しろこく's Page ・・・the Power of Japanese・・・(てらこや新聞105号 川戸さんのコーナーより)
2014年 01月 10日
白子国語教室主宰 川戸恵子(しろこく)
作文の題材のことで,ある小学3年の男子生徒たちに質問した。
「うれしかったこと」は?すると「特にない」「思い出せへんわ」(そんなことないでしょ)では,「ほめられたこと」は?生徒「あったかなあ」「ないわ」(私,前に君のことほめたやん!)ではこれはどうだ!「困ったこと」は?生徒「え~そんなんないよ~」(困ったことがないというのは羨ましいねえ)「でも,作文で『書くことがない』って今困っているのとちがう?」「ううん,困ってへん」(えっそうなん?)
「恥ずかしかったこと」は?「そんなんない」「みんなの前で発表して照れくさかった~なんてことあるんじゃない?」「ない」(そんなに度胸あるの?)
――という,ないないづくしの,なんとも情けないやりとりがしばらく続くことになった。
唯一「ある」という答えが返ってきたのは「しかられたこと」。「これならいっぱいある」という。しかし,どんなことで叱られたのか,そのときどう感じたのかは「もう忘れた!」そうだ。「お母さんにしかられすぎて,おぼえてない~」という。
本当はいろいろあるが,何を言えばいいのかわからないのかもしれない。私には言えないことだってあるかもしれない(小3とはいえ「知られたくない」気持ちはじゅうぶんあるに違いない)。もし言葉通り本当に思い出せないなら,それはそれで幸せな ことかもしれない。しかる方のお母さんにしてみれば何とも情けない話だろうが,子どもの心に傷として残らない叱り方だったということで,まあいいではないか。と思う。が――。
本当にそれでいいのだろうか。生徒たちと話していて引っかかりを覚える。近頃の子どもは感情が希薄になっているのではないか。この子たちは一体どういう感情ならその身の裡に長くとどめておけるのだろうか。生徒の口からよく聞く「何も感じなかった」「全然考えていない」というのを私はどう受け止めればよいのか,戸惑うことがある。
近頃の子に心の動きを感じることが少なくなっていることを憂えるのは,私だけなのだろうか。飛び上がらんばかりの喜びも,やりどころのない哀しみも,消え入りたいほどの恥ずかしさも。いや,そんな大きな気持ちの動きでなくとも,ささやかな心の動きも。日々を送る以上私たちには様々な心の揺れがあり,子どもでも当然日々いろいろな感情と向き合っていると思うのだが…。自分では意識せず,また表現する術がないだけというなら,まだよい。時間の経過とともに,やがて「あの時の感情はこういうものだったのだ」と気づくことができる。
こんなふうに現代っ子を心配する私だって,劣らずぼんやりとした子ども時代を過ごしていたと思う。それでも未だに忘れられない「恥ずかしい」ことは覚えている。
小学1年生の図工の時間のことだ。折り紙を何回か折り,はさみで切りぬきを作る。開ければきれいな図形ができる。それを黒い画用紙に貼る。いくつか貼れば「花火」という作品が出来上がる――という課題であった。
自分で言うのもなんだがこういう細工は好きで,かなり細やかな模様を作り上げていた。途中で回ってきた先生によくできているとほめられたほどだった。が,そのあとがいけなかった。
どうみても雑な形にしか作れない子がその形の周りを白いクレパスで縁取ったのを先生に見せに行き,先生がそれをほめた。大人になってから思えば,稚拙な図形を見るに見かねた先生が,少しでも見栄え良くなるように助言されていたのだろうと考えられる。しかし7歳の私は先生がみんなの前でほめたのだからその方法はいいことだと信じ,自分の作品の折り紙で作った形の周りにやはり白いクレパスで縁取りをし,意気揚々と先生の所に持って行った。すると,ほめてくれるどころか先生は「作品が台無しになってしまった。アホやな,こんなことして」と高く掲げてみんなに見せた。
なぜあの子のクレパスはよくて私の白い縁取りはいけないのか,その時の私にわかるはずもなく,ただただ恥ずかしかった。みんなの前で「アホ」呼ばわりされたことも,人真似をして自分の持ち味を失わせてしまった(当時はこんな言葉では考えていなかったが)ことも,悔しくて悲しかった。――が,それを私はすぐに心の奥に封印することで,その頃の気持ちの均衡を保ったように思う。
それでも四十数年を経てなおあの時のことを思い出すと,心の奥の方に何か小さな棘が刺さっているような,かすかな痛みを覚える。恥ずかしさ・悔しさ・悲しさ・困惑――複雑な感情がまだ燻り続けている。そして,その時の自分を,まだやっと七歳の,おかっぱ頭で白いブラウスにひだスカート姿の自分を,哀れに思いながらも,愛おしく見つめるのである。(鋼の心臓となったオバサンにもこんな時代があったのだ!)
さて,生徒に話をもどす。「何にも感じてないこともないだろうに」「どんなこと思って毎日過ごしているのだろう」「心の機微なんて,わかるようになるのだろうか」と私に首をひねらせているこのギャングエイジたちにも,日ごろは意識していない心の奥底に様々な感情が眠っていて,大人になった時にふと思い出し,ああこんなこともあったなあと懐かしくほほ笑む,あるいは切なくなるものがある――と思いたい。
ならば今,自分の心に問いかけその有り様を見つめるためにも,作文の課題について「ないない」とばかり言わずに,今一度よくよく向かい合ってほしいものである。「書く」ことは,自分の生活を見つめ直し,自分という人間を捉え直す作業でもあるのだから。