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寺子屋の日々 ~ Days in Terakoya ~ (てらこや新聞137号 亀井のコーナーより)

~ Some people feel the rain. Others just get wet. ~
~ 雨を感じる人もいれば、ただ濡れるだけの人もいる ~


「世の中の8割、いや9割の人が、あなたみたいにいつも考えてはいないことに、そろそろ慣れたほうがいいよ」と・・・先日、東京で会った親友に言われた。

知ってはいる、頭ではわかってはいるけれど、「慣れる」ことがなかなかできない。

いろいろなことを感覚的に捉える人が増えているんだな…と日ごろ生活の中でも、じわじわと、ヒシヒシと、切実に感じる。その実感と比例するように、最近の子どもたちには、一つの物事についてじっくりと考えることや、段階を経て考えることが苦手な子が増えている。だから簡単に、「そうだから」と納得するわけにもいかないのだ。

先日、「学歴」についての話題が出ていた。

私にとって「学歴」は、少しだけ自分の進む道を楽にしてくれるものだったと思う。「東京外国語大学卒」も、「アメリカの大学院卒」も結局、私が田舎で仕事をするとき、大いに役立ち、チャンスを与えてくれたもの―。でも、その一方で、この学歴は、自分が何かの努力を怠れば、今まで「東京外国語大学卒だから」、「アメリカの大学院を出てるから」だった評価が、「東京外国語大学卒なのに」「アメリカの大学院まで出ているのに」という評価に変わり、足かせとなるものでもあった。
そのことを、私の両親をはじめとする周囲の年長者たちは、私が人生の歩みを進めるにあたってしっかりと諭し、教えてくれていたように思う。

けれど、今、子どもたちの周囲にいる大人たちはそれをしない―。それができる人が少なすぎるのかもしれない。

そして、多くを「学歴」のせいにする大人が多いようにも思う。「東京大学卒なのに」・・・そう言い放つ人に自分自身が東大卒の人はいないと思う。一方で、良いと言われる大学―たいていが入学者の偏差値の高い大学とされる大学―に行くことを子どもたちに勧める人も多い。

昔から、おそらく「東京大学」を卒業しても、仕事のできない人も、コミュニケーション力が足らない人も多くいたのだと思う。そして、かつては、それを人々の多くが、「東大卒だから」(凡人にはわからない?)を「納得する」方法として使っていたのかもしれないとも思う。

私の祖父は東大卒の医者で、医者としては優秀だったし、人のために何かをすることを厭わない心の優しい祖父だったけれど、彼の武勇伝は、おそらく今なら、「コミュニケーション力」が足らないと言われるものかもしれないと思うものが多い。けれど、人々はおそらく「東大卒だから」と許し、愛されていたのだと思う。

しかし、今は「東大卒なのに」が先行しているように思う。それには、いくつか理由があるけれど、1つは、大学の評価が入学時の「偏差値の高さ」で決まると思っている人が多いこと。そして、何も考えずに偏差値の高い大学を選ぶ傾向があることである。

大学だけではなく、学校の評価は、本来、卒業生の活躍で測られるものだと思う。そして、その活躍は、平凡なものがほとんどで、その積み重ねが、大きな評価となっていくことを多くの人が忘れていると思う。以前、コマーシャルにもあったけれど、ファインプレーは、難しいことを華々しくするのではなく、平凡なことを何気なくきちんとすることである。

そして、仕事のできない人やコミュニケーションが苦手な人は、どんなグループにもいるのだと思う。それを多くの人が忘れているように思えてならない。

それを、「一流大学卒なのに」と見るのか、その人個人の力と見るのかは、受け止める側の問題だ。また、大学を出ただけで完成した人間が出来上がるわけではなく、人は日々、経験と周囲の人々とのかかわりで成長しているとすれば・・・その人となりを「学歴」ばかりで見ているのは、見る側のほうの問題が大きいように思う。

一方で、「学歴」が足かせになることも事実―。「先生」と呼ばれる者の端くれとして、私は、これからを生きる若者たちには、現実をしっかりと伝えていきたいと思う。

私は、いちいち、1つの話、1人とのかかわりで、これだけのことを考え、自分の意見をまとめるのに、何日も、何週間も、何ヶ月も、何年もかけていく―そりゃ、そろそろと言われても、「世の中考えない人のほうが多い」ことに慣れるのは難しい(^-^;。

。。。と・・・友人への言い訳に、1つのエッセイを使ってしまうわけである(笑)。
(Y.K)
by terakoya21 | 2016-09-05 08:30 | 寺子屋の日々

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