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旅日誌 (てらこや新聞111号 海住さんのコーナーより)

第28回
プラハ宿の西豪米人たち(チェコ)


ユースホステルの部屋に入ると、「オラ!」(スペイン語の「こんにちは!」)と挨拶してくる女性がいた。どうやら、このユースホステルのドミトリー(相部屋)は男女一緒の部屋らしい。チェコは、オランダ、オーストリアに続いて、ヨーロッパではまだ3か国目だったので、西洋式旅事情はさして会得しているわけではなかった。が、このようなことはけっこう頻繁にあることはのちに知った。

ドミトリーには二段式ベッドがいくつか置いてある形式から、ホテルの部屋のようにセミダブルのベッドが数基ゆったりと空間をとって配置してある一見、ユースホステルらしくない部屋まであった。プラハの宿は後者のほうで、セミダブルのベッドが4つあった。わたしが泊まった初日は、「オラ!」という挨拶をしてくれたスペイン人女性 2人とわたしの3人だった。

バックパックを担いで旅に出ているのはオーストラリア人やカナダ人、ドイツ人、イギリス人に多く、たまにアメリカ人がいた。イタリア人やスペイン人、フランス人を見かけることはなかった。それだけに、スペイン人女性と相部屋になるという確率はきわめて低いはずだ。

部屋はいっしょになったけれど、彼女たちはスペイン語以外できなかったし、わたしもスペイン語はわからないので一晩いっしょでもコミュニケーションは「オラ!」と笑顔ぐらい。それでも、彼女たちは、部屋の外にあるシャワー室に行くとき、わたしが部屋歩き用にタイで買ったゴム草履を使わせてほしいと言ってきた(旅の日用品は、安い屋台で買っておくと役立つものだ)。

次の夜、部屋に戻ると、彼女たちはチェックアウトしたあとで、代わりに、ロンドンで体育の教師をしているという、筋肉むきむきのオーストラリア人の男が1人いた。

この旅に出た1995年当時、プラハの新市街はほんとうに静かというよりか、パタッと時間が止まっているようだった。

わたしが宿泊した新市街は、美しい町並みの残る旧市街から地下鉄で数駅遠ざかったエリアで、地下鉄の駅からユースホステルまで歩く数百メートルの間は、社会主義時代に建設された無機質な長方形をした高層住宅ばかり立ち並び、昼間でも歩いている人はいなかった。たまに人を見かけても、さして面白い商品があるわけではない商店のショーウインドウをしばらく覘き込んだまま動かない黒っぽいジャンパー姿の中高年の姿ばかりだった。

筋肉むきむきのロンドン在住オーストラリア人といっしょに 夕食を兼ねて旧市街に出掛けることがあった。観光客でにぎわう旧市街でも夕方6時を過ぎれば人通りはなく、深夜の街歩きしているような錯覚にとらわれた。「ロンドンじゃ、もっと、にぎやかだ」。この男の大声しか、街にはなかった。

「ユースホステルまで歩いて帰るか」。地下鉄で数駅ある距離であるが、歩き始めた。オーストラリア人体育教師の大股歩きに、「Are you struggling?(きついの?)」と言われながらもふうふうあとを追い掛けた。こんなところで一人になったら道を聞く人もいないし、クルマも走っていない。無機質な建物だけが建っているだけだ。時計を見るとまだ6時半だというのに。ロンドンと比べるまでもない静けさだ。山の中の静けさとは違う。人工的な、音のない世界だから、違和感がある。

ユースホステルに帰ると、一階のロビーから、CNNテレビの、パリパリのアメリカ英語が大音響で聞こえてきた。日常世界に帰ってきた。パリパリのアメリカ英語が懐かしい。

しかも、頻繁に「Kobe(神戸)」という言葉が耳に飛び込んでくる。

「9か月前の1月17日の阪神大震災に遭った神戸のプロ野球チーム『オリックス・ブルーウェイブ』が日本シリーズを制した(10月26日)」というニュースだった。飛び跳ねて歓喜するイチローら選手のユニホームの袖口には「がんばろう KOBE」と書いてあった。良いニュースが日本から入ってきた。

テレビの前に、コインランドリーから持ち帰ってきた洗濯物をどっさり抱えた、体のがっつりとデカい黒人のアメリカ人がいた。

日本にもいたことがあるという彼は、プラハにもう半年も住み ついているという。この街について、この“界隈”では一番のもの知りだ。

「俺のこと、知っている?」。

はあ?と思っていると、「この宿に泊まっているんだろ?ここにいて俺を知らないの?」と、まるで主(ぬし)のように話している。

早口だが親しみやすい笑顔がこぼれていた。

(1995年10月26日)
by terakoya21 | 2014-06-29 06:30 | 旅日記

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