カテゴリ:しろこく's Page( 6 )

しろこく's Page ~ The Power of Japanese ~ (てらこや新聞137号 川戸さんのコーナーより)

「ナビとタオルと消せるペン」
白子国語教室主宰 川戸恵子(しろこく)

前回「戦後の手軽さベスト3」として「ベッドとシャワーとハンバーガー」を挙げた。お茶の師匠の独断と偏見による「日本人を堕落に導いたもの」なのだが,その後生活は更に変化し,新たな「手軽さ」も生まれてきた。

そこにはやはり「堕落」があるのではないだろうか。それは何かと考えて,私は,自分を堕落させた(させようとしている)ものとして,「車やスマートフォンについている道案内機能」「“エアタオル”または“ペーパータオル”なるもの」「消せるボールペン」の三つを挙げようと思う。

かつて,知らない土地やお店に行く時には,前もって地図で調べておくのが常であった。不案内な土地へ向かう時には印刷したものを貼りつなげておくこともした。車には地図(もちろん紙の)を備えておく。急なことで下調べができなかった場合でも,お天気さえ良ければ太陽の位置で取り敢えず方角だけは見当をつけ,後は道行く人に尋ねるという荒業で乗り切ってきた。しかし,今は違う。スマートフォンを使えばたどり着くことができる(それでも時々道に迷うこともあるが)。事前に道順を確かめておくことがずいぶん減った。準備しておかなくても何とかなると思っているのである。

また最近は,外出時ハンカチを忘れたことに気がついて何やら落ち着かない気分になるということが少なくなった。というのも,外出先で入ったお店やコンビニ,道の駅などのトイレには大抵“エアタオル”や“ペーパータオル”と名付けられた,ハンカチの代わりになる物が備え付けられているからである。最近は出かける前の確認は,お財布,携帯電話,お化粧ポーチとなって,ハンカチやティッシュの確認順位が以前よりも下がってしまっている。恥ずかしいことに,身支度を整えることがなおざりのまま出かけている気がする。

そして「消せる」ペン。(「フ○○○○○」がその筆記具の総称かと思っていたが,某メーカーのシリーズ名らしいので「消せる」としておく)。これまでボールペンで書くときは「失敗できない」という意識がどこかに働いていたように思う。ペンは,もちろん走り書きの際にも使うが,手帳に書き込む際や記録を取る時に使うことが多い。そこで消せないとなると,やや慎重になる。間違えて修正テープ(←これも修正インクに比べると便利な品ではないか?)のお世話になるのは極力避けたいので,頭の中を回転させ,まとめながら書いている(と思う)。しかし,「消せる」という便利さを手に入れてしまうと,以前より慎重さがなくなった。あまりよく考えることなく書いて,間違えたことに気が付くと消している。消すことを結構面白がっている自分にハタと気づき赤面する。

このように考えてみると,手軽さ・便利さは楽な反面,危うさをはらんでいると思う。前もって準備しておく,つまり自分の先の行動について段取りをつけるという,根本的な考える力を奪っているような気がするからだ。確かに,地図にしてもハンカチにしてもペンにしても,日常の些細なことだ。こうして書くほどのことがあるとは思えない,というむきもあろう。ナビで調べれば聞いて人様を煩わせることもなし,その都度温風に手をさらしたり新しい紙で拭いたりするほうが,ハンカチより清潔かもしれない。修正テープの上からペン先が引っ掛かって情けない気分になったり,間違った箇所をペンで黒く塗りつぶして見苦しいと思ったりすることもない。便利で快適,大いに歓迎すべきことかもしれない。

しかし,小さなことは大きなことにつながる。準備をして次の行動に臨む習慣のあるのと,行き当たりばったりでなんとかしてしまうのとでは,何かが違う気がする。持っている力を使い切っていないというもったいなさや,鍛えられるはずのところを易きに流れ,それでよしとてしまう気持ちの脆弱さを覚えると言ったら大げさだろうか。

それでもやはり,前日に地図で道順を調べ,出かける前にはハンカチを確認し,頭でまとめ上げてサラサラとペンを走らせる・・・そんなことを面倒がらずに当たり前にできることもまた,豊かさだとは言えるのではないかと自戒する今日この頃である。
[PR]
by terakoya21 | 2016-09-14 10:53 | しろこく's Page

しろこく's Page ~ The Power of Japanese ~ (てらこや新聞136号 川戸さんのコーナーより)

「ベッドとシャワーとハンバーガー」

白子国語教室主宰 川戸恵子(しろこく)

「ベッドとシャワー」の二つだと何か共通するものがあるようだが,そこに「ハンバーガー」が加わったときの共通点は何か――それは「戦後に広がったアメリカの手軽さ」である。とのたもうたのは,私の当時のお茶の先生である。かれこれ30年前の話だ。


夜に敷き、朝には畳んで押し入れにしまうという繰り返しを毎日する布団に比べ,布団を出しっぱなしのベッド(布団だって「万年床」があるだろうという指摘はさておき)。時間をかけてつかるお風呂に対して,シャワーは体を洗い流しておしまい。ハンバーガーは片手で食べられる(サンドイッチはもっと前からあるだろうと言いたくなるが,戦後広まったという点で,あくまでここは「ハンバーガー」らしい)。


ひと手間かけてすること,ゆっくり時間を取ること,両手を使ってすること。そういった生活のあり方は,日本の豊かさである。が,戦後アメリカをまねて「手軽さ」に傾いた。そのことを師匠は嘆かれた。


この話を聞かされた時,なるほど,とは思ったものの,既にベッドもシャワー(朝シャンなんて言葉も聞かれたし)も,ハンバーガーも,自分の生活に入り込みすぎていて,今更それらをなくして生活することなど,当時は考えられなかった。


しかし,今はどうだろう。部屋の模様替えの時に移動にえらく難儀したことから,ベッドを処分して布団の生活にもどそうかと思い始めている。また,仕事の後,湯船につかる時間ほど幸せを感じる時はない。ハンバーガーに至っては,カロリーが気になることや食べ物の好みの変化があって,ここ10年くらい口にしていない。ずいぶんな変わりようである。


便利で快適な生活を知ったら,もう後戻りはできない。しかし,なんだか居心地がよくない気もしてくる。こんな楽なことでいいのか,これが自分の求める豊かさなのかと自問してしまう。そして,自分が子どもの頃に過ごした,ちょっと不便だけれど少し手間をかけるような生活の――例えば「すりごま」を買ってくるのではなく,すり鉢とすりこぎでゴマをゴリゴリとするような――の辺りにもどりたがっている自分に気がつき,今の生活との時間の流れ方のあまりの違いに悩むのである。


[PR]
by terakoya21 | 2016-08-21 10:18 | しろこく's Page

しろこく’s Page ~the power of Japanese~

「子ども」ではなく「大人」の問題です

白子国語教室主宰 川戸恵子(しろこく)

数年前から,電車や病院の待合室などで,子どもが静かにしているのをよく見かけるようになった。が,何も「お行儀よく座っているから感心した」という話ではない。ゲーム機を手にし,ゲームに興じているから大人しいだけなのだという話である。要するに,「おもちゃ」を与えてもらっている から静かだというに過ぎない。

そのゲーム機が,最近はスマートフォン(以下「スマホ」)であることも多い。(大人でさえ,そうだ。病院の会計待ちの時,近くに座っている女性の頭が不思議な揺れ方をするのでふと見ると,スマホのゲームに夢中だった。手の動きに合わせて頭が振れていたのである・・・)

子どもとスマホということでは,少し前に仰天したことがある。テレビでNHKを見ていた時のことだ。いわゆるNHKの番組の宣伝のようなヒトコマだったのだが,それが,渋滞の車の中もスマホで子供向けの番組を見せておけば静かに過ごせますよ・・・というような内容だったからである。別の番組ではスマホの問題,子どもに持たせることの健康上の弊害やラインなどでのいじめ誘発の危険性を言っておきながら,である。これが「大人の都合」「二重基準」というものか?

――とNHKを非難するのはさておき,子どもを静かにさせるためにスマホを持たせておくという発想に,私は子供の躾という点で危機感を覚える。スマホあるいはゲーム機を持たせておけば,子どもが静かにしていてくれるので助かる。そんなことを考える親御さんも多いようだが,それは大人側の都合であり,子どものためには,少しもなっていない。

子どもが騒ぐと周りに迷惑をかけるので,取りあえずスマホやゲーム機で大人しくさせる。もちろん,一千歩譲って,静かにさせることが最優先の場であれば,致し方ない。確かに,画面を見ていれば,静かである。うるさくして人様に迷惑をかけるよりはまし,と考えるのも頷けないこともない。子どもの声に対しての寛容さがなくなりつつある社会では,子連れで肩身の狭い思いをしたことがあるという人も多いということは容易に察しが付く。

だから,病院での長い待ち時間も,飲食店で大人が話に夢中になっていたい時でも,子どもがスマホで静かに遊んでいてくれれば,大人にとってはどれほど都合がいいだろう,と考えることもわからないではない。子どもを「スマホ空間」に閉じ込めておけば,親だって自分の好きなことができる。「静かにしなさい」と目を吊り上げて注意したり,騒いだ子を外に連れ出して叱りつけて泣かせたり――などという「自分が悪者になる」ことはしなくてもいいのだから。

しかし,それは子どもの将来を考えた時に本当にいいことなのかどうか,今一度考えてみてほしい。スマホも何も持たない時,つまり「手ぶら」の状態に置かれ,静かに待っていられる子に育っているだろうか。(法事などは,絶好の機会だ。)ただ座って待っているだけのことができるだろうか。

スマホは一時的なもの,謂わば「急場を凌ぐ」にすぎない「特効薬」という位置づけにして,静かに座れるようにしつけることが大切である。学校でも落ち着いて学習できる体,人の話に耳を傾けられる集中力。それが培われているかそうでないかでは,学習態度のみならず学習の成果にも差が出てくることは明らかである。

なにもせずに静かに座っていることができる身体や気持ちを育てることは,親の役目だ。「挨拶をする」「返事をする」「履物をそろえる」というような基本的なことと同じように「お行儀よく座っている」ことを教えるのは,子どもの将来のためである。教わるべきことを教わらずに大きくなっていく子は,不幸でさえある。

それと関連するのでもう少し言わせてもらう。私は友人と或いは 家族と食事をする店を選ぶとき,「キッズルーム(コーナー)あり」などが設けられた店は,はっきり言って避ける。子ども嫌い,ではない。食事をするなら静かにしたいので,「騒々しい」だろうと想像がつくお店に入り,「やはり騒がしかった」とぶつくさ思いながらも お金を払うという,不愉快な思いをしたくないからである。

もちろん,お母さん方だって食事を楽しみたいだろう。子どもたちが騒いでも気兼ねすることなく,お母さんたち同士でゆっくり話をしたい気持ちは理解できる。そういう場合は,そういうお店があると助かるだろうということもわかる。――といって,自分が子育てをしていた頃にそういうお店があったら利用したかどうかは,何とも言えない。当時は「普通の」お店でお行儀良くすることを教えるのが,親たる者の務めだと思っていたからだ。また,気楽にできることに慣れ,それが当然になってしまうと,「きちんと」すべき時にできなくなってしまいそうで,きっと躊躇するだろう。(ジャージに慣れた胴周りをベルトで締めるのが辛いのと同じ,と言ってはなんだが・・・。)

驚くのは,「普通の」お店や電車,住宅街の路上やスーパーなどでも「子どもは騒がしくて走り回るのは当然でしょ」「元気があっていいじゃないの」などと思っている人が少なからずいることだ。やかましくすれば叱られて当然,と教えるのが子どもの周りの大人(少なくとも保護者)の責任というものである。が,「人に迷惑をかけてはいけないから静かにさせる」発想がそもそも ない人が親である場合,その子供も,「人に迷惑をかける」という意識は全くなく,自分の行動がどう思われるのか,社会的にどうなのかという視点が抜け落ちてしまうのだ。

その社会性の欠落に,スマホも一役買ってしまっているのではないかという危機感が,最近とみに募っている。スマホから子どもの顔を上げさせ,周囲には様々な風景が見られることを教えなければならない。

事は「子どもの問題」ではない。子どもに関わる「大人の問題」なのである。
[PR]
by terakoya21 | 2014-08-16 15:08 | しろこく's Page

しろこく's Page ・・・the power of Japanese・・・(てらこや新聞109号 川戸さんのコーナーより)

授業は楽しくなければいけないのか

白子国語教室主宰 川戸恵子(しろこく)

今年3月,小学校を卒業したばかりの男子生徒に中学校生活での抱負を聞いてみた。すると「しっかり勉強したい」と答える。(小学校時代はどうだったの?という突っ込みはさておいて)「なぜ?」と問うと,「勉強ができなければ学校が楽しくないから」との返答であった。

それを聞き,この生徒は,学校というものをよくわかっていると思った。つまり,学校は〈 勉強ができてこそ,自分にとって本当に「楽しい」と言える場所 〉なのである。いや,この生徒だけでなく多くの生徒がはっきりと意識はしていないかもしれないが,言葉にして問えば肯定するのではないかという気がする。「楽しい授業」という,新聞 などで時折目にする文言が「まやかし」だということに。

確かに,電子黒板などの道具を使ったりゲームの要素を取り入れたりして,授業の中でいろいろな工夫はできると思う。それを「楽しい授業」とするなら,私もかつては教員のはしくれ,そこまでケチをつけるつもりはない。しかしその「楽しさ」とやらはいつまで続くのだろうか。いや,いつまで続けられるのだろうか。

「楽しく」できることには,いずれ限界がくる。低学年のうちならいざ知らず,高学年にもなれば「楽しさ」だけでは太刀打ちできない。当の小学生たちには,それが充分身にしみている。

どんなに目新しい道具をそろえてみても,学ぶ内容の名前を変えてみても,学習内容そのものが易しくなるわけでも,なくなってくれるわけでもない。高学年,中学生と学年が進むにつれて難しくなり,気楽な調子で学習に臨んで理解できるような生易しいものではなくなってくる。最終的には自分だけが頼りなのだ。

そのとき助けてくれるのは忍耐力や集中力,論理的に考えたり表現したりする力である。しかし,それはすぐには身に付かない。ずっと培ってきて次第に発揮できるようになっていくものだ。小さいころから「楽しさ」に心奪われ,辛抱強くやりこなしていくことを避けてきた子が,自分の手に負えないものに出くわしたとき,一体どうするのだろう。あきらめ,そして自分はできないのだと卑下する?――自分の力を見極めて別の道を探す方法もある。学習だけがすべてではないという意見もあるだろう。しかし,冒頭の新中学生の言葉にもあるように,「勉強をがんばって,楽しい学校生活を送りたい」という子どもの願いに,教育に携わる大人はもっと謙虚にならなければいけないのではないだろうか。

だから,私は,「楽しい授業」という発想自体が好きではない。小さいころからの反復練習。出来たらほめる。投げ出したくなっていれば励ます。なにも運動でなくとも机上の学習でも,「集中力」や 「根気強さ」は身に着くのだ。(ただし,これには教える側にも忍耐力と冷静さがいる。だから「楽しい授業」にしておけば,「楽」である――かもしれない。)

「勉強なんて楽しいものではない。むしろ苦しいものだ。しかし,その苦しさを乗り越えた時に自分の身に付いているものに気がつけば,苦しさは喜びに変わる」

昭和のオバサンが今そんなふうに言ってはいけないだろうか。
[PR]
by terakoya21 | 2014-05-08 10:07 | しろこく's Page

しろこく's Page ・・・the Power of Japanese・・・(てらこや新聞105号 川戸さんのコーナーより)

「書く」とは

白子国語教室主宰 川戸恵子(しろこく)

作文の題材のことで,ある小学3年の男子生徒たちに質問した。

「うれしかったこと」は?すると「特にない」「思い出せへんわ」(そんなことないでしょ)では,「ほめられたこと」は?生徒「あったかなあ」「ないわ」(私,前に君のことほめたやん!)ではこれはどうだ!「困ったこと」は?生徒「え~そんなんないよ~」(困ったことがないというのは羨ましいねえ)「でも,作文で『書くことがない』って今困っているのとちがう?」「ううん,困ってへん」(えっそうなん?)

「恥ずかしかったこと」は?「そんなんない」「みんなの前で発表して照れくさかった~なんてことあるんじゃない?」「ない」(そんなに度胸あるの?)

――という,ないないづくしの,なんとも情けないやりとりがしばらく続くことになった。

唯一「ある」という答えが返ってきたのは「しかられたこと」。「これならいっぱいある」という。しかし,どんなことで叱られたのか,そのときどう感じたのかは「もう忘れた!」そうだ。「お母さんにしかられすぎて,おぼえてない~」という。

本当はいろいろあるが,何を言えばいいのかわからないのかもしれない。私には言えないことだってあるかもしれない(小3とはいえ「知られたくない」気持ちはじゅうぶんあるに違いない)。もし言葉通り本当に思い出せないなら,それはそれで幸せな ことかもしれない。しかる方のお母さんにしてみれば何とも情けない話だろうが,子どもの心に傷として残らない叱り方だったということで,まあいいではないか。と思う。が――。

本当にそれでいいのだろうか。生徒たちと話していて引っかかりを覚える。近頃の子どもは感情が希薄になっているのではないか。この子たちは一体どういう感情ならその身の裡に長くとどめておけるのだろうか。生徒の口からよく聞く「何も感じなかった」「全然考えていない」というのを私はどう受け止めればよいのか,戸惑うことがある。

近頃の子に心の動きを感じることが少なくなっていることを憂えるのは,私だけなのだろうか。飛び上がらんばかりの喜びも,やりどころのない哀しみも,消え入りたいほどの恥ずかしさも。いや,そんな大きな気持ちの動きでなくとも,ささやかな心の動きも。日々を送る以上私たちには様々な心の揺れがあり,子どもでも当然日々いろいろな感情と向き合っていると思うのだが…。自分では意識せず,また表現する術がないだけというなら,まだよい。時間の経過とともに,やがて「あの時の感情はこういうものだったのだ」と気づくことができる。

こんなふうに現代っ子を心配する私だって,劣らずぼんやりとした子ども時代を過ごしていたと思う。それでも未だに忘れられない「恥ずかしい」ことは覚えている。

小学1年生の図工の時間のことだ。折り紙を何回か折り,はさみで切りぬきを作る。開ければきれいな図形ができる。それを黒い画用紙に貼る。いくつか貼れば「花火」という作品が出来上がる――という課題であった。

自分で言うのもなんだがこういう細工は好きで,かなり細やかな模様を作り上げていた。途中で回ってきた先生によくできているとほめられたほどだった。が,そのあとがいけなかった。

どうみても雑な形にしか作れない子がその形の周りを白いクレパスで縁取ったのを先生に見せに行き,先生がそれをほめた。大人になってから思えば,稚拙な図形を見るに見かねた先生が,少しでも見栄え良くなるように助言されていたのだろうと考えられる。しかし7歳の私は先生がみんなの前でほめたのだからその方法はいいことだと信じ,自分の作品の折り紙で作った形の周りにやはり白いクレパスで縁取りをし,意気揚々と先生の所に持って行った。すると,ほめてくれるどころか先生は「作品が台無しになってしまった。アホやな,こんなことして」と高く掲げてみんなに見せた。

なぜあの子のクレパスはよくて私の白い縁取りはいけないのか,その時の私にわかるはずもなく,ただただ恥ずかしかった。みんなの前で「アホ」呼ばわりされたことも,人真似をして自分の持ち味を失わせてしまった(当時はこんな言葉では考えていなかったが)ことも,悔しくて悲しかった。――が,それを私はすぐに心の奥に封印することで,その頃の気持ちの均衡を保ったように思う。

それでも四十数年を経てなおあの時のことを思い出すと,心の奥の方に何か小さな棘が刺さっているような,かすかな痛みを覚える。恥ずかしさ・悔しさ・悲しさ・困惑――複雑な感情がまだ燻り続けている。そして,その時の自分を,まだやっと七歳の,おかっぱ頭で白いブラウスにひだスカート姿の自分を,哀れに思いながらも,愛おしく見つめるのである。(鋼の心臓となったオバサンにもこんな時代があったのだ!)

さて,生徒に話をもどす。「何にも感じてないこともないだろうに」「どんなこと思って毎日過ごしているのだろう」「心の機微なんて,わかるようになるのだろうか」と私に首をひねらせているこのギャングエイジたちにも,日ごろは意識していない心の奥底に様々な感情が眠っていて,大人になった時にふと思い出し,ああこんなこともあったなあと懐かしくほほ笑む,あるいは切なくなるものがある――と思いたい。

ならば今,自分の心に問いかけその有り様を見つめるためにも,作文の課題について「ないない」とばかり言わずに,今一度よくよく向かい合ってほしいものである。「書く」ことは,自分の生活を見つめ直し,自分という人間を捉え直す作業でもあるのだから。
[PR]
by terakoya21 | 2014-01-10 10:11 | しろこく's Page

しろこく's Page ・・・the Power of Japanese・・・ (てらこや新聞100号 川戸さんのコーナーより)

「オバサンは野望を抱く」 白子国語教室主宰 川戸恵子(しろこく)

「難しいんじゃない?」

数年前,作文と読書を中心に国語を教える塾を開こうと考えている,と周囲に言うと,大抵そう言われた。国語だけで生徒が集まるのか,算数とセットにして教えてはどうか,などの「まっとう」なご助言と共に。

しかし,私は国語一本に絞る考えを変えるつもりはなかった。算数・国語を教える塾にしてしまうと,点数化しやすい算数に否応なしに時間が割かれ,国語が疎かになる。そうはしたくない。読書の面白さと作文の楽しさを教える塾が,この辺りにも一つくらいあったっていいではないか――。

なぜ,作文と読書にこだわったのか。小学低学年段階からこの二つをしっかり鍛えれば,他の学習の力は自然とついてくる。そう信じているからである。もちろん,学習内容が難しくなれば,相応の努力も必要になってくるが,その時に支えとなる力は,それまでに培ってきた理解力・論理力・追究力などだと思う。これらは国語の力を抜きには考えられない。そして,その力の土台を育てるのは,読書と作文だ。それを土台に,読解力や表現力のみならず論理的思考力や発想力をつける塾にしたい。――我ながら,大きな夢を抱いたものである。

c0115560_10455855.jpg最近は,「国語はすべての教科の基礎」という謳い文句をあちこちで見聞きする。国語力(語彙力を始め,理解力や文章力,コミュニケーション力など)の低下が嘆かれ 出してから,「国語力をつけよう」という声が上がり,指南書や小中学生向けの問題集が多く見られるようになった。

そして次に,国際学力テストで知識面はともかく思考力や表現力が弱いとわかると,「では考える力をつけましょう」となる。だが,今の教育システムと社会,家庭では,「考える力」を育てるなど,なかなか難しい。そもそも,日ごろの生活で「考える」必要に迫られる場面など,どれだけあるのだろうか。今の社会は便利で快適。難しい事を考えなくても,そこそこの生活はできる。「数学できなくても生きていけるし」「元素記号知らんでも困らんし」とうそぶく生徒もいるだろう。「国語できやんでも日本人やし」と開き直ることもできないわけではない。普段話している言葉で時と場合を選ばず喋り,メールなどを打って,生活ができているのだから。

しかし,「国語ができない」とは,「母国語での読み書きが危うい」ということで,もう少し言えば,思考することを放棄しているのと同義ではないかと思う。思考形成がなければ人格は育たず,人間として未熟なまま徒に齢を重ねるだけである。そんな人間が増えるなら,オバサンとしては老後の我が身を置く日本の将来に不安を感ぜずにはいられない。

「国語」には,様々な要素がある。学校での評価項目の「話す・聞く・読む・書く」などの所謂「国語科」の側面は当然あるが,その人の生活態度が表れてくる「国語力」もある。何を見,どう考え,どんな話をするか,どういう言葉で文章を紡ぐか。それは生まれてからその人が辿った言語活動の軌跡であり,その人を取り巻いている文化的環境を表すものでもある。教養の部分もある。長年かけて積み上げてきた知性でもある。

自覚的に自分の人生を歩むためには国語の力は欠かせない。その人が意識するしないにかかわらず,その人の持つ国語力は,いつも言動の底にあるのだ。

言葉はその人の思考を表し,思考は人格を表す。そして,人格はその人の生き方に関わってくる。「国語力で,人生変わる」のである。

読書と作文。この二つは,どちらも能動的に自分で行わなければ結果は見えてこないものである。テレビやゲームと違い,自分から働きかけなければ,与えられるものはない。しかし,これほど深い愉しみが味わえるものも他にない。読書は未知の世界に飛び込むことができ,心を耕してくれる。先人の叡智にふれ,知的興奮が得られることもある。作文は,対象を観察したり,書きながら自分に問いかけたりする。書くことによって,それまで気づかないでいた自分の考えに気づかされることもある。読書も作文も,自分の内面を充実させてくれる知的活動なのである。

c0115560_10461337.jpgもちろん,どちらも刺激に乏しい地道な活動であり,孤独な取り組みでもある。忍耐力が必要でもある。しかし,この内面での作業こそが,その人の人生を支える柱になるだろう。この知的活動に,小さなうちから慣れ親しみ,自分の頭で考える力をつけることが,自分の未来を切り拓く力につながるのではないか。

詰め込み式に覚える時期があってもよい。知識のない所には発想も生まれないからだ。しかし,「いくつかの選択肢から正解を選ぶ・当てる」という課題をこなすだけでは乗り越えられない壁が出てくる。その時に,助けてくれるのは,幅広い知識と深い思慮,様々なことに想いを馳せられる鳥瞰力,そして想像力と創造力だと思う。そういう力をつけた人が増えていくと,世の中が変わるのではないだろうか。自分の範囲3メートル以内かネットの人間関係というような狭い範囲での関心から解き放たれ,もっと遠いところを見つめて動ける人が増えていけば――。オバサンの老後を送る社会が明るいものになるのではないか。

社会的に・未来的に,有為な人材を育てる。それには国語の力が欠かせない。

「しろこくさんって欲がなさそう」と言われることが多いが,とんでもない。「国語の力で未来を 創る」という取り組みを細々と始めているのだから。これを野望と私は呼ぶ。
[PR]
by terakoya21 | 2013-08-07 10:47 | しろこく's Page

英語塾の寺子屋かめいの元気を発信します


by terakoya21
プロフィールを見る
画像一覧