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寺子屋とともに Time with Terakoya (てらこや新聞99号 かめいのコーナーより)

~ Society 社会 1 ~

先日、生徒と話をしていて、私は、またも「意地悪」だと思われるような発言をしました。しかし、これは、大学時代の友人に、もう20年来言っていることです。

「私は変わっているけれど、変じゃない!」と主張する生徒に…

―おそらく、他の人が「変じゃない」と思っている人は、「私は変じゃない」と主張する必要に迫られることはない…だから、その主張をする必要があるとあなたが感じた時点で、あなたは、少なくとも他の人から見て、「変だ」と思われているということだと思う―と。

ただ、私は、「変である」ことが悪いことだとは思わないし、彼女は彼女のままで好きであることを付け加えました。

今、子どもたちに勉強を教えていて…社会の在り方が、大きく彼ら、彼女らの思考や学習能力に影響を与えていると感じずにはいられません。話が飛躍しているようにみえるかもしれませんが―生徒たちの主張に、相手の求めるもの、他の人の存在が含まれなくなり、自分たちの社会的役割を考えない態度がこれほどまでに現れ、それと同時に学力がどんどん低下しているように感じられるようになっています。それは、大人たちの思慮のない普段の言動が大きく影響していると思うのです。

…私は「てらこや新聞」9号ですでにそのことを…「小母さん」という言葉への人びとの妄想について語ることで伝えたかったようです。

小母さん

2005年11月松阪のローカル紙の取材を受けた。一時間半ほどの楽しいインタビューだった。しかし、記事掲載当日、紙面を見て私は絶叫してしまった。

さんじゅうよんんさい???」と・・・。といっても、当時私は33歳と11ヶ月と1週間・・・つまり、1ヶ月もしないうちに誕生日を迎え、「34歳」になることになっていた。だから、なんとも大人気ないというか、些細なことだったのだけれど・・・。

私は、いつも年齢を意識して生活している。一方で、19歳で高校を卒業し、21歳で「叔母」になった私には、生徒や同級生に「おばさん」呼ばわりされるいわれはないが、一般的に「おばさん」と呼ばれることや「年増」だと考えられることに抵抗はない。しかし、自分が年相応の知性を持ち、社会貢献できているかを毎年問い直しながら誕生日を迎え、一年を過ごしたいと思っているから、年齢は大切なのである。だから、よく考えると、このときの「34歳」の文字は私が「34歳」のイメージをしっかりと抱けていなかったことに気づくきっかけとなり、残り三週間、ゆっくり考える時間を与えてくれたようにも思えた。”Everything happens for a reason.(人生の出来事全てに理由がある。)”というのもまんざら嘘でもないらしい。

ということで、私はこの後すぐ34歳になった。子どもたちには「おばさん」と呼ばれる年齢だろう。また、私はすでに4人の子どもの「叔母さん」である。そこで「おばさん」の意味を調べてみた。

小学館の大辞泉によると「おばさん」は「よその年配の女性を親しんでいう語」であり、「子どもに対して、大人の女性が自分をさしていう語」だという。また、「叔母」は父母の妹、「伯母」は父母の姉で、「叔母(伯母)さん」はその人たちを「敬い親しんでいる言葉」らしい。なのに、なぜ、「おばさん」と呼ばれることを嫌がる人が多いのだろうか。

英語講師の観点からみても、これは子どもに少なからず影響を与えていると感じる。「aunt」という英単語の意味は「おば、おばさん」だ。日常生活で「おばさん」と呼ぶことを避けさせられている彼らは、「はて?誰のことだ?」と考えるのである。「そんなばかな!」とおもうかもしれないが、実際今までに授業で何度か説明をしている。自分と親しい相手がどういう関係にあるのかを一般的に説明できない子が毎年増えている。

大人の女性が自分たちを「おばさん」と呼ばせないことは、今の世の中を象徴し、個人の延長上に社会があること、自分の社会での役割を忘れている人が多いことを表していないだろうか。「おばさん」と呼ばれる存在になるということは、社会で長く生きた証拠であり、誰かの「おば」になることは、たいていの場合、自分も近く親になってもおかしくない年代だということである。

よその「おばさん」を漢字で書くと「小母さん」だ。社会が「小母さん」という言葉を気にせず使っていた時代には、大人は、自分の子である、ないに関わらず子どもたちに責任を持って接していたということをこの漢字が物語っているように私は思う。大人の社会での責任の所在がいつもないがしろにされる中、子どもたちの希薄な人間関係の現状があると思うのは、私だけだろうか。身近な人間関係においてすら、大人が自らの責任を果たそうとせず、子どもたちに気を使わせている世の中で、子どもたちが人間関係を学ぶのは難しいに違いない。

年齢は、自分の生きた年月を数えるものであるのに加えて、自分の経験や知識の豊富さを物語るべきものである。そして、年々責任は増していくのである。そのことを子どもたちには知らせておきたいし、覚悟してほしい。同時に、責任が増えるということは、自由も増えるということを意味して、それほど悪いことではないことも・・・。

最後に・・・「年増」の意味を調べてみた。「娘らしい時期を過ぎて、やや年をとり、女ざかりとなった女性(三省堂・例解国語辞典)」「娘盛りを過ぎて少し年をとった婦人。近世には20歳前後をさしたが、現代では30歳から40歳くらいをいうなど、年齢は時代によって若干前後する(小学館・大辞泉)」。また、20歳を過ぎ、28から29歳までを「中年増」、それ以上を「大年増」というらしい。「年配」は40歳(中年)以上を言うらしいので、まだ「おばさん」ではないことを発見した私も、結局「大年増」ではあるらしい。(第九号 2005年12月「寺子屋の日々」より)

最近、長い間寺子屋に通う生徒に、「先生、いくつになった?」と聞かれ、答えると「えぇ、先生はなんか、33歳から年をとってない、私の中では・・・」なんていわれることがありますが、生徒たちへの私の思いもあまり変わっていません。卒業した生徒の多くが、なんだ、かんだと節目、節目に、また、寺子屋に立ち寄ってくれることや、一度通い始めると10年も通ってくれる生徒がいることを何よりも嬉しく思う反面、可愛かった彼らがどんどん大人になっていくのに、一抹の寂しさを感じます。という私も、このエッセーを書いてからすでに7,8年、気がつけば5人の叔母になり、また「小母さん」(40代)の域に入っています。

(Y.K)
by terakoya21 | 2013-07-15 00:15 | 寺子屋とともに

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