶湖北岸に出ます。はんの浦にて船に乗り、大津へ向かいます。大津まで20里。これまで徒歩で8里ほどの進捗状況でしたので、20里とは、船がいかに便利な乗り物だったのかわかります。大津で上陸し、三井寺などを参詣し、再び船に乗って、伏見を経由し大坂淀屋橋まで12里を進みます。船中泊1泊。大坂淀屋橋の宿に朝到着し、昼食後、案内人を雇って大坂観光に出かけます。

大坂・堺を通り、高野山に向かいます。高野山から吉野・多武峰・岡寺(明日香村)・桜井・初瀬(長谷)・八木・当麻・誉田・藤井寺・龍田・法隆寺・西ノ京・奈良と10日かけて、高野山から大坂東部、奈良方面を歩きます。寺社へ参詣が中心ですが、名所旧跡を巡っています。奈良から木津に出て、船で宇治に入ります。宇治から京都に入り、京都観光は11日間。宿は、六条にある詰所(荒井詰所)に連泊します。ここは、浄土真宗の信者のための宿坊だったようです。

京都の11日間の物見遊山の行程は、私が行きたいと思って、観光したほとんどの寺社を網羅していました。例えば、2月13日は、二条城・北野天神・六角堂・仏光寺・内裏・黒谷寺・真如堂・永観堂(見返り観音)・知恩院などを回っています。

京都を発ってから、山科・大津・瀬田・石山・草津・土山と2日間かけて歩き、いよいよ鈴鹿峠にかかります。10里弱の道のりを津まで一気に歩き、次の日、津から山田(伊勢)外宮近くの御師(おんし)(参宮者の案内や宿泊を業とした者)の館に着きます。

c0115560_9562349.jpg
川柳に「伊勢参宮 大神宮へも ちょっと寄り」があるそうですが、越後を発って43日目の2月26日。目的地であるはずのお伊勢参りは、たった一日半。外宮から内宮・朝熊岳・二見が浦を訪ね、帰路に着いています。

松坂では、米屋甚兵衛方に止宿(2月28日)。現在の松阪市のどの辺りなのか、気になります。松坂から四日市までの12里。快晴なので足が軽やかだったのかもしれないが、かなりの距離を歩いています。ところが、次の日は四日市から船で宮(熱田)へ向かうつもりが、大雨で、船が出ず、桑名まで3里8丁を歩いて、 桑名で船出を待ちます。翌日は雨も上がり、桑名から船で、宮(熱田)へ上陸。尾張名古屋から北上し美濃の国へ。大井より中山道に入り中津川・馬籠・妻籠・奈良井・洗馬から善光寺道に入り、麻績・丹波島・善光寺まで5日間。この間はひたすら、歩く。歩く。10里以上を歩く。そして、「(三月)十日 曇風 目出度帰国す

この道中記には、心情的なことはほとんど書かれていませんが、2月28日の項では
快晴 六つ時出立 二見浦に 日の出拝見 有難きこと計りがたし 浦の気色はなはだ面白し
と書かれていました。

この道中日記を書いた治郎右衛門さんの子孫は、現在長野県在住で、渋温泉のホテルを経営されているとか。旅のDNAが受け継がれているのかと勘繰りたくなりました。
[PR]
by terakoya21 | 2015-09-29 09:57 | 上越だより

英語塾の寺子屋かめいの元気を発信します


by terakoya21
プロフィールを見る
画像一覧