寺子屋の日々 ~Days in Terakoya~ (てらこや新聞123号 亀井のコーナーより)
2015年 07月 04日
~ 謙虚であること ~
若者たちの事件が続いている―。そして、その加害者と呼ばれる人々への罵詈雑言がインターネット上ではあふれかえっているのを見たり、読んだり、また、ときどき友人たちを含む同世代の人々と話をしていて、「最近の若者は怖い」とか「子どもたちを見ていると先が恐ろしくなる」と言うのを聞いたりすると・・・私はいつも、「それは違うだろう」と思ってしまう。
子どもたちは、社会の鑑だ。子どもたちの言動はそのまま、大人の言動を写す鏡である。そして、加害者と呼ばれる若者たちを育てたのは、私たちの住む「社会」なのである。その反省から始めなければならないと思うことが多い。
子どもは、学校でだけ教わり、親だけに育てられるわけではない。若者は、学校だけで学び、親だけに教えられ育ってきたわけではない。
そして、彼らは、私たちの未来である。
日頃は、子どもたちに甘く、優しいふりをしている大人が、1つ間違いを犯すと突然、きついことを言ったり、冷たくなったりする世の中で、子どもたちは希望を見出し、人を思いやり、将来を築いていくことができるだろうか。
日頃、厳しく彼らに接して、彼らが引き起こす問題や過ちを一緒に反省する優しさを大人が持つことができたとしたら・・・彼らは自分たちの未来にも希望を見出し、少し広い目で、人を思いやることや、結果を想像することができるようになるのではないかと思うのは、私の甘い幻想なのだろうか。
もちろん、私たちが、社会で起こる事件や事故を目の当たりにするときには、他人が犠牲になり、事が大きくなってから・・・。それでは許すこともできない事件や事故になってしまっていることが多いけれど、どの事件も、どの事故も、その前に何度も、大人が食い止めるもしくは、被害を少なくすることができる機会があったように思えてならない。
その反省を持って・・・私は、目の前の子どもたちと接していたい。日々、そう思う。
一方、子どもたちの傲慢さにときどき、「やってられない」と感じることも多くある。自分たちが「知らないこと」が当たり前であるような態度だったり、自分の間違いも、勘違いも全て人のせいにしたり・・・。 およそ学ぶ態度ではない生徒が増えている。
あるとき、先生に苦言を受けた生徒がいた。それは、先生が、彼、または彼女のために大人として、経験を積んだあとに、呈した苦言であるのに、彼、または彼女は、「でも、その先生もいつも、こういうところがあるんです!」という少し論点のずれたことで、先生の日頃の不快な行動を論うのだ。
先生の日常の不快な行動をここで論ったとしても、彼女または彼の忠告を受けた行動が、正されたり、取り消されたりするわけではない。不快感も、憤りも理解できるけれど、それは、友だちと言い合えばいい「愚痴」であって、大人に分かってもらえると思って 話すことではない。それは、大人に話してしまうと、将来自分に戻ってきたり、「この子には何を言っても無駄かもしれない」と聞いた人があきらめられたりするきっかけとなる。
でも、彼らのほとんどが、それが自分に損をさせる態度であることを教えられずに育ってきたのだとすると、子どものうちは、その言動は彼らの責任ではない。ただ、彼らが年を重ねれば重ねるほど、 そんな言い訳は通じなくなり、困るのは彼らである。
The first test of a truly great man is his humility.
本当に偉大な人の試金石は、「謙虚さ」である。
(ジョン・ラスキン・イギリスの美術評論家・思想家)
このところ、「謙虚さ」が私の子どもたちと接するときのキーワードだ。自分が謙虚になることが、学びを増やし、経験を積み、そして愛されるための秘訣である。それは、子どもたちだけではなく、大人たちにも言えることだと思う。私も日々、気を付けていきたいと思っている
(Y.K)